29.野薔薇の棘——いちご!?
帳簿をめくる私の目の前で、突然ホーソーン男爵が胸を押さえて倒れ込んだ。
「胸が痛い……」
その後、息が吸えず、声も出せない様子だ。ただ手が震え、額に冷たい汗がにじみ、うずくまった。
「どうされましたかっ!?ブリジット、ホロウェイ夫人、ジャックすぐに書斎に来て!」
私は目の前で苦しそうに倒れ込んだホーソーン男爵に慌てふためいた。男爵の顔はみるみる紫色になってしまった。
私の叫び声で、ブリジット、ホロウェイ夫人、ジャック、リディア、エリスが駆けつけてきた。
「ペンローズ先生を!すぐに!」
ブライアコームの医者ならば、すぐに駆けつけられるはずだ。ドクター・ペンローズは、私自身も診てもらったことがあった。
***
すっかり夕暮れ時も過ぎ、6月の晴れた空がピンク色に染まった空の下、私は絶望に触れていた。
「先生、父は助かりますか?」
私は誰にも聞かれないように男爵家の勝手口の一つから先生を帰宅させようと、見送りに来ていた時だった。
「⸺男爵にこの薬を使いなさい。本来なら、代金の約束なく渡すべきではありません。しかし私は医者です。
目の前の命に背を向けることはできない」
医師は私の手に小瓶を渡した。光を受けて暗い琥珀色に光る液体。
「これは胸の痛みを鎮め、眠らせる薬です。ただし、一時しのぎに過ぎません。私もこんな高価な薬はこれっきりしか持っていないのです。本当であれば、より多く、そして継続的に必要な薬です。お嬢様、どうか、支払いの目処を立ててください。でなければ、まもなく男爵に死が訪れると言うことです」
「薬は……あの、どこで手に入るのでしょうか?」
「追加薬はロンドンの特定の薬舗でしか手に入らない」
ドクター・ペンローズは渋い顔を見せて私に言った。
「ロンドン!?」
私は絶句した。だが、状況は一刻を争う。私は明日の朝いちばんの乗合馬車で、ロンドンを目指すしかないと判断した。
「このお代は必ずお支払いします」
「分かりましたよ。とにかく、次の発作が来る前に、薬を確保する必要があります」
私は頷いた。アーニャの立場になると、薬一つ買えない。大事な人の診療代も払えない。家にあるものを集めてとにかくロンドンに行こう。
「高級薬を売る薬舗で扱う薬であり、それと同時に、依存という別の危険も連れてくる薬です。だから、使用にはくれぐれも注意が必要です」
「分かりました。このあと、眠ってもらうために半分だけ飲ませます」
ドクター・ペンローズは私の目を見つめて、頷いた。
――とんでもない旅だが、グレイは港の仕事もある。
――私一人でできるところは一人でやろう。
キッチンで木匙が鍋に触れる低い音がしていて、水差しを置く音が聞こえた。ブリジットとリディアが後片付けをしているのだ。鳥の鳴き声と、遠くで牛の鳴く声がした。風に揺れる木の葉の音を聞きながら、私は一人で考え込んだ。
煮野菜のリーキや玉ねぎの匂い、塩気のある肉の香り、少し古い木の匂い、湿ったリネンの匂い。
私はキッチンに行き、黙って、皿を拭くリディアを手伝い始めた。リディアの瞳は真っ赤だった。父親が倒れたのだから当たり前だ。エリスはホロウェイ夫人がなだめている。
キッチンの木製の傷だらけのまな板、黒ずんだ鉄鍋、木の皿、木匙、陶器の水差し。どれも新品ではない。だが、丁寧に使い込まれていた。
小さなテーブルの上には擦り切れたテーブルクロスがかかっていた。私は椅子に座り、キッチンの窓から夕日が斜めに入るのを眺めた。
「お嬢様、何の病気だったのでしょう?」
「胸の血の巡りが悪くなる発作だそうよ」
私の言葉に、ブリジットもリディアも声をあげた。
「高い薬が必要なのだけれど、希少でブライアコームでは手に入らないのよ。一人でロンドンの高級薬専門薬舗まで行って買い求めてくるわ」
「お一人で!?お嬢様、ジャックも一緒に行ってもらいましょうか」
「お姉様、危ないかもしれないわ」
「ジャックにはここにいてもらわないと困るわ。お父様にまた何かあった時に、彼が必要だわ」
私は静かに2人に告げた。
