12.勿忘草の告白 フォーゲット・ミー・ノット(2)
「ドレスが気に入らない?」
私は振り向いた。
――あぁ。
――知っている人。グレイね。
見覚えのある笑みに、ブライトンの潮風が頭の中に広がった。港湾臨時書記をしているエドワード・グレイという若者だった。
父の仕事の関係もあり、私はこの青年を知っていた。
「ああ、グレイ……あなたなのね。しばらく会わなかったけれど……私、結婚するの」
「知っているよ。街中その話だ。おめでとう」
彼は仕立て屋の窓へ視線をやった。
「ここで、立派な花嫁になるはずじゃなかったのか」
私の唇が震えた。
「……やめたいの」
「何を?」
「結婚を。……私は愛されていないから」
あまり会わない、自分のそばにいない人だからこそ、本音が話せるということもある。
私は自分の本心を初めて他人に話せた。グレイは以前から知ってはいたが、それほど頻繁に会う相手ではなかった。
グレイに打ち明けた事に自分でも驚いたが、止まらなくなった。
「……本気で言っているのか?」
私が頷くのを見るなり、グレイはすぐに通りを見回し、軽く手をあげた。
「どうしたの?」
「ここで泣くのはまずい」
……え?
「ブライトン中が君の結婚の噂でもちきりだ。仕立て屋の前で主役の花嫁の君が泣いていたとなれば、今夜には港中に広まる」
グレイは仕立ての良いリネンの襟首を神経質に指で開けた。灰青色の軽いコートを着こなし、白いリネンの襟元には一分の乱れもなかった。
5月の陽光の中でも暑苦しさはなく、むしろ海風の似合う服装だった。しかし、港で帳簿をつける男性にしては、あまりに仕立てが良すぎるかもしれない。
彼が私の話に驚いていて、私を心配していることだけは分かった。
「人目のない場所へ行こう。君の涙が止まるまで話を聞く」
その時、馬車がすっと近づいてきた。馬車は黒塗りで、飾り紋もなく簡素に見えた。だが真鍮の留め具は曇りなく磨かれ、車輪は驚くほど静かに回った。
引かせている栗毛の二頭立ては、町の商人が持つには出来すぎた馬だった。
「この馬車はどうしたの?どこの馬車?」
結婚をやめたいと口にしただけで、凍りついていた心が少しほどけた。ようやく自分の体が自分のものに戻った気がした。
「あぁ、港の商人会の会頭から、好きに使えと言われている馬車だ。帳簿付けが得意だから、報酬がわりに借りている」
グレイは港の商人たちが集まる港湾会計所で帳簿仕事をしていたのだ。
私たち2人が馬車に乗り込むと、馬車は滑らかに走り出した。使用人に命じ慣れた者のように、グレイは短く御者へ指示を出した。
港の書記にしては、グレイの靴も手袋も上等過ぎた。アーニャになってみた経験から、私はさりげなく相手の靴や服装を見るようになったのかもしれない。今まで自分が気づかなかったことに、気づいた。彼が持つ手袋の皮も柔らかく、縫い目が細かかった。
グレイの持ち物はさりげなく一級品だ。
「お仕事、順調なのね。あなたが最初にブライトンにやってきたときの事を思い出すわ」
「失敬な……あの頃からだいぶ腕をあげたよ」
グレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「この馬車の中なら、窓の外へは何も漏れない」
私の涙は止まった。私はこの人にはなぜか本音を話せるようだ。
「あなたにだけに話すのよ。誰にも言っていないし、きっと誰も信じてくれない話よ。あなたはこの話を忘れてくれていいわ。でも、いまだけ私に少し時間をくれるかしら。私の決意を聞いてほしいの」
「わかった」
グレイは真っ直ぐに私を見た。
「レッドワイク・チェイスの狩猟用ロッジの中で、さっき見てしまったの。アーニャとイーサンが、あのロッジで抱き合っていたの。あの2人は愛し合っているわ」
それだけ言うと、私とは別人のような乾いた声が馬車の中に残響として漂うのを感じた。
一体、だれの話なんだろう。こんな空虚で現実味のない話を、なぜ自分の口から語るのか。
でも、真実なのだ。これは、間違えてはならないし、見逃してはならない真実なのだ。
奇跡が起きた。私は3年後の事故死から、なぜか時間を遡っているのだから、今度は間違えてはならない。
グレイは黙り込んだまま、しばらく何も言わなかった。
馬車がブライトンの街並みを縫うように滑らかに走っている。
その馬車の音と、馬車の窓越しに聞こえるブライトンの街の喧騒だけが、私にこれが現実であると教えてくれているような気がした。
絞り出すようにグレイが声を出した。
なぜか、私の話を聞いたグレイの方が、私より怒っているように見えた。
「……君はさっき、仕立て屋の前で、泣きながら結婚を取りやめたいと言った。レッドワイク家に嫁ぐのを本気でやめたいのか?」
私は突然、自分の声がはっきりと出るのを感じた。
「取りやめるわ。この結婚は中止すべきよ。いえ、中止したいの。父と母にこれから話すわ。仕立て屋にドレスはもういらなくなったと話すの。代金は支払うから、仕立て作業を一切やめて欲しいと言おうとしていたのよ。私は本気よ。イーサンとは絶対に結婚したくない」
グレイは私の目をまっすぐに見ていた。
深いブルーの瞳が煌めいていて、私の顔をじっと見つめる仕草はなんだかとても大人びて見えた。
「君の意見を尊重する。君が結婚したくないというなら、取りやめるべきだ。この件において、私は君に賛成だ。よりにもよって君の親友を汚し、君を欺いた。彼に婚約者を名乗る資格はない」
私はグレイの言葉を聞いて、安堵した。本音を初めて他人に聞いてもらった。私の意志に賛同してくれる理性的な人がそばにいてくれた。さっきまで世界には敵しかいないと思っていた。
けれど、ここには一人だけ味方がいた。




