11.勿忘草の告白 フォーゲット・ミー・ノット(1)
「お嬢様、今日は一段とお綺麗に見えますわよ、きっと!楽しみでございますね。イーサン様もお嬢様の美しいドレス姿に大喜びされます」
ネルは私を期待に満ちたひとみで見つめ、ワクワクしていた。
私の心は張り裂けそうだった。しかし、ネルにはどうしても言えなかった。
――父と母に言わなければ。
――ドレスの仮縫いは今日中止しなければならないわ。結婚式などしないのだから。
――私は絶対にあの男の妻にはならない。
『キャロラインは気づかない』
イーサンの言葉が頭に響いて、私をどん底の気分にさせた。
世界が終わったように感じる。生きる価値などないように感じた。
今着ている上質シルク・タフタのドレスが、全くの無意味に思えた。
どれほどお金をかけて職人が美しく仕立てあげたドレスを着ている私より、自らほころびを直したドレスを来ているアーニャの方が、イーサンの愛を勝ち取っていたのだから。
Cと金糸で刺繍されたリネンのハンカチを見つめて、私は大粒の涙が溢れるのを抑えきれなかった。
「お嬢様っ!一体……?」
ネルはオロオロと私を気遣い、「ご気分がお悪いですか?」と優しく聞いてくれた。
ネルにはまだ言えない。
「仕立て屋の約束の時間に遅れるわ。このまま馬車は予定通り進めてちょうだい」
私は歯をくいしばるようにしてネルに伝え、ハンカチで涙を拭った。
5月の陽光は美しかった。
サセックスからブライトンの港街までの道のりは、白い石灰質の土道が続いていた。空はどこまでも広く、草原が広がる一本道を馬車は進んだ。
やがて、ブライトンの街が近づくと、馬車は白い土煙を上げながら、緩やかな丘道を下って行った。
道の左右には生垣が続き、ウッドアネモネの白い小花が風に揺れていた。
白いレースのような野花が揺れ、本当に花嫁になるのであれば、私は道が祝福してくれるように感じただろう。背の高い白花は、レースのような花だ。
しかし、今の私の気分はどん底で、海の底に沈んでしまいたいぐらいだった。
遠くで海鳥の声がした。潮の匂いが、まだ見えぬ海から届いてきた。
ブライトンの街に入ると、賑やかな喧騒が馬車の中に流れ込んできた。
いつも贔屓にしているリネン店、母とよく訪れる帽子屋、高級靴屋、仕立て屋、茶商人、宿屋と所狭しと立ち並び、絹ドレスを着た貴婦人や商人にまじり、積み荷を運ぶ荷車や荒っぽい船乗り達が行き来していた。
密輸も盛んであり、私の実家のシーブルック家も海運業で富を成しており、私にとって、ブライントンの街は子供の頃から庭のようなものだった。
今日の街はいつも以上に生き生きしているように見えた。
私以外の人々は世界が笑いで満ちているかのようだ。
私は、ひどい疎外感を感じた。孤独だ。この世界から消えてしまいたいほどの悲しみが、心の奥底を満たしていた。
私のウェディングドレスをお願いしていた仕立て屋の前で馬車は止まった。私は馬車を降りて、ネルを先に返そうとした。
「私も嫁入り前の気鬱というものかもしれないわ。叔母さまも、式前には誰でも心細くなると仰っていたの。ネル、今日は一人で考えたいの。式前には、みんな一人になりたくなるものらしいのよ。仕立て屋からは歩いて戻れるわ。あなたは先に帰ってちょうだい」
ネルに気付かれないよう、気鬱のせいにした。
「まぁ、お嬢様っ!」
ネルは心配そうな顔で眉を八の字にして、私に寄り添おうとした。
「あなたも驚かせたいのよ。私のドレスを見てあなたもきっと驚くわよ」
私は無理やり茶目っ気たっぷりに言った。ネルには真実をどうしても話せなかった。
「そうですか。分かりました」
結局、ネルは引き下がってくれた。
――ごめんなさい。私は幸せな花嫁になれないことがはっきりしたのよ。
私は笑顔でシーブルック家の馬車を見送り、仕立て屋の前で深呼吸をした。
しかし、いざ、仕立て屋の扉に向かって歩き始めると、窓から私の花嫁衣装が目に入り、凍りついたように体が動かなくなった。
窓辺には木製の衣装台が据えられていて、私の花嫁衣装が静かに掛けられていた。
アイボリーのシルク・タフタのローブ・ア・ランゲレイズだ。最高級の生地とレースを使い、ボディスはピッタリと体に沿い、胸元には控えめにレースが施されていた。袖は肘丈で、細レースがある。
歩くたびにタフタが優雅に鳴る美しいドレス。
頭も顔もないその木製の胴体に、象牙色に輝くシルクだけが陽を受けて、命を持つように光を放っていた。まるで真珠のような輝きだ。
――あぁ、私が着たドレス。
――3年前、幸せいっぱいだった私がイーサンと結婚の誓いを立てた時にきていたドレス。
――お母様が三度も選び直してくれたレース……。
世界一幸せ者だと思って着たドレスは、不幸の入り口のドレスだった。
私の目に、職人が裾の銀糸を縫い進めている姿が見えた。
――誰もが私が花嫁になる未来を疑っていないわ。
私は涙がまた溢れるのを感じた。身動きができない。
仕立て屋に入ることも、ここから離れることもできない。足がすくんで動けない。涙は後から後から大量に流れてきて、私は肩を震わせて泣いた。
「ドレスが気に入らない?」
背後から男性の声がした。私は思わず振り返った。足はまだすくんで動けない。
灰色の該当を肩にかけた長身の男性が、通りの陽差しを背に立っていた。
見覚えのある笑み。
潮風の匂いを思い出させる顔。
グレイだった。




