27.野薔薇の棘——密輸よりパンが怖い
昼までに、私は村中の噂になっていた。
「アーニャお嬢様、レッドワイクの若伯爵様がホーソーン家のお嬢様に……という大変な噂になっています」
――あぁ、こういう噂は即日で広まるものだわ。
明日にはブライトンの港中に知れ渡るかもしれない。
ホーソーン・マナーの敷地内にある小さな ベイクハウス(焼き窯) の前に連れて行かれた私は、コソコソとブリジットに囁かれた。ブリジットは茶色の髪を引っ詰めるように一つにまとめ、着古したシャツの腕をめくりながら、空を見上げていた。
「明日も天気がいいですわ」
馬に水をやり、飼葉を与えていたらしいジャックも、私たちに合流してきた。ジャックは白髪まじりの髪を撫で付けながら、レッドワイクの若伯爵の話をして、眉を顰めて首を振った。
「あのお方が助けに入ってくださって、本当に助かりました」
ブリジットも、ジャックに同意見のようだ。
『あのお方』とは、私と一緒にホーソーン・マナーに歩いてやってきたグレイのことだ。
今、ホロウェイ夫人がホーソーン男爵に取り次いでくれていた。グレイはホーソーン男爵家で大歓迎された。「アーニャお嬢様」の危機を救ってくれたヒーロー扱いだ。昼食の招待までされていた。
私はジャックがいてくれた方がありがたい。ジャックは朝食抜きで教会に駆けつけたとこっそり私に囁いていたのもあり、喜んで招待を受けると答えていた。
私は、明朝の仕事として、ベイクハウスでパンを焼かねばならないという緊張感を持って、焼きがまを確認していた。家庭教師のミス・フィンチがパン焼きの手ほどきをしてくれたことがあった。「パンは気分でこねるものではなく、手で天気を読むものだ」これがミス・フィンチの口癖だった。
私に裁縫や刺繍の手ほどきをしてくれたのは、ミス◦フィンチだった。もちろん、実作業としてやることはないので、ミス・フィンチの授業で習っただけだ。「女は火加減も計算も知らねばならない」という教育方針の女性だった。
私は今、ミス・フィンチに心から感謝していた。6月のサセックスの夕べは長く明るい。だから、この間に明朝のパンの段取りをしようと考えたが、私は気が重くなった。
密輸は全く怖くない。だが、パンだけは、私にはアーニャのように焼ける気がしなかった。パン焼きが怖かった。
――ジャックとブリジットの言う通りなら、明日も晴れだわ。どうか、晴れてちょうだい。雨の日は粉が湿気を吸って、生地がベタつくと聞くわ。発酵が読みにくいはずよ。薪だって湿気のせいで火力が安定しにくいはず。
明日のパン焼き手順のことで私の頭はいっぱいだったが、ホーソーン男爵家一同は、礼拝堂でのイーサンの所業への怒りで満ち、グレイの株が急上昇していた。
昼食はブリジットが全て準備をしてくれて、私は本当にほっとした。
「お嬢様は、グレイ様のお相手をなさってください」
ホロウェイ夫人にもブリジットにもジャックにまでもそう言い含められて、グレイに屋敷を案内するという名目で、私は庭の巨大な倉庫の視察に出た。
ホーソーン男爵家の大型倉庫は、想像を超えた大きさだった。鉄金具だらけの扉を開けると、樽ならば数百は入りそうであり、麻袋は山積みにしても十分入りそうな敷地が広がっていた。荷車でもたくさん入りそうだった。
2階もあった。昔は羊毛取引で栄えたという話は真実のようだ。基礎は石造だが、黒ずんだオーク材で建設されていた。埃が光に舞う中、ロフトの階段を登ると、高い切妻屋根で屋根裏にも大量に荷物を置けそうだと分かった。
「海から1時間以内で到着できるわ」
ホーソーン家に残された最後の財産かもしれない。この空っぽの倉庫は、起死回生のきっかけになりそうだった。男爵には空倉庫でも、私には金貨の山に見えた。
昼食の席では、グレイは質問攻めにされた。
