36.野薔薇の棘——没落男爵家に朝が来た
土砂降りの夜が明けた。
朝には鳥の囀りが心地よく――屋敷には客人がいた。レース越しに差し込む陽の光は希望に満ちていた。
グレイは昨晩ホーソーン・マナーに泊まった。
「亡くなった奥様がよく客人に使われていた西側の客間を整えてあります。グレイ様がお嬢様を必ず無事に連れ戻すと言って飛び出して行かれたので、私とブリジットで整えておきました。幸い、昨日は快晴でしたので、寝具にも陽の光をあてられましたのよ。準備は整っております」
ホロウェイ夫人がそう申し出て、グレイは「納屋で十分」というのを無理やりに止まってもらった。
リディアが昨晩こっそり耳打ちした。
「お姉様、ブリジットとホロウェイ夫人の剣幕ったらすごかったのよ。あのお部屋を開けたのは久しぶりなのに、徹底的に掃除していたわよ。私はお姉様を送り出した後に、ブリジットとパンを焼いておいたの。お客様がいらっしゃると思っていたら、もっと沢山焼いておいたのに!」
可愛い妹のリディアは、キラキラした瞳で昨晩楽しそうに私に囁いたのだ。
「あのお方は、お姉様にぞっこんね!お慕い申し上げているのよ」
私の心臓はぴくりと跳ね上がった。なぜかカッと体が熱くなった。
「違うのよ。以前に港で知り合ったの。でも、とんでもなく親切な方なのよ」
私は正直な気持ちを妹に話した。
「ふーん」
リディアはそれ以上何も言わなかったが、エリスを連れて浮き浮きした様子で寝室に戻って行った。
エリスは眠いながらも、グレイの先頭に立ち、西側の客間を得意げにグレイに見せていたところだったのだ。
「ずぶ濡れのようですから、お着替えとお湯を用意しました」
ブリジットがお湯を運びこみ、清潔に洗われたリネンのシャツやブリーチズをホロウェイ夫人がグレイに渡していた。
その客間は埃一つなく整えられていた。ラベンダーの香り袋が良い香りを漂わせていた。
私は目が覚めてすぐに、グレイがこの屋敷内に宿泊していることを思い出した。
心が浮き立つ。今日の計画も最高のものだった。
「さぁ、忙しいわよ、キャロライン」
私は思わず独り言を言って、ベッドから勢いよく滑り出た。
男爵の薬に12ポンド使った。高価な薬を、ある程度まとまった量で買えたのだ。昨晩は夜遅すぎたので、男爵は眠ったままにしておいた。そもそもロンドン行きは、屋敷中で男爵には秘密にしていたので、男爵は知らないままのはずだったから。
残り88ポンド、緊急性を要する支払いを当てると決めた。
紙に向かって、私は使い道を書き出した。一日中二輪で揺られて帰ってくる間、頭の中で計算していたのだ。
昨晩、寝る直前に小机に向かって、紙に羽ペンで記したリストをもう一度見た。
出発前の日曜に、私が帳簿をあらためた時に計算した、ホロウェイ夫人、ブリジット、ジャックさんへの給金の未払い金は合計で9ポンド。それに今までの感謝を込めて1ポンドずつ上乗せして支払う。合計12ポンドだ。
朝食の後は、使用人への未払い金を払う。その後は村のドクター・ペンローズの所にお礼とツケの分の支払いに行かねばならない。今晩にはギデオンの荷物が運び込まれるはずだから、ミラーさんに人夫の相談に行こう。前払いで賃金を支払おう。
その後はブライトンの街に借金精算に行こう。私の計算した限り、2つは精算して2つは過払金回収する必要がある。回収の方は再計算するために明日以降にする。ブライトンの街に行くなら、ついでに妹2人の礼拝用にも使える外出着を仕立てる段取りをしてこよう。
――ジャックさんの上着とブーツの修理もしなければ。新品を買うわ。だって、あのおかげで私は身の危険を回避できたのだから。
――ホロウェイ夫人に湿布のお礼も言わなきゃ。
――屋根や建物で致命的な部分を補修しなければならないわ。これは村で手配をお願いしましょう。そうね、14ポンドに収まるように頼みたいわ。
書斎に行き、帳簿を改めた。再びリスト化した。88ポンドのうち、返す金、救う金、立て直す金。一枚も無駄にしないつもりだ。
100ポンドの内訳としては次のようなものだ。過去のツケの精算が主なものだ。
男爵の薬は12ポンド。最も急ぎなのはドクターへの4ポンド、使用人への12ポンド、高利貸しのジョナス・レジャーへの18ポンドだ。粉と塩のツケを合わせれば、16ポンドになる。屋根の修繕に14ポンド。妹たちの服に7ポンド。倉庫の人夫賃に5ポンド。
顔を洗って身支度をし、朝食の準備にキッチンに行くと、ブリジットがもう準備を整えてくれていた。
食堂には焼きたてのパンの香りが満ちていた。
「ブリジット、おはよう。月曜日の朝にリディアと一緒にパンを焼いてくれてありがとう。そして、今朝も焼きたてのパンの匂いがしているけれど……」
「グレイさんがいらっしゃるので、白パンを少量焼きましたよ」
