30.野薔薇の棘——あんた、女だろ?
前の人生では伯爵夫人として何度もロンドンを訪れていた。だが今は違う。アーニャの体で、アーニャの財布で、アーニャの覚悟で行くのだ。私は相当な覚悟を試されていると感じた。
翌朝5時に私は出発した。
昼食代を省くために、黒パンの残りを包んで持った。
リディアは泣きながら私に抱きついてきて、ジャックも乗り合い馬車の所まで送ってくれた。ブリジットもホロウェイ夫人も赤く泣き腫らした目をしていた。私を心配してくれているのだ。
こうして、階級差を悉く思い知らされる、危険なロンドン一人旅が始まった。
真珠色の空に桃色の雲がかかり、初夏の冷気が冷たい明るい朝だった。朝露に革靴が濡れ、鳥の囀りが気持ちが良い。
人生で初めて切符を手渡して乗った乗り合い馬車で、私は木製の座席に腰を下ろした。革張りの豪奢な内張りも、柔らかなクッションもない。硬い木の背板が、背骨を真っ直ぐに押し返した。
馬車の中には6人の男達と、年老いた女が1人いた。私は、貴族と分からない服で男装していた。
――話せば女だとバレる。
私は無言を貫くことを決めていた。
――サセックスからロンドンは晴れていれば1日。
――雨なら2日。
今日の空は私の味方だった。ブリジットとジャックが予見したように、朝から快晴だった。パン焼きで苦戦することを思えば、こっちの旅も良かったと思える。
――天はまだ私を見放していない。
空だけは私の味方だった。
私は必死に自分に言い聞かせて、男達の視線を交わそうと間かぶに被った帽子のつばを深く下げてうつむき加減になっていた。
しかし、眠ってはだめだ。眠っていると思われてもダメだ。何をされるかわかったものではないからだ。
私以外は皆、私を値踏みする目をしていた。
見ぐるみ剥がされる事件は日常茶飯事のはずだ。それで女だとバレたら……。アーニャの魅力的な身体を呪った。今の私には、アーニャの身体を守る責任もあった。どれほど自分に最低な仕打ちをした親友であったとしても、今はアーニャの身体で痛みを感じるのは自分なのだ。
レッドワイク伯爵夫人の時は、自家所有の 四頭立て馬車(carriage)に従僕付き、護衛付きだった。あの忌まわしい、私を轢いたストロベリーリープ8冠の記憶が蘇り、私は頭を振ってその記憶を追い払った。
あの頃は「家を背負う馬車」の旅であり、自分ひとりの旅ではなかった。主人の名を、婚家の誇りを、そして自分の未来を揺らしながら進む旅だった。こっぴどく裏切られたが。
狭い馬車の中で両隣の知らない男の肩にふれ、男が私の細い肩に気づくのではないかとヒヤヒヤした。
少女時代のシーブルック家のピカピカの真新しい四頭立て豪奢な馬車は、クッションの効いた座席、暖かなブランケット、上質の食糧もあり、お仕着せを着た従僕とネルがついていてくれた。
ブライアコームの村を出発した乗合馬車は、街道を走り始めていた。
窓の外から淡い桃色や白の野薔薇が見え、白い房状のエルダーフラワーが揺れているのが見えた。デイジーやクローバーが一面に咲く野が窓の外から見えた。また、のんびりと羊が放牧されている様子が見え、麦畑も見えた。
緑多いサセックス内のルイス、アックフィールド、イースト・グリンステッド、クロイドンの4つの街を抜けて南部街道を進み、ロンドン南側へ入城する行程だ。
馬替えのタイミングはよく知っていた。王の住む都までは今日のような晴天ならば、約1日で着くはずだ。ロンドンの宿のことも解決しなければならないが。
私は使用人の息子風の出で立ちをしていた。さらしで胸をぐるぐる巻きにして、胸の膨らみを抑えていたので苦しかったが、身の危険を冒すわけにはいかなかった。
粗いリネンシャツに首元までボタンを閉じて、茶色のジャックの短い上着を借りて着ていた。膝丈ズボン(男物ブリーチズ)を履き、くるぶし丈の靴下に古い革靴を履いていた。
髪の毛は父のカツラを借りた。カツラの中に全部髪を託し込んで、つば広のフェルト帽をかぶっていた。胸の前でしっかりと荷物を抱え、前屈みになっていたので、馬車の中で胸の膨らみに気づくものはいないと思っていた。
