15話 大森林
デルフィナとランベルトは朝、馬車で王城から関所に向かった。
ランベルトは動きやすい旅装束に、闇夜に紛れやすい黒いマントを羽織っている。マントを留めているのは王家の紋章が彫られた金具だ。
彼は向かい合わせのデルフィナに見えるように、膝の上で地図を広げた。
「関所についたら、まず本部で先遣隊と前衛の配置の再確認。そこから夕方までに国境のこのあたりまで移動して、夜を待つ。日が沈んだら、斥候が使う獣道を通って拠点に」
デルフィナは地図上を移動するランベルトの指を目で追って頷く。
「総司令官と先遣隊には、俺達が最後の交渉に行くと伝えてある。流石に何も言わないで動くと現場が混乱するからな」
「はい」
「皇国の拠点は、柵で囲われた野営地だ。司令用の建物が一つと、倉庫以外は天幕。まず野営地を丸ごと木で囲って孤立させる」
地図から顔を上げたデルフィナはランベルトを見る。
彼は拠点の上に指を滑らせた。
「そして関所へ続く道一帯に、野茨を増やす。そこを破って進もうとは思わないはずだ。あっちからしたら何が起こってるか分からないのに、森じゃ逃げ場も無いからな」
デルフィナの横に鎮座したラウルスから愉快そうな声が聞こえる。
「我の力を前に恐れ慄くわけだな」
「まぁ今回は、完全にそうだ。山が襲ってきたようにしか見えないと思う」
ランベルトの瞳が獲物を狙う猫のように水平に動いた。
「その混乱の中で精霊の怒りだ!って俺が叫んだら、どうなると思う?」
「良い性格をしておる」
「褒め言葉として受け取っておく」
彼は地図を仕舞いながら、口の端を上げた。
「せっかく破滅の書があるんだ、目一杯脅して無駄な争いは避けよう」
「はい」
デルフィナは胸をなで下ろす。
まるで彼女の荷物を、ランベルトが後ろから取り上げて担いでいってしまったような。
背中が軽くなるのを感じていた。
昼過ぎに関所本部へ着いた二人は、一通り確認を済ませると西日が傾く頃に街道を避けて細い山道から森へ入る。
「女神の御名に於て、疾く駆けよ」
足元に杖を翳し、デルフィナが魔法を掛ける。
「ありがとう。お陰で山道も大分楽に行けそうだ」
ブーツでトントンと地面を踏み、手袋をはめ直す。
「今日は弓を持っているのですね」
「一応ね」
ランベルトが、いつもの短剣やポーチとは別に背中に背負っている矢筒と短弓。矢筒には二色の羽根の矢が束ねられている。
デルフィナの視線を感じながら、ランベルトは首だけ動かして振り向いた。
「驚かないんだな」
「ランなら、武具は一通り扱えるのかなと」
さらりと返され、ランベルトは照れ隠しに前に向き直って饒舌になる。
「長剣とか槍とか、戦士が使う武器はあんまり得意じゃないよ。鍛えてないし、訓練も嫌いだったから」
「想像出来ます」
デルフィナはくすりと笑った後、真剣な顔になる。
「……ジェラール殿下は、剣においては騎士に匹敵する使い手です。気を付けて下さいね」
「分かった。正面から相手しないようにする」
まだ日は高い筈なのに、山道を登ると次第に木々の深緑に日が遮られていく。
しばらく歩くと、ランベルトは茂みに目を留めた。
無造作に茂みをかき分ける。
「お、紫鬼灯だ。食べる?」
「いいんですか?」
デルフィナは自分の緊張感の無さに少し躊躇ったが、ランベルトが勧めるままに実をもいで麻袋に入れた。
しゃがんだまま、皮を剥いて一粒食べる。
「甘い?」
「はい」
嬉しそうにこちらを見上げる姿に、ランベルトは思わず笑みを溢す。
「良かったな」
そして揶揄するように首を傾げる。
「夜にお腹が空いたら、一応パンと携帯食を…」
言いかけて、はっとしたランベルトの目が外を向く。
手が短剣の柄にかかる。
「フィーナ、ラウルスを」
ランベルトは目を鋭くして遠くを見定めていた。
「巨牙猪だ」
デルフィナも目を凝らす。
茂みの中で、土を掘り返している猪の影が見えた。
「魔獣ですか?」
「そう。こっちに気付いたら突進してくるぞ。俺が痺れさせるから、ラウルスで捕まえて」
ランベルトは矢筒から茶羽根の矢を抜き、弓に番えた。矢尻には、魔草を乾燥させた黒い塊が塗られている。
弦を引き、放つ。
茂みの向こうの猪が、体を揺らしてもがくのが見えた。
「当たった」
デルフィナに合図すると、彼女は本を掲げる。
「我が願いよ、地を裂け」
猪がよろめいた足元にシダが絡みつく。倒れた所に、伸びたシダが首にも巻きついた。
ランベルトが弓を肩に掛け直すと、短剣を鞘から抜いて確認しに行く。
「もう大丈夫。来てもいいよ」
デルフィナは手を挙げた彼の元へ近寄る。
横たわった巨牙猪は、近くで見ると更に大きかった。
口からはみ出た凶悪な牙が、こちらを認識して向かってきたらと思うと背筋に冷たいものが走る。
ランベルトはにやりと笑った。
「食べてみたい?」
「食べられるんですか?」
拒絶よりも素直な驚きを示すデルフィナに、ランベルトの瞳が楽しげに揺れる。
