38.野薔薇の棘——金貨は村を巡る
村の往診に行く途中だったらしいドクター・ペンローズと、村のホブズアンドサンズというパン屋の前で私は鉢合わせした。
ドクター・ペンローズは、やや古びたフロックコートを手に持ち、白シャツに深緑のベストを身につけ、実用的なクラバットをしていた。膝丈ブリーチズに乗馬ブーツを履いている。レッドワイク伯爵家御用達の医師だ。
レッドワイク伯爵家とホーソーン男爵家、村の人々を区別なく診てくれる医師だった。前の人生でレッドワイク伯爵夫人となった私も何度か診てもらったことがあった。アーニャもきっとそうなのだろう。
診療道具の入っている革鞄を手に持ち、折り畳み眼鏡に懐中時計と、痩せ型に鷲鼻の彼は、いつ見ても変わらぬ姿だった。
「おっとっ。これはホーソーン男爵のところのお嬢様、そんなに急いで何か父上にありましたか?」
「いえ、今日は嬉しいお知らせです。父の容体は安定しました。ロンドンで薬も買えましたの。ドクターには先日分けていただいた薬代と診察料をこれまでのツケも含めてお支払いいたしますわ。助言いただいた通り、支払いの目処をつけましたわ。4ポンドお支払いいたします。ありがとうございました」
私は金のマリーゴールドの刺繍の小袋から4ポンド取り出して、ドクター・ペンローズに渡した。
「そうですか。わかりました。とても素晴らしいことです。それにしても、奥様そっくりになられましたね」
ドクターの灰色の瞳の目元は優しい愛情に溢れていた。
「また、何かありましたら、いつでも呼んでください」
「ありがとうございます。どちらに往診に行かれるのでした?」
「ミラーさんの所ですよ。おじいさんの具合が悪くてね。心配なので、診に行く所です」
「あら?私たちもですよ」
グレイとドクター・ペンローズは初対面ながら、なかなか話が弾んでいた。
ドクター・ペンローズの家はホブズアンドサンズのパン屋の4軒となりだった。思えば、少女時代からよくパン屋に来ていた私とアーニャは、この家の前を何度も通ったものだ。石垣の向こうには、窓辺に乾かされた薬草が吊るされているのが見えた。庭にはセージとローズマリー、ペパーミントが風に揺れていた。
ブライアコームの村はずれのミラーさんの家を訪れるのは二度目だ。日曜日にホロウェイ夫人と尋ねて来た時にいた5歳の男の子は、低い天井で煙突付き暖炉のある素朴な家の前で遊んでいた。私を見るなり「いちごのお姉ちゃんが来た!」と母親を呼びに行ってくれた。
「今日はお父さんに用事があるのよ」
私の声で、ミラーさんが出てきた。
深い皺の刻まれたミラーさんは、慌てた様子で飛び出してきた。
「お嬢様っ!食料をいただいてありがとうございました!」
私は首を振り、「お互い様よ」とした。
ミラーさんは、グレイを一目見るなり、日曜礼拝堂で女にだらしないレッドワイク若伯爵からホーソーン男爵家の長女を救い出したヒーローだと分かったようだ。満面の笑みでグレイに挨拶をし、グレイも爽やかな挨拶をした。
「今日はお願いがあるの」
小袋から4ポンド取り出した。ジャックの分もあるのだから、まずは4ポンドで話をつけたい。
私は金貨をミラーさんの手に手渡した。
「ホーソーン家の再興をかけて、勝負に出たの。人手が足りないの。人を集めてくださるかしら?」
金貨がミラーさんの掌に落ちた。彼は熱い灰でも握らされたかのように、思わず手を引いた。ミラー夫人がヒュッと息を飲む音がした。
私の顔は真剣だった。隣に立つグレイもうなずいた。
「秘密の話をしたいのだけれど、少しいいかしら?お父様からも、あなたに人の相談をしたらいいとアドバイスを受けているの」
