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2話 国境の祠

「……っ」


デルフィナは瞼を開けた。

落ちた瞬間、少し意識が遠のいていたようだ。

暗くて何も見えない。

しかし横たわった身体の重みと、じっとりと泥に塗れた肌の不快感が、ここが現世であることを教えていた。


「ここは……?」


上体を起こすと、腕に鋭い痛みが走る。

矢尻が掠めた箇所の袖が破れて血が滲んでいた。

所々切傷もあるが、幸い打撲だけで骨折はしていないようだった。

周囲に人の気配が無いのを確認して額のサークレットに触れる。


「女神の御名に於て、癒しを」


腕に指を当てると、白い光が傷口を包み込む。

やがて光が消えると、傷は塞がり、僅かに引っかき傷のような跡だけが残った。


「光を」


デルフィナの周囲が薄明かりに照らされる。

そこは森ではなかった。

頭上も側面も、あたり一面が白灰色の鍾乳石で覆われている。

崖の中腹に穴が空いていて、そこに投げ込まれるように落ちたらしい。

耳を澄ませても石に落ちる水音が響くだけで、衛兵が近くにいる気配は無い。

見回してみたが杖は見当たらなかった。


「……おかしいわ」


デルフィナは鍾乳洞の奥へ目を凝らした。

地面に、人が通るために道具で削ったような跡がある。

どちらの国の物かも定かではないこの場所に、誰が手を入れたのだろう。

デルフィナは服の泥を払い、通路を歩く。

そう広くない鍾乳洞の最奥へは、すぐに辿り着いた。


「封印?」


鍾乳石に埋もれるようにして、小さな石造りの祠が青白く光っている。

細工を施された扉の中央には封印の紋が浮かび上がっていた。

邪悪な気配ではない。しかし神聖魔法とも違う、純粋な魔力を感じる。


「これは、古代魔法……」

「左様」


祠から聞こえた返事に、デルフィナは一歩退いて身構える。

その嗄れた男性の声は、彼女に向かって、はっきりと問いかけた。


「力が、欲しいか?」

「どんな力かによります」


デルフィナは冷静に答える。

祠の中で、何かが笑った気配がした。揶揄うような声音が続く。


「女神の加護持ちなだけあって余裕があるな。しかし何やら困っているのではないか?」


封印されながらも、その存在は彼女が聖女であることも分かるらしい。

デルフィナは破れて泥だらけになった衣服を見下ろす。


「まぁ……そうですね。だけど袋の中身を確認せずに購入する客などいないでしょう」

「封印を解いて手に取ってみるがいい」

「触れたら強制的に契約が結ばれたりしませんか?」


警戒を隠さないデルフィナを面白がるようにその声は応える。


「斯様にして契約は結べぬ。しかし、我が力を目の当たりにして欲しがらぬ者などいなかった」


デルフィナは祠に手を翳して溜息を吐く。


「大した自信ですこと」


封印の紋が消え、扉が開く。

中に入っていたのは黒い革張りの本だった。表紙には細やかな銀の装飾と黒曜石が嵌められている。

本から、先程の老人の声がした。


「手に取り、こう唱えよ。『我が願いよ、地を裂け』と」


デルフィナはその文言に一抹の不安を覚える。


「こんな所で使って大丈夫ですか?」

「地面が無くなれば地上に出られるぞ」

「無くさなくても出られます」


反論しつつも、デルフィナは諦めたように本を手に取った。重い装丁を片腕に抱え、離れた壁に向かって手を翳す。


「我が願いよ、地を裂け」


石を劈く轟音。

何かが下からやってくる。

手を翳した方向。

黒い蛇のようなものが、鍾乳石を折りながら地面から天井を一直線に貫いた。


「……!!」


思わず腕で顔を庇う。

動きが止まり、遅れてパラパラと破片が落ちてくる。

デルフィナはそっと腕を下ろした。

蛇に見えたそれは、大きな暗褐色の根だった。


「木……?」

「左様」


やっとそれだけを呟いたデルフィナに、本は饒舌に語りかける。


「我はその昔、人間から破滅の書と呼ばれた。しかし何ということもない、植物達を少しばかり成長させてやるだけだ」

「成長させるだけ……」


彼女は石の壁を突き破った、幹のように太い根を見やる。


「暴走させているの間違いでは?」

「自らを壊す力ではない。大地を破壊していると言えばそう見えなくもないが」


嘯く本の表紙を眺める。

意思を持つ古代の魔導書など、学者の夢物語だと思っていた。