アーニャの人生を思うと、彼女がロンドンに行ったのは、私と私の家庭教師に連れられて、豪華な馬車の旅をしたことがあった時だけだと思う。あの時は勿論ネルもいてくれた。
――ネル……。
私は今まで多くの人に守られていた。お金でも、お金がもたらす沢山の人たちの尽力で。
今度は、私が自力で守らなければならない人たちがいた。
「お父様にお薬をあげてくるわ。少し分けてもらったから」
私は容体が落ち着いているホーソーン男爵のところに向かった。男爵はずいぶん前から具合が悪かったはずだ。寝室のベッドで、男爵は呆然とした様子で天井を見上げていた。男爵の寝室は、ずいぶん前はさぞ立派であったであろう家具が設えてあったが、この屋敷同然、質素なものだった。
「お父様、このお薬を飲んで。ドクター・ペンローズ先生にいただいたのよ」
「お代は……」
「いいの。今日はなんとかなったわ」
小瓶の薬を半分だけ男爵は飲んだ。しばらく私は男爵が目を閉じて眠り始めるのを待った。
「アーニャ、ミラーさんの所にはまだ5歳の子がいる。あそこには家には寝込む祖父もいるんだ」
「えぇ」
昨日、男爵が穀物を分けてあげた小作人の名前だ。
「ホロウェイ夫人と一緒に見に行ってくれないか。ちょっと、ミラーさんが心配なんだ。彼はあんなに弱気になる男ではない」
私は胸を突かれて、涙がでそうになった。
――そんなことを今言っている場合じゃない……。
――小作人も大変だが、今、この屋敷だってあなたの薬代も払えない状態なのに……。
だが、私は男爵の思いを汲んだ。
「わかったわ。後で様子を見てくるわ。様子を報告をしますから」
それを聞くと、男爵はすっと目を閉じて眠りに入った。
私はそっと寝室を出て、ホロウェイ夫人を探しに行った。
「あぁ、お嬢様、話は聞きました」
40代ぐらいだろうか。ホロウェイ夫人はいつもの表情が読めない夫人ではなかった。
「お一人で行かれるなんて、無謀です。奥様が生きてらしたら、決して許さなかったでしょう」
ホロウェイ夫人は本当に心配そうに私を見つめた。
あぁ、夫人にとって、アーニャはお嬢様でありながら、娘のような存在なのね。
「お父様にお薬をあげたら、ミラーさんのところの5歳の男の子の様子を見てきてと頼まれたの。夫人と一緒に見てくるように、ですって。お父様ったら、この状況でもそのことが心配だなんて……」
ホロウェイ夫人は私が男爵にロンドンのことも、薬のことも話していないのを察したようだ。
「黙ってロンドンに行かれるつもりですね?」
「えぇ、内緒にするわ。私が皆を守るのよ。大丈夫、顔も帽子で隠して、男装していくわ。ミラーさんのところに一緒に見舞いに行ったら、今日の夜、衣装を準備するのを手伝ってくれるかしら」
夫人は驚いた顔で私を見た。
「本当に私の知っているお嬢様ですか……。そうですか。旦那様の危機ですから、お嬢様がそうなさりたいと仰るのなら」
夫人は結局協力することを約束してくれた。
私たちは、小作人のミラーさんの家まで歩いて行った。籠には、昨日渡せなかった黒パン1斤と、土の香りのする玉ねぎ2つ、キャベツ1玉、朝露の残るそら豆、エリスが鶏小屋からとってきた卵4個、エリスが摘んだ苺を入れた。昨日は大麦袋を渡したのだ。
6月は端境期だ。前の年の穀物はへり、次の収穫はまだ本格前だ。村は厳しい時期だろう。
ミラーさんの家はブライアコームの村はずれにあった。低い天井で煙突付き暖炉のある素朴な家だった。乾燥ハーブが吊られていて、薪や獣や土の匂いがした。5歳の男の子は粗いリネンシャツと膝丈トラウザーズ姿で出てきて、元気に会話できた。ミラーさんは不在のようだった。
「いちご!?」
その子が飛び跳ねるように、ミラーさんの奥さんに聞き、奥さんから手渡されていた。
「洗って食べてね」
私は男の子に言って、男の子が奥さんにいちごを洗ってもらって食べる様子を見ていた。
「昨日もいただいたのに、本当にすみません。祖父が調子が悪くて……」
「いえいえ。何かあったらまた相談してくださいね」
男爵家の再建とは、帳簿を整えることだけではない。この子や村全体が飢えずに夏を越せるようにすることだ。
そのためにも、明日、私はロンドンへ行く。