ミラーさんは、手の中の金貨を信じられない様子で見つめた。
「勝負に出た……?ホーソーン家がですか?」
「そうよ。私はもう契約したの。契約金からそのお金をお渡ししているのよ」
ミラーさんはふうっと大きく息を吐いた。
そうだ。
誰しもが、腹をくくらなければならない瞬間がある。
「やりますよ……ホーソーン家には世話になった。今度は俺たちの番です。具体的には何をすればいいのですか?」
私たちは、村はずれのミラーさんの家で、話をまとめた。ギデオンが今晩、大荷物を抱えて夜の闇に紛れてやってくること。その運び込みを手伝って欲しいこと。今月分と来月分がその4ポンドでなんとか賄って欲しいこと。軌道に乗ればもっと払えること。
ドクター・ペンローズも人夫の人選に口を出してくれた。あそこのあの人は体が丈夫で力がある。あそこの家は病気の妻を抱えて、金に困っているから、きっと全面協力するだろうとか。
前回の人生で、私は失敗した。
レッドワイク・ホールを素晴らしく修復したが、ブライトンのお高い業者に仕事を回したのだ。今度の人生では、必ず村に仕事を落とし、金貨を循環させようと誓っていた。
ひとしきり話がまとまると、ドクター・ペンローズはミラーさんの父親の診察をするために家に残った。
「明日はまたいちごを持ってくるわ!」
私は5歳の子供に約束して、グレイとミラーさんと一緒に私は村はずれの家を出発した。
「さあ、朝のうちに村を一回りして仕事をお願いするわ」
前回の人生では、村へはパン屋ぐらいしか入り浸っていなかった。しかし、今日の私はミラーさんの案内で、藁葺き職人、屋根職人、石工、鍛冶屋、車大工、荷車職人、石灰焼き職人の家を回った。
ブライトンの職人ではなく、ホーソーン・マナーの修復はブライアコームの村の人たちに支えてもらうのだ。
「金さえ払ってくれりゃ、煙突でも鐘楼でも直す!」
皆が太鼓判を押す中で、さりげなくミラーさんが夜の倉庫の仕事を割り振り、前金を渡して行った。
村の中央の広場に集結してもらった私は、老大工のトビアスさんに14ポンド渡した。金貨を前払いで渡した瞬間、村の皆は顔を見合わせた。
「みなさん、ホーソーン・マナーの修復費用です。本当はこんな金額じゃ足りないのよ。でも、雨漏りがあちこちひどいし、早急な修復にまずは14ポンドお渡しします。今日中に、トビアスさんから仕事を割り振ってもらって、皆さんお金を受け取ってください」
グレイが私の横で口を開いた。
「ヒュー、ヒーロー登場だ」
「旦那、手が綺麗過ぎるんだが、釘を打ったことがあるのか?」
「……ない」
村人たちは楽しそうに爆笑していた。グレイは冷やかされて苦笑いした。
「ジャックがお昼にはホーソーン・マナーにいます。屋敷を皆さんで確認してもらいたいのです。ホロウェイ夫人とブリジットさんもいますから、今すぐに困っているところに集中して取り掛かって欲しい」
グレイの言葉に、皆が頷いた。
「まだまだ、毎月収入がある仕組みにしたから、皆さんには継続して仕事をお願いしたいの。今回はこの金額でできることをお願いしたいわ」
歓声が上がった。
私はこういうことに向いているのかもしれない。
「本気で村とホーソーン家を立て直すわ。でも、一人では無理なのよ。皆さんの力を貸して欲しいの」
「任せとき!」
「おぉ!ついに!ようやく」
「今晩も仕事がある者は休憩が必要だ。昼にはホーソーン・マナーに全員集合しようぜ」
「俺たちはやってやるぜ、アーニャお嬢様」
「あの泣いていたお嬢様がなぁ」
「奥様にそっくりだ」
こうして、前の人生ではしなかったことに私は着手した。
金貨は巡り、人は立ち上がる。野薔薇は一人では咲かない。