伝説上の存在が、今彼女の手の中にある。

しかしデルフィナは妙に心が落ち着いているのを自覚していた。


「それで、破滅の書ですか」

「我はラウルス。お主の望みを聞こう」


デルフィナは少し考え、本──ラウルスを握り直す。

こんな状況でさえなければ、もう少し温かな世界を思い浮かべただろうと思いながら。


「私が王妃になる予定だったオルヴァル皇国を、リュネール帝国の属国にしたいんです」


ラウルスは興味深そうに笑った。


「ほう」

「今、オルヴァルは不作に苦しんでいます。王太子は食糧を増やすことを諦め、侵略によって得ようとしている。けれど我が国には帝国に匹敵する軍事力はない」

「王は何をしとるんだ」


鋭い指摘にデルフィナは苦い顔をする。


「国王陛下は賢帝であらせられますが、武力を好みません。代わって王太子が軍や騎士団を指揮しています」

「ほう?」

「国王が交渉で手に入れた領土の重みを分かっておらず、同じように、武力で領土を得られると思っているのです」


デルフィナは深い溜息を吐いた。

自分が受けた仕打ちよりも、許せないことがある。それが最初に思い浮かんだ力の使い道だった。


「王太子でありながら戦況を顧みず、民に更なる苦しみを背負わせようとしています。それならいっそ政権を帝国に渡した方が良い」

「どうしてお主がそんなことを?」

「…どうして」


言葉が途切れる。

デルフィナはラウルスに目を落とし、指先で銀の装飾をなぞった。

滑らかな黒曜石にデルフィナの顔が映っている。


「今は追われる身ですが、それでも国民を放っておけないのです。彼らの血が流れるのを見過ごすことは出来ません」

「ふむ。人間の情とはそういうものだ」


享受するような言葉に、デルフィナは小さく微笑んだ。


「そうですね……愛してしまったら、どうしようもないのだと思います」


彼女は穏やかな声で続ける。


「その為に、ジェラール殿下には偽の聖女共々帝国に負けて頂かなければ」


剣呑な光を帯びた瞳を、瞬きで打ち消した。元の調子でラウルスを抱え直す。


「まずはリュネールの関所に行くことにします」

「この下はリュネールの領土だろう。50年前と変わっていなければ」

「50年前?」


思わずデルフィナはラウルスを見る。


「前の主は50年前に死んだ。102歳まで生きて、我をここに封印していった。我を扱える人間のみが契約を結べるように」


ラウルスは淡々と続けた。


「人間はすぐに死んでしまう」


デルフィナは思いを馳せるように祠を見る。

華美では無いが安らぐような装飾を施した、ラウルスを眠らせるための石の寝所。


「それでも、また契約を結ぶのですね」

「情とはそういうものなのだ」


ラウルスは他人事のように言う。


「それで?お主は契約せんのか」

「性急な男性は嫌われますよ」


涼しい顔で窘めると、デルフィナは本の表紙に手を翳した。


「100歳まで生きる自信はありませんが、よろしいですか」

「よい、よい。久しぶりの契約者だ、60年程度でも我慢してやろう」


ラウルスは上機嫌に笑う。


「お主の名は?」

「デルフィナです」

「我が名はラウルス。汝、デルフィナの命脈が尽きるまで、我は汝の智となろう」


本の表紙に嵌められた黒曜石が煌めき、デルフィナの胸に光が灯った。

その光は身体の奥へ沈むように消えていく。

女神とは別の魔力が染み込んでいくのが分かった。


「聖女が破滅の書の主になったのは初めてだ」


ラウルスは好々爺のように笑う。

不思議な感覚を確かめるように、デルフィナは胸に手を当てた。


「信仰とは相反しない力なのですね」

「女神は人を愛する故に力を貸し、摂理を守る。我は人に使役される存在なれば、望みを叶えるために摂理を破るのよ」


楽しそうなラウルスに、デルフィナは複雑そうな顔をして首を振る。


「なるほど……それほどの力ならば、禁忌になるでしょうね」

「しかしお主の目的は達されようぞ。我が智で城でも軍でも破壊してやろう」

「それは最終手段にしましょう。まずは、リュネールの軍に情報を流しに行きます」


ジェラールからは売国奴の魔女と罵られそうだ、とデルフィナは苦笑する。

しかし破滅の書によって王都を蹂躙するよりはずっと良心的だろう。

開き直りにも似た、妙にすっきりした頭でそう思っていた。


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