31.野薔薇の棘——百ポンドの契約
クロイドンの街を抜けて、南部街道を走り始めると、すれ違う荷車と人が多くなり、緑と花は消えた。煙突の煙と提灯ばかりになった。
空にはまだ青みが残っている頃に、サザーク側からロンドンに到着した。私は無事に乗り合い馬車を降りた。
ロンドン・ブリッジ近辺の雑踏の中を歩き、テムズ川沿いを東へ進んだ。街はすでに夜の顔を見せ始めていた。そのためにも少年の服装は役に立った。
泥に塗れたロンドンは初めて歩いた。荷役の怒号とタールと魚臭が充満するロンドン港に私は着いたのだ。
まだ薄明るかった。ロンドンの6月の日差しは長かった。
カバンの中には書斎から持ち出したホーソーン・マナー・倉庫権利証と契約書が入っていた。野薔薇の家紋の古い印章付きの紙だ。昨晩、ずっと書斎で探していて、ようやく見つけた時は夜も遅くなっていた。
私の足はまっすぐに港のある建物に向かっていた。
港町ブライトンとロンドン港をまたぐ海商人は何人も知っている。キャロラインならば顔見知りだ。
今は、アーニャ・ホーソーンと顔見知りであり、密輸に手を染めて抜け出さないことで、私の実の父であるトマス・シーブルックと喧嘩別れをした人物に、私は焦点を絞っていた。
少女時代のアーニャはシーブルック・ハウスに私の勉強相手として毎日のように来ていた。蜂蜜色の髪に薄緑色のアーモンド形の瞳を忘れるわけがない。彼はきっと今の私の姿を見て、昔のアーニャだと分かるという確信があった。
表向きの仕事は船荷仲介商、裏の仕事は密輸、関税逃れ、夜間荷揚げ、情報売買と様々なことに手を出している。彼がハロウゲイト子爵に捉えられるのは今から2年後。つまり、これから先の2年間は密輸に手を染めていて、巨大倉庫が欲しいと思っているはずだ。
「ギデオン・ヴオスさんに荷物を届けに参りました」
私は目的の石造の木造3階建ての建物の扉を開いて、荷受けカウンターにいた若い男性に告げた。
表の看板はよく磨かれていた。金回りは相変わらずいいようだ。私の記憶とも合っている。私の姿を一瞥した受付は、貧しい見習い少年がただの届け物にやってきたと思ったのか、2階にそのまま通してくれた。
ギデオンは、私を無表情で見ると「どこからの荷物だ?」と聞いた。
私は帽子とカツラを取り、蜂蜜色の髪の毛を頭を振って広げた。イタズラっぽく笑った。
「覚えている?ギデオンおじさん。アーニャよ」
ギデオン・ヴオスは目を見開いた。
「シーブルック・ハウスでキャロラインと一緒に遊んでいた、アーニャ・ホーソーンか」
「そうよ。商談に来たわ。父が倒れて薬を買うためにお金が必要なの。背に腹は変えられないわ。巨大倉庫を貸すから、継続賃料と手付金を今即金でお願いしたいの」
私は堂々と彼の茶色の瞳を見つめて話した。密輸はしているが、彼は超現実主義者だ。鞄の中からホーソーン・マナー・倉庫権利証と契約書を取り出して、印章を見せた。
「サセックス内陸、海から一時間、荷車が2台同時に搬入できるわ。2階梁があって、樽なら三百は余裕よ。麻袋なら、そうね、六百は入る。その倉庫を貸すわ。密輸資材の置き場所にできるわ」
驚いた表情でギデオン・ヴオスは私を見つめ、権利証を見た。
「ブライトンの港中の噂では、キャロラインはレッドワイク伯爵家に嫁いだと聞いた。確か今18歳だ。アーニャも18歳になったのか?」
彼の口調は少女時代に私たちをよく知っていた者の口調だった。言葉に何処か懐かしさを感じた。
「えぇ、18歳よ。お金で失恋したのよ。レッドワイク家は財政破綻を免れるために、シーブルックの資金と結婚したわ。私は現実を見ているの。ホーソーン家にもお金が必要だわ。倉庫をお金に変えたいの」
私の大人びた口調に、ヴオスは私を値踏みするようにじっと見つめた。私は失恋と言ったが、そんな軽い言葉ではすまない経験をした。
「わかった。即金で払おう。いつから借りれる?」
「明後日からよ。鍵は今ここで渡すわ。このお金で明日の朝一番に、メイウエアにある薬舗で父の薬を買う。今日の宿の紹介をお願いしたい。ブライトンまでの商会荷馬車に便乗させて欲しい」
「俺の顔が効く宿を紹介しよう、明日の昼にブライトン行きの荷車に乗ればいい。誰もお前に触れない。これ全て込みで、手付で75ポンド、7月の初月賃料20ポンド、合わせて95ポンドだ。6月末分も入れて100ポンドでどうだ」
「乗るわ」
私は契約書にサインをしようとして指が震えた。だが、男爵の命と、ホーソーン・マナーの屋敷とブライコームの村人たちの顔がよぎった。私はサインをした。
目の前に100ポンドが入った皮袋が置かれて、私はきっちり数えた。
「よろしくね、ギデオン。私は家を建て直すわ」




