5話 大森林②
翌朝。
デルフィナが起きてテントを出ると、ランは焚き火で鍋を温めていた。
「おはよう。寝れた?」
「おはようございます。お陰様でぐっすり眠れました」
川へ顔を洗いに行き、水面を鏡代わりに髪を結う。
戻ると、ランが座るよう促して湯気の立った木の椀を差し出してきた。
「はい。大したもんじゃないけど」
「ありがとうございます」
昨日の鴨と茸を細切れにして、干した麦と香草を加えた粥のようだ。
食欲をそそる香りが漂ってくる。
ランも椀を手に横に座った。
「今夜には関所に行けると思う。そうしたらちゃんとしたものが食べれるな」
「どれもちゃんと美味しいですよ」
少しズレた返答をして、デルフィナは一緒に粥を食べ始める。
麦に染みた鴨の出汁が味わい深い。
「関所まで送り届けたら、俺の役目も終わりだ」
「……そうですね」
デルフィナのスプーンが止まる。
顔を上げて、不安気にランの顔を見た。
「本当に、報酬をお支払いしなくていいんでしょうか」
「ああ。教会に寄ってたら二度手間になるし、オルヴァルに知られる前に早く軍に保護して貰った方がいいからな」
「……はい」
ランは軽い調子で肩を叩く。
「そんな顔するなよ。リュネールにいればまた会えるって」
デルフィナは寂しそうに微笑んだ。
「そうですね」
朝日に照らされたテントを眺めているのを見ても、ランはそれ以上は何も言わなかった。
川でデルフィナが鍋と椀を洗う間に、ランがテントを仕舞い、二人は野営地を後にした。
順調に山を下り、森の出口に近付いていく。
ランが異変に気がついたのは、獣道の近くを通った時だった。
周りの空気が妙に静かな気がした。
「……待って」
隣のデルフィナを制し、大きなリュックを背負ったランが一歩前に出た。
道の真ん中に点々と赤い血の跡がついている。
「何してる!」
周囲を警戒していたランが、突然鋭い声を上げた。
茂みが動く。
それは獣道に入り込んだ二人の狩人が、何かの塊を抱えて逃げていく後ろ姿だった。
「まずいな」
ランがデルフィナの手を取った。
足早にその場を移動する。
「熊の密猟だ」
「密猟?」
「岩甲熊の成獣は凶暴で手がつけられないから、小熊を密猟する奴がいるんだ。母熊が近くにいたら襲われる」
ランに引かれて走りながら、デルフィナは寒気を感じて振り返った。
木々の間に佇んでいる黒い塊。
全身を黒い毛に覆われ、額だけが岩のような肌で覆われた巨体が、獰猛な目を光らせていた。
デルフィナは強く手を引いた。
「ラン!」
「逃げろ!」
ランがデルフィナを後ろに庇い、短剣を構えた。
岩甲熊がまっすぐこちらへ走ってくる。
ランが短剣を振り上げる。
デルフィナは反射的にラウルスへ叫んだ。
「我が願いよ、地を裂け!」
「承諾」
熊の爪がランに触れる直前。
足元から伸びた蔓が、岩甲熊の首に巻き付いて引き倒す。
幾重もの蔦が地面から伸びて熊の身体を地面に縫い留めた。
巨体が土にめり込む。
暴れていた岩甲熊は、やがて動かなくなった。
デルフィナは胸に手を当てて呼吸を落ち着かせる。
「ふぅ……」
反動で地面に座り込んでいたランに、デルフィナはおずおずと手を差し伸べた。
「あの、大丈夫ですか。ラン」
ランは目を白黒させながらその手を握る。
「ん?ああ……助かった」
立ち上がると、短剣を手に岩甲熊の呼吸を確認する。
そして熊に巻き付いた蔦から、デルフィナの腕の黒い本に視線を移動させた。
杖すら持っていない彼女の唯一の持ち物。そして先程、彼女がその本に向かって叫んでいたように見えた。
「なぁ、それ……何?」
「口を弁えよ、小僧」
ラウルスの声に、びくっとランの肩が跳ね上がる。
「我は破滅の書である。貴様のような童など小指を捻るように簡単に」
「ラウルス」
「……」
デルフィナが遮ると、ラウルスは黙った。
「破滅の書……これが……」
呆然としていたランは、落ち着きを取り戻すとラウルスと蔦を交互に見やる。