アーニャ・ホーソーンは男爵家の娘だ。貴族令嬢だ。グレイはしがないブライトン港で働く書記官だ。いくら親切な人間でも、男爵としては娘の嫁ぎ先には考えられない。
「ブライトンで海運商会の会計補佐をしていると聞いたが、出身はどちらだね?」
娘の夫候補としてグレイが合格かどうかを男爵が値踏みしているのだと分かった。
グレイに目配せをして合図をした。
さっき2人で話し合ったのだ。いずれ私は元の姿に戻る。イーサンの醜聞を利用すれば、おそらく私はイーサンと離婚できるはずだ。また、イーサンは本物の私には見向きもしないはずだ。3年後であっても、私に指一本触れなかったのだから。
私が元の姿に戻った後も、アーニャの人生は続く。今はグレイと協力体制を組む必要があるので、男爵には合格点をもらう必要がある。しかし、元来アーニャは多くの独身貴族から求婚のチャンスがいくつもあった。
それらを無下にしないようにしておけば、将来的に元に戻った後も、グレイが身を引いたとしても、問題ないはずだ、と。
今は、グレイは娘が仲良くする相手として、男爵から合格点をもらう必要があった。
「私はケントの者です。カンタベリーの西に土地を持っています。私は次男ですが、祖父母から多少引き継ぎました」
「ほぉ?」
「私自身に、地代の入る土地があります」
人の良い男爵はすっかり信じたようだ。実際にグレイの身だしなみは完璧だった。隙のない身だしなみを男爵が見逃すはずはない。
エリスとそっくりの瞳を私に向けて、男爵は満足げに頷いて見せた。食事の席が一気に賑やかになった。ホーソーン男爵家にとって、長女アーニャの婚姻は重要事項であり、また今日の惨事を打ち消す好青年が現れた可能性に、幸先の良さを皆が感じたのだ。
「グレイさん、今度、絵を描いて差し上げますわ」
リディアは早速無邪気にグレイに提案をしていた。
日曜日の来客に相応しく、ブリジットはいつもより昼食を豪華にしてくれたのだと今なら私は分かった。
黒パン、根菜ポタージュ、ローストチキン、茹でた野菜にエールがついていた。若鳥をローストチキンにしてくれたのだ。
ホロウェイ夫人が、奥の棚からジャムを出してくれた。昨晩も今朝もジャムはなかったのだから、来客用に振る舞ってくれているのだと私は理解した。
「アップルタルトを焼いておけば……」
ブリジットが悔しそうにキッチンでつぶやいていたが、私は十分だと思った。
「アーニャ、昼食の後で書斎にきなさい」
男爵にそう言われて、私はうなずいた。
――きっとイーサンのことだわ。
「これからも訪ねてきてくれたら嬉しい」
男爵はいつになく明るい表情でグレイにはそう言った。
――合格だわ!
私とグレイは目を合わせて笑った。エリスもエクボを頬に浮かべて、「グレイさん、また来て。このポタージュの野菜はエリスが切ったの。今度はブリジットとアップルタルトを焼くから食べてね」と言った。
グレイは嬉しそうに頷いて礼を言った。
ホロウェイ夫人が教えてくれたところによると、男爵は満足げにグレイのことを話していたそうだ。
「あの姿勢、あの発音、あの食事作法、あれはただの港の下働きなんかではない」
ホロウェイ夫人もすごく嬉しそうにそのことを私に耳打ちしてくれた。
昼食の後、グレイは名残惜しそうに何度も何度も振り返りながら、帰って行った。馬を教会の前に繋いだままだったのだ。
「イーサンにはくれぐれも気をつけて」
「大丈夫よ、村中が目を光らせているわよ」
「あなた、数あるアーニャの求婚者の位置に、うまく滑り込んだわね。感心するわ」
「君以外だったなら、誰の位置にも興味はないよ」
グレイの最後の言葉は、よく分からなかった。私は首を傾げた。グレイは時々、妙なことを言う。アーニャの体に入った私だから協力してくれているということだろうか。
私はそのことを考えた時に、グレイの親切さに本当に感謝した。
私も姿が見えなくなるまで手を振って見送った。




