19.もう離さない
まだ子供の頃……。その身に呪いを受け、同時に母を失ったジェルドは、絶望のまま屋敷に引きこもり、何かに期待することなどなくなっていた。
3年前に、自分の力で人の命を簡単に奪えると分かった時には、さらにその感情は悪化した。誰かと近しくなるのは怖い、自分の存在など消えてしまえばいいのに、と常々思い、惰性で生き永らえた。
そんなジェルドでも、一度話したきりの、まだ幼い面影の残る聖女のことを思い出す時だけは、気持ちが穏やかになるのを感じた。聖女に関わる書籍、置物、小物……それらを集めていると、まるでその時の女の子が自分のそばにいるかのような錯覚を覚えた。それだけが、自ら進んで命を捨てようとしなかった理由かもしれない。
穏やかに、自分の魔力が尽きるのを待っていたあの日——。
ソラが屋敷を訪れたことで、ジェルドの人生は一変した。
ずっと海の底に沈んでいたのに、光が差し込んだような、急に息ができるようになったような感覚だった。ジェルドがどんな態度をとっても、彼女はいつも我慢強く寄り添い、決してそばから離れることはなかったし、笑顔を向けて話しかけてくれた。ソラに触れたときには、心が震えた。温かい、とても温かい。この世界には自分一人ではない、自分を真剣に受け止めてくれる人がいる。ジェルドの世界は、いつしかソラがすべてとなっていった。
ソラの姉が聖女だったと聞いたときにも、感情が揺れ動くようなことはなかった。今の自分を導いてくれたのは……心の支えになってくれたのは……ソラだから。ソラと、ずっと幸せに暮らせるなら、どんな努力もするし、乗り越えられると思った。
それなのに。
式典の夜。ソラは、ジェルドから離れていった。
「私も、お二人の幸せを心より祈っております!」
冷たく、突き放すような言葉。今まで自分に向けられていたそれとは全く違う、固い笑顔……。
それでも、何度も声を掛けようとしたが、ソラには目すら合わせてもらえなかった。ほんの少し前までは、一緒に笑い合っていたのに。……まさか、何も話すことができないまま、別れることになるとは。
ジェルドは、その後もずっと、ソラが自分の元に会いに来てくれることだけを待ち望んでいる。やっぱり会いたくなったと笑いながらその顔を見せに来ることを、ずっとずっと待っている……扉がノックされる度に、名前を呼ばれる度に、期待をしてしまう。
数週間経ったか……未だに、ジェルドの元にソラが訪れることはない。
ジェルドはピアスにそっと触ると、静かに目を閉じた。ソラの……綺麗な瞳の色と同じ。深い青の魔道具。しばらくすると、声が聞こえてくる。
『しょうがないじゃない。ソラが全然来てくれないから、こっちから動くしかなかったんだから!』
『う……ごめんなさい』
どうやら、聖女と話しているようだ。黙って聞いていると、自分のことが話題にのぼり、ジェルドの心が跳ねた。
『こっちは今本当に大変なんだから。ジェルド様ったら毎日毎日……』
『ティアナ。……あの……二人が望むようにすれば、それでいいんじゃないかな?』
『だから! そういう話をしたい訳じゃ——』
ソラが、聖女の話題を遮った。ジェルドは自分のことを気にかける素振りも見せないソラに、ひどくショックを受ける。
ジェルドは、式典の後から、ほとんど寝ることもなく、ひたすらソラの様子を、魔道具で盗聴し続けていた。王宮の自室に引きこもり、他の人間の立ち入りを許さなかった。最低限の身の回りの世話も極力受けず、最後に食事をしたのはいつだったかすら覚えてもいない……
でも、どれだけ聞いても、ソラがジェルドの名を口にすることはなかった。話している相手が話題に出しても、今のようにふわりとかわし、別の話題にしてしまう。街の人間や騎士団の男達とは楽しそうに話しているのに、ジェルドとの生活はまるでなかったかのようにされる……
「ソラ、俺、お前が嫌がるようなこと、何かしてしまったのかな? もう、俺の事……必要ない?」
「殿下! そろそろ起きてください!!」
その時、バタン、と元気に扉が開き、ジェルドは慌てて振り返った。そこには焦がれた女性が立っている。
「ソラ……? 戻ってきてくれたのか?」
ソラはずかずかと室内に入ってきた。
「殿下、何を寝ぼけているんですか? もう、すっかり日も昇り切っているじゃないですか。これから、鍛錬の時間ですよ」
「あ、ああ。……しょうがないな。今準備するから、ちょっと待って……」
そのまま、差し出された手を掴もうとする。
ソラが目の前にいる——。俺に、話しかけてくれている……。
どさっ……
伸ばした手は、虚しく空を切った。
どうやら、寝台から落ちたようだ。冷静になると、1人固い床に転がっているのが分かった。重い、沈んだ空気。日中でも締め切り、薄暗い暗い王城の自室。じわじわと、現実世界に引き戻される。どうやら、一瞬意識が飛んでいたようだ。
夢すら、まともに見せてくれないのか……
ジェルドは伸ばしたままの手を強くにぎりしめる。手には、血がにじんだ。体の震えが止まらない。
(ソラ……ソラの声を……聞きたい)
縋るように再び魔力を込めると、更にジェルドの心が抉られる。
『——辺境伯の領地に、行こうかと——』
ソラは……俺を捨ててどこかに行ってしまう……?
(……限界……だ)
「ソラ……ソラ」
何度もその名を口にする。
ソラ、会いたい。声が聞きたい。その体に触れたい。なんでこっちを見てくれない? どうして離れて行ってしまう?
未だにがたがたと震えの治まらない手で筆を執った。
『ソラ。 話があるから、今日の夜、屋敷に来て。』
無我夢中で、魔法に手紙を乗せる。
ソラの顔を見たら、なんと声をかけてやろうか。
また、一緒に笑えるだろうか。
―—もし、嫌な顔をされたら?
――逃げ出そうとしたら?
そんなこと、許さない。
「もう……離さない、から」