「破滅の書は自然を操ると言うが…植物を自在に育てられるのか?」
「頭が高いぞ小僧」
「ラウルス」
「……」
デルフィナはラウルスを黙らせ、聞き直す。
「ラウルスは植物を育てることが出来るのですか?」
「我の願いは地中に在る種子の力をも最大限に解放する。しかし種を生み出すことや、望むだけ成長させる力に非ず」
ランは顎に手を当てて思案する。
「やはり、破滅の書では生み出すことは出来ないんだな……」
「育てたい植物があるのですか?」
デルフィナの問いに、ランは曖昧に笑った。そしてラウルスに向き直る。
「なぁ、再生の書はどこにある?」
「再生の書?」
デルフィナはラウルスに目をやる。
「そんなものがあるの?」
「我と対なる書。我が自然を司る者なれば、其れは生命を司る」
初めて聞く話にデルフィナは驚いたが、ランは眉を寄せて腕を組んだ。
ラウルスの装丁を見つめて、少しだけ饒舌に言葉を重ねる。
「実在するんだな。それはどこまで生命に干渉できるんだ?」
「不遜な小僧よ、我の前に跪け」
「ラウルス」
「……」
デルフィナの冷たい声に、再びラウルスは止まった。
ランはそっと息を吐いた。
「デルフィナ様」
デルフィナに向き直った彼は少し視線を彷徨わせる。やがて意を決したように口を開いた。
「俺の知り合いに、再生の書を探してる人がいるんだ。リュネールとオルヴァルの戦争を防ぐために」
「……!」
「あんたも聖女なら分かるだろ?生命を救う力があれば、馬鹿馬鹿しい領地争いなんかしなくて良くなるかもしれない」
ランは手のひらを見て、歯痒そうに握りしめる。
「そんな簡単な話じゃないけどさ。俺はあちこち旅しながら、再生の書の情報を探してたんだ。ここ数十年、契約者が現れたって記録もなくて完全に手詰まりだったけどな」
苦い顔でランは頭を掻く。
「まさかあんたが、破滅の書を持ってるとは思わなかった。それでオルヴァルから追われてたのか?」
デルフィナは静かに首を横に振った。
「……いいえ。逃げ込んだ祠に、封印されたラウルスがいたので契約しました」
「じゃあ、その力をこれからどう使う?」
ぴくりとデルフィナの目元が緊張するのを見て、慌ててランは首を振った。
「あ、悪い。変な意味じゃなくて。あんたは誰かのために、力を使う気がしたから」
ランが息を呑む音がした。
「デルフィナ様。俺と一緒に、ある人に会って欲しい」
今までになく真剣な顔でデルフィナの手を取る。
「どうやって破滅の書を見つけて、契約を結んだのか教えてくれるだけでいい。決して本を奪ったりはしない」
「信用するな、デルフィナ」
二人の手のすぐ下でラウルスの声がする。
「此奴が何者かも分からぬのだぞ」
「それは……私も、同じです」
デルフィナは俯く。
「私がどうして追われてるか、ランは聞かないで助けてくれた」
「恩に着せるつもりじゃなかったんだ」
申し訳なさそうにランは視線を落とす。
「これはリュネールの都合だから。ただ…もし帝都まで来てくれたら、賓客として王城で保護して貰えるはずだ」
栗色の瞳が動いてデルフィナを見つめた。
「頼む。あんたに無理強いはしたくないが、やっと見つけた手がかりなんだ」
懇願するような表情。
彼らしくない。
たった二日間過ごしただけなのに、デルフィナはそう思った。
「……ラン」
デルフィナはくすりと笑ってランの手を握った。
「一緒に帝都まで行けばいいのですね」
「ありがとう」
ランは一歩近寄ろうとして、踏み留まる。
握った手を解くとデルフィナに背を向けた。
「まずは予定通り西の関所へ行く。そこで一泊して、馬車を頼もう。魔導馬車なら帝都まですぐだから」
「分かりました」
歩き始めたところで、ラウルスが口を開く。
「小僧。我が主に何かあれば貴様の首も森の養分にするからな」
「……覚悟しておく」
背後の岩甲熊をちらりと振り返り、ランは首を押さえた。
後ろのデルフィナと目が合う。
苦笑いする彼女に、ランは複雑そうな笑みを返した。




