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奥の部屋

 つがいは、棚の前を音もなく歩いた。

「ここのものは、無理に開ける必要はありません」案内の声は、雨だれのように途切れずに続く。「ただ、近づくと、こうして札が光ることがあります。それは、あなたの中で、まだ何かが反応している証です」

 透が見上げると、頭上の棚のひとつが、ほのかに白く光っていた。背伸びをして、その引き出しに手を伸ばす。掌に冷たい木の感触。引くと、思いのほか軽く滑り出た。

 中には、何も入っていなかった。

 ただ、開けた瞬間、桜の葉の青い匂いがした。雨上がりの、まだ濡れた葉の匂いだ。匂いに連れられるように、透のまぶたの裏に、ひとつの景色が広がった。

 高校の昇降口。雨。傘を忘れた透が、軒先で空を見上げている。隣に、ひとりの女の子が立っていた。七瀬(ななせ)だ。同じクラスの、誰とも特別に話さない、けれど笑うと左の頬にだけえくぼができる子。七瀬は黙って、自分の傘を半分だけ透のほうに傾けた。

「半分こ、しよう」

 その声を、透は確かに思い出した。三十四歳の今になって、十六の自分が聞いたその声を。並んで歩いた帰り道。肩が触れそうで触れない距離。雨の音と、二人ぶんの足音。何も言えないまま分かれ道に来て、じゃあ、と手を振った。それだけのことが、なぜあんなに胸を満たしたのか。

 告白はしなかった。卒業して、それきりになった。

 いつのまにか、忘れていた。忘れていたことすら、忘れていた。

 透は引き出しの縁を握ったまま、しばらく動けなかった。胸の奥が、錆びた蝶番(ちょうつがい)をこじ開けるように、鈍く軋んだ。痛い、というのとは違う。長く使っていなかった場所が、ふいに血を通わせたような——そういう疼きだった。

「思い出されましたか」つがいが背後で言った。

「……ええ」透の声はかすれた。「全部、ここにあったんですか。こんな、どうでもいいような——いや、どうでもよくなんか、なかったのに」

「失くしたものに、大きいも小さいもありません」つがいは静かに首を振った。「ただ、人は失くしたことに気づかないまま、生きていけてしまう。それだけのことです」

 透は引き出しをそっと戻した。光は、ゆっくりと薄れていった。

 歩を進めると、別の棚が光った。今度は腰の高さの、少し大きな引き出しだった。札にはこう書かれていた——「二十二歳の、まだ何も諦めていなかった頃」。

 ためらいながら引くと、中から声が聞こえた。若い、けれど聞き覚えのある声。透が顔を近づけると、引き出しの奥に、もうひとりの自分がいた。二十二歳の透だ。安アパートの床に地図を広げ、夜行バスの時刻表を指でなぞり、目を輝かせている。世界中のどこへでも行ける気がしていた頃の顔。書きかけの小説のノートが、枕元に積まれていた。

「お前、まだそれ、続けてるのか」と若い自分が笑った。からかうのではなく、本気で訊いていた。

 透は答えられなかった。あのノートを、いつしまい込んだのか。安定した給料と引き換えに、何を引き出しの奥にしまったのか。続けてるのか、と問われて、続けていない、とは口に出せなかった。

 引き出しの中の二十二歳は、透の沈黙を見て、少しだけ寂しそうに笑った。それから地図に向き直り、また何かを夢中で探し始めた。透が知っている、あの熱量のままに。

 透はそっと引き出しを閉じた。胸の軋みが、こんどははっきりと痛みになっていた。

「取り戻すことも、できます」つがいの声が、すぐ後ろでした。「ここにあるものは、あなたのものですから。けれど」

 つがいは、両手を前で重ねたまま、透を見た。曖昧な顔の、その奥のまなざしだけが、なぜかまっすぐだった。

「取り戻すかどうかは、あなたが決めることです」


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