32.野薔薇の棘——雨のメイウェア
ギデオンが紹介した宿は、思っていたよりずっと良かった。商人向けの中の上ぐらいの宿だろうか。
温かな肉料理とパン、濃いシチューが出されて、一日中空腹だった私はやっと人ごこちがついた。
湯を張った桶まで部屋へ運ばれた。ホロウェイ夫人の湿布に救われた私だが、匂いを落としたくてたまらなかったので、大変助かった。布を湯に浸して絞り、身体中の埃を落としたあとに、髪の毛を思い切って洗った。
清潔な麻のシーツの匂いに、私は危うく泣きそうになった。
一日中乗合馬車で緊張していた私は、体がコチコチになっていたが、100ポンドの入った皮袋を抱いて、ぐっすり眠った。
ーーこれで男爵の薬が買えるわ。
翌朝のロンドンは、土砂降りだった。早くに宿を出た私は、再び少年の姿のまま、かつて自分の居場所だったブルームズベリーのシーブルック◦タウンハウスまで歩いて行った。傘は持ってきていなかったので、ずぶ濡れで、泥にまみれた。
――ネルはレッドワイク伯爵家に嫁いだ私について行ったのだから、今頃はレッドワイク家にいるわ……。
――傘を差さずに土砂降りの中を歩くのは、最悪の気分ね。
私は自分が惨めに感じる理由は、雨のせいにしたかった。泥に塗れて馬車道を歩くのは、とても困難だった。せっかく借りたジャックのブーツの中までずぶ濡れになった。
――契約金でお礼にブーツを買ってあげよう。
帽子が濡れ、カツラの中まで浸透し、シャツが肌に張り付いた。上着がなければ、胸の膨らみがバレてしまうだろう。
最悪の気分のまま、歩いて1時間くらいかかるメイウェアに私は移動した。
薬屋はまだ開いていないだろう。
その前にと思ったら、自然と足がレッドワイク・タウンハウスまで向かってしまっていた。癖だろうか。ロンドンに来た際、この辺りをよく散歩したからだろうか。
一人ぼっちで、土砂降りの早朝に少年の姿で歩く私は、奇人だ。
昔の名残を追い求めても何の足しにもならない。
それでも、自分が死んでしまった場所をもう一度見たかった。
なぜ、あの時事故が起きたのか。犯人は夫だという確信がありながら、私はもう一度確かめたかったのだ。
レッドワイク・タウンハウスは、シーブルック家の資産がまだ注ぎ込まれる前であり、土曜日に結婚式をあげたばかりで3日しか経っていない今は、財政難に苦しむ伯爵家らしく、荒れ果てた様相をしていた。
メイウェアは静かな威厳と密室の罪の街だ。名門貴族のタウンハウスが立ち並び、礼儀と沈黙を石造りの静寂中に閉じ込めている。ロンドン社交界の中心だ。
私は自分が何を見ているのか、分からなくなった。
雨のせいか、勝手に涙が溢れていた。懐の100ポンドだけが、今の私の全てだった。




