18.野薔薇の棘
アーニャは、私が憎かっただろう。
私にあったのはお金だけだ。
私の結婚には愛は最初から無かった。私は夫を愛していたが、夫はずっと私を裏切っていた。
私の心は壊れかけた。止めようと思った結婚は止められず、悪夢のような自分の花嫁姿を目の当たりにしてしまった。
さっき、テントの陰でイーサンが私に向けた愛情表現は気色悪いものだった。3年前もイーサンは、結婚式の陰で同じことをしていたのだろう。
心から愛されているならイーサンにどう扱われるのか。
それが分かって、私の心は完全に打ちのめされた。私をアーニャと呼び続ける夫。
夫であるはずの彼の瞳に映るのはアーニャ。
アーニャでいるのは辛過ぎる。
「これからどうするの?」
グレイに聞かれた私は思っていた計画を打ち明けた。
「自分には戻れないみたい。せっかく時が戻った奇跡を大切にしようと思うの。アーニャ・ホーソーンとして生きて、イーサンがアーニャを諦めるのと、イーサンがアーニャを諦めなかった時のために、ホーソーン男爵家を再興するわ。妻の遺産を手に入れようとイーサンが思わないようによ」
「それは、やがて君が元の姿に戻る前提の話だね?」
「えぇ」
私は認めた。
一体、どうやったら元に戻れるのだろう?
「たとえ、戻れなかったとしても、私が生き抜くには、ホーソーン男爵家を再興するしかないと思うわ」
小さな川沿いを歩く私たちの目に、ホーソーン男爵家のマナーハウスが見えてきた。
白い泡のようなメドウスイートがそよ風に揺れていた。初夏にアーモンドのような甘い香りを放つその花は、そばに密集して生息している紫ピンクのパープル・ルーストライフの背の高い花の間で清楚な輝きを放っていた。私の目には、綿の塊のように見えるメドウスイートの純白さが羨ましく思えた。今朝、私の結婚は不幸な結婚として成立したばかりだ。
ホーソーン・マナーの鬱蒼とした庭には、あちこちに野ばらが咲いていた。鮮やかなオレンジ色や黄色の野生のキンセンカも雑草の間に顔を出し、濃い青い色のヤグルマギクが点々と咲いていた。水も止まっている噴水の向こうで、白いヒメジョオンが日差しの中で咲いていた。没落して長いという印象は拭えない。
使用人が減り、長らく人手が足りない状態が続いているのが明らかだった。このマナーハウスでアーニャはどういう暮らしをしていたのだろうか。
私は足元の鮮やかな赤いポピーを見つめた。6月の陽光を集めるように揺れているタンポポの花が、初夏の兆しを示している。
近づくと、二階建ての屋敷の白い漆喰は剥がれていて、手入れの行き届いていないのが見て取れた。丁寧に洗濯物が干してあった。同時に、懸命に住人が暮らしを建て直そうと奮闘している様子も見て取れた。
私は自分の生まれ育った実家を思い浮かべた。私の実家であるシーブルック家は海運業で莫大な富を築いていた。
アーニャは、かつての私の家庭教師が連れてきた私の勉強相手だった。
しかし、今初めて気づいた。
アーニャの目に、シーブルック家はどう映っていたのだろう。
赤煉瓦の大きなカントリーハウス、光り輝くガラス窓、笑声の響く広いダイニング、たくさんの使用人、メイドのネル——それら全てが、ホーソーン・マナーには何一つなかった。
アーニャは13歳の時から、毎週この違いを見せつけられていたのだ。
私は目の前の剥がれた漆喰を見つめた。親友の気持ちを、私は何一つ理解していなかった。
それでも。
あの頃は幸せだと思っていた。
サセックスの幸せな夏の思い出が、今となっては私の胸を痛いほどに締め付けた。ロンドンのブルームズベリーにも贅沢なタウンハウスを持つシーブルック家での思い出は、アーニャとの少女時代の思い出と共に私の記憶に刻まれていた。
特にサセックス地方で過ごした思い出は、ロンドンの喧騒より遠く、静かな海の塩気も甘酸っぱく、レッドワイクチェイスの森の湿り気も芳しく、私の胸の奥底に染み込んでいた。
シーブルックの屋敷で初めてアーニャに出会った瞬間を今でも私は覚えていた。可憐で愛らしく、私の親友だったアーニャ。
それなのに。
私は親友と夫となった最愛の人の裏切りによって、私の人生は破壊されていた。
ふいに、少女時代にブライトンの街で洋菓子店で買ったお菓子を持って、丘の上までメイドのネルと共に駆け上がるようにして、笑いながら登っていく風景が心に広がった。私の隣には、いつも笑顔のアーニャがいた。懐かしさと共に、再び涙が込み上げた。私のそばにはずっとアーニャがいてくれた。
私の人生は今まで常に光に溢れていた。
アーニャの視線で見ると、こんなにも現実は苦しみが見え隠れするものなのか。
あれほど一緒にいたのに、今まで、ホーソーン・マナーには数えるほどしか来たことがなかった。
目の前の漆喰の剥がれた窓枠を見つめた。
「再興する、ね……いいね。で、何をして再興するつもりかな?私にも手伝えることがあると思うから、頼って欲しい」
グレイは、私の目を見てきっぱりと言った。
「わかったわ。私が得意なものが何なのか、よく考えてみるわ」
「2日後、また様子を見に来るから」
「ありがとう。あなたが私に気づいてくれて、本当に感謝しているの。今日は、あなたなしでは、私の心は保てなかったわ」
私は正直に感謝を伝えた。
以前は気づかなかったが、エドワード・グレイは本当に頼もしい青年だった。
グレイは去り際、振り返って手を振ってくれた。
私の味方は、意外と近くにいてくれたのだ。
お読みいただき、本当にありがとうございます。
第2章『野薔薇の棘——ホーソーンの実』編となります。次回は夕方更新予定です。
荒れたホーソーン・マナーの庭にも、野薔薇は咲きます。
どうか、この先も見届けて頂けましたら幸いです。




