37.野薔薇の棘——俺を忘れられるわけがない!
ブライア・ウッドの森を抜ける時に気づいた。セント・ジョンズ・ワートの真夏の黄色い小花が目に飛び込んできたのだ。夏の花が咲き始めていた。
初夏の兆しが満ちる小道をグレイと私は歩いた。
森の道の先の樫の木の影に人影があった。
次の瞬間、その声がした。
「アーニャっ!」
私はビクッとして足を止めた。
もはや、忌まわしい声だ。
青ざめたイーサン・レッドワイクが姿を現した。眠れていないらしい。リネンのシャツが乱れている。あれほど美しいと思った顔に、全く心を動かされなかった自分を褒めたい。
「村中の噂になっていますわ。私に話しかけないで。近づかないで。あなたはもう終わったのよ。シーブルック家はさぞご立腹でしょうね。身の振り方を考え直した方がよろしい状況ですわ。資金を出さないと通告されませんでした?」
私は冷たい声でイーサンに告げ、また歩き出した。
「待ってくれっ、嘘だろ……俺を忘れられるわけがない!」
――見苦しい。
私は今日は忙しいのだ。
ホーソーン・マナーとレッドワイク・ホールが近すぎるのが問題なのだ。レッドワイク・チェイスなど近づきたくもない森となってしまった。貴族にありがちな互いの領地が隣接している関係だが、両家とも財政破綻を迎えている。
――今度の人生では、私はホーソーン・マナーの方を復興させるのよ。あなたは邪魔よ。
「あなたなんか好きじゃないわ」
私は一言だけイーサンに冷たい声で告げて歩みを早めた。隣のグレイが歯軋りするような顔でイーサンを睨みつけていた。
私の言葉を受けて、イーサンは崩れ落ちた。
――崩れ落ちるならレッドワイク・チェイスにしてほしいものだわ。そんな村の森のど真ん中で崩れ落ちないでよ。
私はどこまでも冷たかった。
「イーサン・レッドワイク、分かるな?」
グレイの声が背中の方で聞こえて、私は思わず振り返った。
メガネを外したグレイが、森の土の上に崩れ落ちて、膝をついている状態のイーサンの上にかがみ込んでいた。グレイが自分の髪の毛を少し触ったように見えた。そして、家を出る時にしていた手袋を外した。
——印章?あの紋章は……どこかで見たことがある。
「あぁっ!ど……ど……どうして!?」
「妻のキャロラインを大事にせよ。今まで通り指一本触れるな。いいな?アーニャ嬢にも近づくな。忘れるな。私の言葉はお前の家の命運に関わる」
――そんな脅しがイーサンに効くと思えない……。
だが、イーサン・レッドワイクは膝をつき、泥に両手をついて平伏していた。先ほどまでの顔は死人のようだった。今は平伏しているので表情が全く見えない。
「お許しを。数々のご無礼をお許しください」
イーサンの耳に何かを耳打ちしたグレイは、私の方にメガネをかけ直して走って戻ってきた。
「さあ、村の医師のところに行くんだろう?急ごう。今日は盛りだくさんだからな。ギデオンに夜にどつかれるのは真っ平だ」
グレイの言葉に私もハッとした。
――そうだ。夜には資材が大量にやってくる。ミラーさんに人を集めてもらわねば……。
私は気持ちを切り替えて、もはや少女のようにブライア・ウッドの森を走り抜けた。
夏の光の差す森道を、私は振り返らず走った。
ドクター・ペンローズの元へ。私の人生はもうあの男の方など向いていない。




