19.野薔薇の棘——ホーソーンの食卓
白い泡のようなメドウスイートの花は爽やかに風に揺れており、紫ピンクのパープル・ルーストライフの背の高い花も、芳しい夏が近づく兆しに溢れていた。
6月の陽光の下で、自然は生に息づいていた。先ほどまで目に止まらなかったウォーターミントが私の視界に飛び込んできた。私は迷うことなくそれを摘み、両手に抱えて歩き始めた。爽やかなミントの香りが私の気分を励ましてくれた。
レッドワイク伯爵家――ストロベリー8冠の紋章を掲げる名門を立て直す人生は、もう終わった。
前回の人生はそれに注ぎ込み、美しく生まれ変わったレッドワイク・ホールは、裏切りの場になっていた。
私はホーソーン男爵家の野薔薇の家紋を思った。私がホーソーン男爵を再興させて、アーニャの体も汚さず、夫が私の命を奪う必要性のない道を切り開くのだ。
7月のセント・ジョーンズの花が咲く季節がやってくる。
――あの黄色い星のような小花をみる頃には、私はこの男爵家を再興させる方法を見つけるわ。
ホーソーン男爵家の玄関に立った私は、意を決して屋敷に足を踏み入れた。
絨毯は擦り切れ、天井にはシミがあったが、ラベンダーや石鹸の香りがどことなく漂っていた。清潔には保たれているようだ。来る途中で巨大な倉庫を見かけたが、昔はホーソーン男爵家が栄えていた証拠だ。建物は以前は豪華だったかもしれないが、手入れが間に合わず、くたびれていた。
私は漂う石鹸の香りにほっとした。
雨漏の修繕をする、暖炉に絶えず薪が入る状態にする、食卓を豊かにする、家具が職人によって修復され、美しさを取り戻す、などのことを私は伯爵家に嫁いだ時に着手した。
それをこのホーソーン男爵家でもやるのだ。ただ、レッドワイク伯爵家の妻になった時は、実家のシーブルック家の資産を惜しみなく注ぐことができた。今は違う。
――問題は、どうやって資金を調達するか、だわ……。
伯爵家に嫁いだ時と同じように、私は屋敷を見渡した。外から見た時に屋根瓦が欠けていた。雨の日は必ずどこかで雨漏りがするに違いない。廊下は狭く、床板は年季で軋んだ。しかし、よく拭かれてはいた。きっと冬になれば、薪が足りずに、一室しか暖まらないだろう。家族は自然とダイニングに集まるのではないか。
壁に掛けられた先祖の肖像画は色褪せてはいたが、人の良さそうな顔が並んでいた。家具は自分たちの手で少しの修繕はされているようだ。
庭で勢いよく咲き誇る野薔薇が見えた。夏のそよ風に触れて、野薔薇が可憐に揺れていた。他にも淡いピンクの花が草の間から顔を覗かせて揺れていた。
「お姉様!」
急に奥の方から先ほど結婚式で話した12歳ぐらいの少女が飛び出してきた。明るい笑顔が眩しい。リディアだ。
アーニャと同じはちみつ色の髪の毛が少女の丸い顔を縁取っていた。瞳は薄い緑だが、アーニャと違って彼女は非常に活発な少女に見えた。
「どうしたの?お姉様、具合が悪いの?」
無邪気な笑顔を引っ込めて、少女が私の顔を心配そうにのぞきこんだ。
「ううん、大丈夫よ、リディア」
私は慌ててリディアの心配を打ち消した。
「エリス、お姉様が帰ってらしたわ」
リディアがもう一人の妹を呼んだ。
アーニャ、リディア、エリスの3姉妹の母は、末のエリスを産んだ時に亡くなったはずだ。家族は3姉妹と、ホーソン男爵家の当主である父親だけだ。
リディアはモスリンのローブ・アングレーズに着替えていた。私はそのドレスに見覚えがあった。昔、ブライトンの丘の家に立つ赤煉瓦のシーブルック・ハウスに初めてきた時に、アーニャが着ていたドレスだ。当時の私の家庭教師が、私と一緒に遊ぶ相手としてホーソーン男爵家の長女を連れてきた日に着ていた。私はそのドレスを見て、初めてアーニャに出会った時のことを不意に思い出してしまい、目をしばたいた。
色々な思いが錯綜してしまい、訳のわからない感情に襲われた。
そのドレスは袖口は擦り切れかけていた。おそらくアーニャが縫って補修してくれたのだろう。色は淡いクリームだ。継ぎ当てがある。全体的に清潔に保たれていて、外出着としてはもはやお役御免となったのだろう。