視線に耐えていると、ルイスの街に着いて、第一馬替えのタイミングになった。10分から30分はかかるので、足伸ばしに全員馬車から降りた。
馬の汗に満ち、荷車の怒号に溢れ、宿が軽食として提供しているエールの匂いや焼肉の匂いで充満していた。
「お前も一緒に食うか?」
隣に座っていた男が私に聞いた。私は首を振った。おもむろにカバンから黒パンの包みを取り出して、無言で見せた。
「お前、口が聞けないのかよ」
宿場の鏡の前にたった私は、自分が誰だか分からないと思った。鏡の中には貧しい事務見習いの少年がいた。私は顔に少し土をつけていた。アーニャの綺麗な美貌を隠すために。
鍛治の音が煩い中で、私の姿に目をやるものはいないと思っていた。
私は緊張していると悟られないようにしながら、馬車に再び戻り、ルイスの街を馬車が出ていくのを待った。
「こいつ、口が聞けねんだ。へへっ」
さっきの男が余計な事を話した。
アーニャのアーモンド形の瞳がバレたら困る。私はドスの聞いた声を出した。
「ちげえよ」
「なんだ、口が聞けるじゃないか」
目の前の男が拍子抜けしたようにつまらなそうに言うと、買ったらしい新聞を広げた。
「サー・エドマンド・ハロウゲイト子爵、港で取り締まり強化」
新聞の見出しにはそう書いてあった。父の会話にハロウゲイト子爵の話が出てきた記憶がある。あれは2年後ぐらいの話だろうか。
「お前、字が読めるのか?」
目の前の男が私に聞いた。私がうなずくと、男は新聞を渡した。すっと顔の前に手をさりげなく上げた。
――新聞で顔を隠せと言っている……?
私は頷くと、新聞をさりげなく顔の前に広げた。
「ったく、邪魔だよっ!」
隣の男が怒鳴った。
「うるさいねぇ、あたしがそっちにいくから、あんたはこっちに来な」
年老いた老女が私の席と代わると言ってくれた。
目の前で新聞をくれた男の隣の席で、老女は壁際だった。
私は老女と席を交代した。
私は低い声で礼を言うと、席につくなり新聞を広げて顔を隠した。
ーー助けられたのよね?
次の馬替え場で、一人でベンチに座って黒パンを齧っていると、新聞を譲ってくれた男がやってきた。皆は暖かい食事にありついていたが、今の私は黒パンと水が精一杯の食事だ。
「あんた、女だろ?次の街の馬替場で、身ぐるみ剥がされる事件が頻発している。あんた、ここで帰った方がいい」
次の街はイースト・グリンステッドだ。
ここまで来て帰るわけにはいかない。
「私はバレましたか?どこでバレました?」
馬車で席を譲ってくれた老女もやってきた。
「あんた、バレバレだよ。あの男たち、あんたからずーっと目を離さなかった。物欲しそうにあんたを見ていた」
私はカバンの中からホロウェイ夫人に持たされたハーブ布を出した。
酢とカンファー、ニンニク、ローズマリーを混ぜたものに浸した。とっておきの貴重なニンニクと酢をこのためにホロウェイ夫人が出してくれたのだ。
「くっさ」
老女と新聞をくれた男は1歩後ろに後ずさった。
ホロウェイ夫人の目的は、乗り合い馬車が臭うから、これを口元に当てるようにとのことだったが、感染症のフリをしてロンドンの医師に会いに行くとすることで、病気持ちとすることができるのではないかと思ったのだ。
「これでロンドンの医師に会いにいくと言えば、あの人たちは私が感染症持ちだと思いませんか?」
老女と新聞をくれた男は納得した。
「せいぜい、馬車から放り出されないようにしなよ」
そう言って立ち去った。
今のまま薬舗に行ってもお金はない。旅費だけで精一杯だった。もっと言えば、帰りの旅費だって怪しい。先にロンドン港に行こう。
馬車の馬替えが終わると、私はずっとハーブ布を口元に当てていた。
「こいつはロンドンの医師に会いにいくらしい」
さっきの新聞をくれた男が意味ありげに伝えると、残りの男どもは声にならない悲鳴をあげて、馬車の中で私から距離を置こうと隅につめた。
おかげで、私は残りの馬車の旅をゆっくりと楽しむことができた。