「こんな機会もあまり無いから、腹ごなししてから行こう」
ランベルトは地図を思い浮かべながら周りを見回した。
「この近くの川べりなら先遣隊がいるから、まぁ大丈夫だろ」
「本当に大丈夫ですか…?」
「まだどちらも無闇に攻撃したりはしないよ。暗黙の了解ってやつ」
ランベルトは軽く笑う。そして少しだけ剣呑な雰囲気を覗かせた。
「俺達がここにいることが分かったって、夜にはいないしな。ちょっと待ってて」
デルフィナは、猪を草叢に引っ張り込もうとしたランベルトを止める。
「手伝いますよ、ラン」
「そう?じゃあ、切った所の血を洗い流して」
彼が腰に下げていた水筒を渡されたデルフィナは、猪の背中の肉を切り取るのに合わせて洗い流す。
「怖くない?」
「命を頂くのに、そんなこと言ってられませんよ」
ランベルトは彼女の方をちらりと見て笑みを浮かべた。
短剣を仕舞うと、手近に生えている大きな葉で切った肉を包む。
「食べ切れないから、残りは森の動物に食べて貰おう」
川べりまで移動したランベルトは鼻歌混じりに枝を集め、魔導具で火を起こした。
木の枝をナイフで削ると、包んでいた葉の上でぶつ切りにして香草と塩をまぶした肉を刺す。
「本当は煮込んだ方が美味いんだけど、今日はあいにく鍋が無いからな」
少しすると、パチパチと枝が燃える音と共に香ばしい香りが漂ってきた。
「焼けたかな。どうぞ」
「……あの、ラン」
「ん?」
串を手渡しながら、ランベルトは軽く顔を近付ける。
「どうした?フィーナ」
柔らかい声色に、呼吸が僅かに詰まる。
デルフィナは一瞬手元に視線を落として、気を取り直すと、まっすぐにランベルトを見つめた。
「危険があったら、すぐ私の側に来て下さいね」
ランベルトはきょとんとした後、表情を緩める。
「分かった。フィーナも困ったことがあったら呼んで」
二人は笑い合い、ほぼ同時に猪の串焼きを口に運んだ。
新鮮な肉汁が口内に溢れる。
ランベルトは顎で強く噛みながら首を傾げた。
「やっぱり筋が多いな」
「魔獣は筋が硬いんですね」
「がっかりした?」
彼がデルフィナの方を見ると、真剣な顔で串を見つめながら少しずつ噛んで食べている。
ランベルトと目が合うと、口元に手を当てて微笑んだ。
「いえ。歯応えがあって美味しいです」
「この野性味が分かるなんて、旅向いてるよ」
お世辞ではなく、そう言う。
デルフィナは嬉しそうに目元を和ませた。
「また、ランと旅が出来たら嬉しいです」
「いいね。これが片付いたら、そろそろ城から出たいなぁ……会議ばっかりでうんざりするよ」
遠い目をするランベルトに問いを投げかけたのは、デルフィナの腰に吊り下げられたラウルスだった。
「お主らは、勝ち戦なのにどうしてそんなに必死に止めようとする」
少しの沈黙の後、デルフィナは静かに呟いた。
「……あなたでは治せないから」
「本には分からないよ」
肉を食べながら当然のように言うランベルト。
「平伏して詫びよ、小僧」
「デルフィナがいなきゃただの古本の爺さんじゃねぇか」
「何を言うか。我らがいなければ作戦一つまともに練れぬ小僧が」
デルフィナは聞き流して串焼きを食べる。
香草と猪の香りを味わってふぅと温かい息を吐くと、ランベルトとラウルスを交互に見やった。
「二人とも、そろそろ静かにした方が……」
「そうだ。口を閉じよ、小僧」
ランベルトは咳払いして、声を落とす。
「ごめん、フィーナ」
「我にこそ詫びるべきだろう」
置いたラウルスをランベルトは睨みつける。
掴んで放ろうとするのを我慢している目つきだった。
「……ふふっ」
小さく漏れた笑い。
ランベルトが思いがけずそちらを見ると、肩を縮めたデルフィナが眉を寄せて笑いを堪えていた。
その仕草と表情が、いつもより少し幼く見える。
「二人を見ていると、気が緩んでしまって…困りますね」
「へぇ、フィーナって本気で笑うとそんな顔するんだ」
ランベルトが意味深な目付きで彼女を眺める。
「え?いえ、あの……」
「俺達が喧嘩してるのが、そんなに面白かったの?」
「そんなことは……」
狼狽えるデルフィナがふとランベルトの表情に気付く。
揶揄っていることに気付いて、困ったようにランベルトを見た。
「ラン」
「ごめんって」
ランベルトは目を細めて楽しそうに笑う。
「フィーナが困ってるの、可愛くてつい」
「……!」
デルフィナの顔が赤くなる。視線を彷徨わせた彼女は、無言で串にかぶりついた。
「不埒者よ」
ラウルスが呆れたように呟いた。
鬱蒼とした木々の隙間から、煙が空へと昇っていく。
空の向こうからは夕闇が迫っていた。
夜になれば、二人は皇国の拠点へ向かう。
そしてデルフィナから聖女という立場を奪おうとし、国から追いやった二人と再び相対する。
それでも。
デルフィナは本と杖を携えた。
かつて竦んだ足は、もう止まってはいなかった。




