33.野薔薇の棘——泥水の滴る金貨
懐には100ポンドもの大金があると言い聞かせながら、私は格調高いゴールデン・モータールという名の薬舗に向かった。
私が知るロンドンの高級薬舗はここだ。メイウェアで最も金持ちが通う薬舗の一つだ。
白い石造の通りの角に、金色の乳鉢の看板が揺れているのが見えた。
記憶の通りだ。
だが、今朝は王室の紋章をつけた騎手や、王室付きの騎兵たちが大勢ゴールデン・モータールの周りにいた。時刻はまだ朝6時半だ。気が急いて、私は朝8時に開店するはずの店に早く来すぎたのだが、なぜか、店の扉は既に開いているように見えた。
――何かあったの?
――事件かしら?
――王家のどなたかがいらしているのかしら……?
涙にくれた目で、雨に濡れながら拭った。
涙なのか、雨なのかさっぱり分からない。ゴールデン・モータールの看板の下にいるのが、なぜか昨日乗合馬車で助けてくれた男と老婆に見えた。
「おーい!いたぞ!」
「来た来た!」
2人は私を見るなり大声をあげてこちらに手を振った。
――なぜ、あの2人がここに?
突然、私の頭上に傘が差し出された。私は見上げた。頭上の雨が止んだ。十分な資金を持つ者だけが持てる高級な骨組みの傘だった。
傘を差し出してくれた人を私は見つめた。
グレイが私の横に立っていた。
グレイは真っ赤な目をして、雨に濡れてメガネも外していた。
「探した……一晩中……無事で良かった……キャロライン、また君を失ってしまうかと思って」
グレイはそう言ったきり、言葉を失ったようだ。雨水なのか涙なのか、彼の頬を何かが伝っていた。
さっきまで雨に濡れていた私とは違う。彼はもっと深い何かに濡れていた。
「グレイも来たの?」
「昨日、心配だったから、またホーソーン・マナーを訪ねたんだ。そしたら、男爵が倒れてその薬を買いに君が一人で乗合馬車でロンドンまで行ったと聞いたんだ。いても立ってもいられなくなって、早馬で駆けつけた。探し回ったんだけど、君の宿が見つからなくて……」
薄い青いブルーの瞳から涙が溢れて、彼が安堵の笑みを浮かべているのを見て、私はずっと昔に会ったことがあったかしら?と思った。
メガネを外した彼の顔を見て、私はふと思った。
――どこかで会ったことがあるだろうか。いや、父の商売の関係でブライトンの港に行った時に会っただけだ。それより前ではないはずだ……。
――子供の頃に出会ったことはないと思うのだけれど……。
「グレイ、心配をかけて本当にごめんなさい。一晩中だなんて……そんな……」
泣きながらブルームズベリーのシーブルック家のタウンハウスと、メイウェアのレッドワイク家のタウンハウスを見てきた事など忘れて、私は胸のうちに温かいものが込み上げるのを感じた。
グレイに促されるままにゴールデン・モータールの中に足を踏み入れた。自分がびしょ濡れで泥だらけなのが気が引けたが、誰もそんなことを気にしていないようだった。
王室の紋章をつけた騎手や王室付きの騎兵たちは、整列をして、私たちが店舗の中に入るのを見届けた。
それにも気後れした。
――騎手や騎兵たちがグレイに敬礼をしたのは気のせい?
――何が起きているの?
店舗に入るなり、調合師が飛ぶような勢いでやってきた。
「お待ちしておりました」
調合師は目配せをグレイにしたようだ。だが、グレイはすかさず右手を上げて、調合師に合図をして首を振った。
「あんた、何者だい?昨日、乗り合い馬車を降りたあと、王の騎兵がうちにやってきて、あんたが無事だったか、あんたがどこに向かったか、しつこく聞かれてさ」
乗り合い馬車で一緒になった男が私に聞いた。
「あんたを探して、この人たち一晩中、ロンドンの宿屋を片っ端から訪ねて回ったってさ」
老婆もそう言った。
「この方があんたを探しに行っている間、騎兵たちはあんたの姿を知らないからと、この人がこの高級薬舗の前で騎兵たちと待っていてくれっていうから、私らこんな朝早くから待っていたんだ。まぁ、あんた無事で良かった。宿も無事に見つけられたんだろう?」
乗り合い馬車の男が私にそう言った。私が狐に包まれたような気持ちになったところで、「もういいでしょう、ご協力ありがとうございました。謝礼は弾みます」とグレイが間に割って入った。
――どういうこと?
「一年分の地代を使った」
グレイは苦笑いした。
「私を探すために……?」
「安いものだ」
グレイは事もなげに当たり前のように「安いものだ」と言った。
――王の騎兵や騎手を動かすのに、一年分の地代を費やすなんて。
「君が無事で私は本当に嬉しい。キャロライン、よくやった。本当に無事で良かった」
グレイはびしょ濡れで泥だらけの私を抱きしめんばかりだった。
3年の結婚生活で、私を一度もイーサンは探さなかった。
「薬代は手に入れたから。ほら、100ポンドここにあるわ」
私は大切に懐に入れていたギデオンからもらった皮袋を出した。
「えぇ?」
「契約成立よ。鍵はもう渡したわ」
「倉庫……?」
「えぇ、そうよ。正式な契約をしたのよ」
私は大得意だった。
「調合師さん、これで薬を買いたいの。まずは一月分欲しいわ」
私はグレイに抱きしめられんばかりだったが、泥だらけのまま、カツラと帽子を取り、濡れてしまった髪を下ろして手で整えた。
泥水の滴る袖で、金貨を店のカウンターに1枚ずつ並べた。
分かっている。
メイウェアの高級薬舗で、こんな客は前代未聞だろう。
背後で、グレイが息を呑む気配がした。