ブリジットは頬を紅潮させ、丸パンをかごいっぱいに積んでいた。
着古したシャツを腕まくりした彼女は、キラキラとした瞳で私に誇らしげに囁いた。
「お嬢様がロンドンから無事に帰ってきてくださって、本当に嬉しいのです。亡き奥様が守ってくださったから、グレイさんのような素敵な方がお嬢様のお力になってくださったのだと思うと、私は本当に嬉しいのです」
卵料理、ベーコン少量、焼きキノコ、付け合わせに手作りの苺ジャム、バター、蜂蜜まで食卓に並んでいた。
飲み物はミルクとエールだ。なんと、ホロウェイ夫人が日曜の昼食にアップルタルトを焼いておけばと後悔していたが、今朝はアップルタルトまで準備されていた。
「あのね、お姉様。私がテーブルクロスをまっすぐに敷いたのよ。昨日は、ブリジットとホロウェイさんと一緒にアップルタルトを焼いておいたの」
振り返ると、エリスだった。庭の薔薇を積んできたらしく、エリスの手には薔薇が生けられた花瓶があった。それを食卓にエリスは飾った。
グレイが客間から姿を現した。扉が開いて、朝の光を背に現れたグレイは、とても爽やかだった。
「皆さん、おはようございます。おかげさまでぐっすり眠れました」
グレイの格好は洗い立てのなんでもないリネンのシャツにホロウェイ夫人が渡したブリーチズだ。借り物の服なのに、なぜか上品で誰より堂々としていた。
「おはよう、グレイさん!」
「おはようございます、グレイさん!」
妹たちが一斉にグレイに話かけて、食卓は一気に華やいだ。
男爵が姿を現してグレイを見つめて、驚いた様子だったが、とても嬉しそうだった。
「今日はご馳走だな、ブリジット。ありがとう。アーニャ、薬が効いたみたいだ。だいぶ良くなった」
「お父様、薬も十分にありますから、ゆっくり養生しましょうね。倉庫ですが、無事に契約できましたわ。あとで契約書をお見せしますね。もう何もかも大丈夫ですわ」
私は男爵の顔が驚きから、ゆっくりと笑みに変わるのを見つめた。
「そうか。そうか。だから、みんななんだか活気があるのか。こんな朝は久しぶりだ」
男爵の目は少し潤んでいた。でも、とても嬉しそうだった。詳しいことは話せない。だが、現金が家に舞い込んだことは、男爵にとって心労が和らぐ、安心材料のはずだ。積年の煩わしさ、悩みが霧のように晴れるだろう。
これは男爵の病気にとっても朗報のはずなのだ。ホロウェイ夫人とジャックですら、陰で涙をこっそり指で拭っていた。
昨日までと打って変わって、食卓はとても賑わいのあるものだった。
食事終わると、マリーゴールドの金糸刺繍の小袋を取り出した。この人生の中で、今手元にある、唯一の私自身が準備したものがその小袋だった。イーサンはどうせ一度も使わなかったのだ。その屈辱を豪華で美しい刺繍の小袋に味わせておくわけには行かない気分だった。
私の成果はこの見捨てられた小袋に褒賞として与えたい。
美しい小袋から、金貨を取り出して渡した。
「ホロウェイ夫人、ブリジット、ジャックさん、今までありがとう。これは2年分の未払いの賃金と、心ばかりの金額を足しました。これからもこの家をよろしくお願いします」
金貨4枚が一人ずつの手に落ちた。重い音がした。誰もすぐには声を出せなかった。
目を見張って自分の手の中にある金貨を見た3人は、大粒の涙を流し始め、泣き始めた。
「……お嬢様……そんな……」
「多すぎます……」
「……奥様がいらしたら……お嬢様が私らにこんな……おぉっ……」
皆がもらい泣きをした。私も含めて。
男爵は本当にこれ以上は嬉しいことは無いと言った表情で、安堵のため息をついた。
「みんな、今日は忙しいわよ。私はブライアコームの村に行って、ドクター・ペンローズへの薬代と診察料の精算をしてきます。お父様、ミラーさんや村の人に人夫として倉庫への資材搬入を手伝ってほしいから、前払いで賃金を渡してきますね」
男爵は、ミラーさんや村人に賃金を渡せるという話に顔を輝かせた。
「頼むぞ、アーニャ。誰にお願いしたらいいかは、ミラーさんに相談してくれ」
「分かりました。リディアとエリスはブライトンの街の仕立て屋に行くわよ。お父様、今日は借金も全て返済してきて、証文も取り返してきますからね。ジャックさん、お昼前にブライトンの街まで送ってほしいの。お昼の3時にはまた迎えにきてほしいわ」
私はきびきびと動き始めた。
「ブライトンの仕立て屋!?」
「お姉様、私仕立て屋には日曜礼拝の時のドレスで行ったらいいかしら?」
妹たちの歓声と、「私もついていく!」ジャックの力強い言葉が私の背中を追いかけてきた。
「一晩で家を立て直す算段をつけるお嬢様、すごすぎますわ」ホロウェイ夫人のつぶやく声が私の耳に聞こえた。
泣いていた皆が、笑いながら動き始めた。
さあ、新しい1日が始まる。