9歳ぐらいの少女が飛び出してきて、笑顔で少女は抱きついた。
エリスも着替えて、リネンの白いエプロンをしていた。エプロンの裾には小さなインクのシミがあった。家事を手伝っていたようだ。彼女の柔らかそうな髪は手作りのリボンで束ねてあり、庭に咲いていた一輪の白い野薔薇が刺してあった。アーニャがエリスのために髪を束ねてくれたのだろう。
エリスは父親譲りなのだろう。派手な美しさはないが、子供らしい丸い頬と灰緑の瞳が愛らしく、髪は明るい栗色で、結んだリボンから細い毛束がいくつも逃げ出していた。
「あのね、エリスもできたの!」
小さな胸を張って、彼女は誇らしげに言った。
私はエクボのある笑顔で天真爛漫に私を見上げる少女に思わず笑みを浮かべた。
「何ができたのかしら?」
「ブリジットに指を切らずに野菜を刻めたって褒められたの!これから鶏小屋から卵を持ってくるわ」
エリスはそう笑顔で言うと、走るようにして庭の方に去って行った。
その時、ゆっくりと姿を現した女性を見て、私は思わず笑みを浮かべた。ようやく知っている大人が現れたから。ホロウェイ夫人だ。以前、アーニャをホーソーン男爵家まで馬車で迎えにきた時、私は会ったことがあった。直接言葉を交わしたことは少なかったが、若い頃からホーソーン男爵家に仕えていて、アーニャの母の代からいてくれている人だったはずだ。他にブリジットという料理人がいることも知っている。時々、村から少女が手伝いに来ているとも聞いた。
「ポタージュの準備ができたのよ。明日は日曜だから早く寝なければいけないでしょ。朝から教会に行くから。お姉様、あとでドレスを見てくれないかしら?」
リディアに頼まれて、私はハッとした。
――そうだわ。日曜の礼拝のために、ブライアコームの村の教会に皆で行くのだわ。そこでまたイーサンとも会ってしまうわ。
私は血の気が引きそうだった。アーニャとイーサンは、2人だけの秘密を3年もの間共有していながら、何くわぬ顔をして教会で私も交えて会っていたことになる。そのことに改めて気づいた私は暗澹たる思いだった。
――明日、どんな顔をしてイーサンに会えばいいというの。結婚初夜の翌日に、イーサンに会うなんて……。明日の朝、あちらの私はさぞ落ち込んだ顔をしているに違いないわ。
私は思わず顔をしかめてしまった。
「お姉様?どうされたの?」
リディアは目ざとく私の表情に気づいて尋ねてきた。
「なんでもないわよ。あなたとエリスのドレスを勿論見繕うわ」
私はにっこりと微笑んだ。
――私の保護欲をかき立てるに十分な少女たちだった。
なんとかこの2人のためにも私は資金を調達しなければならないと思った。
私はキッチンにリディアと行き、カブ、リーキ、玉ねぎ、豆を入れたものを、ベーコンの脂を入れただけの水で煮込んだだけの鍋を料理人のブリジットがポタージュとして仕上げるのを見た。
リーキの甘い匂いと、塩肉の脂の香りが立ちのぼっていた。
私は全く自分が動けないのを自覚した。
家事能力全般において、私はリディアの下だ。今やエリスにも劣る自分に意気消沈した。
こっそり、ブリジットとリディアのやることを真似て学ぼうと決意をした。
それに茹で野菜、チーズ少量、塩漬け肉(薄切り)を添えて、男爵用に薄めたエールをカップに注いだ。3姉妹は井戸水を煮沸したものを飲み水としているようだ。肉は毎日は出ないようだ。塩漬け肉か干し肉だと家庭教師に教わっていたので、私は実家との違いに驚かずにすんだ。
――香辛料がほとんど使われていないわ。パンはブラウンブレッドで、ずっしりと重いわ。バターもないわ。
食事は使用人も一緒に揃って、男爵も一緒に食べた。だが、静かな食卓だった。私は緊張して何か粗相をしでかさないかとヒヤヒヤしていたので、見様見真似で皆と一緒に黙々と食べた。
食事の後、ドレスを見繕うために私は早々にキッチンから逃れることができた。明日からは働くつもりだった。
だが包丁一つ満足に持てぬ私の手を見て、胸が静かに冷えた。




