終点
部屋の奥に、母の紺色の傘が立てかけてあった。
ほかの無数の傘とは別の、小さな窪みのような場所に、それだけがぽつんと置かれていた。柄の溝も、骨の数も、記憶のとおりだった。透は手を伸ばし、握った。指がいつもの溝に収まる。それだけで、目の奥が熱くなった。
これは、持って帰ろう。迷いはなかった。形のあるものは、形のあるうちに。
「ほかのものは、いかがなさいますか」つがいが訊いた。
透は、二つの光る引き出しを振り返った。七瀬の声が眠る引き出し。二十二歳の自分がいる引き出し。
しばらく、透は黙っていた。
初恋の記憶を、もう一度この胸に戻すことはできる。けれど、と透は思った。あの雨の昇降口の、半分こにした傘の重みは、忘れていたからこそ、こうしてふいに蘇って胸を満たすのではないか。いつも手元にあるものを、人は見なくなる。傘を無くし続けてきた自分が、それをいちばんよく知っている。
透は引き出しに手をかけ、けれど、開けなかった。指先で、札の文字をなぞった。半分こ、しよう。その声は、ここに置いていく。いつかまた、雨の匂いがふいに連れてきてくれるように。
「これは、あずけたままにします」と透は言った。
つがいは、何も言わずにうなずいた。咎めも、肯定もしない、ただ受け取るだけのうなずきだった。
二十二歳の引き出しの前で、透はもう少し長く立っていた。中の若い自分は、まだ地図に屈み込んでいる。透はその背中を見ていた。あの熱を、丸ごと取り戻すことは、たぶんもうできない。三十四歳の体に、二十二歳の無謀さを戻したところで、行き場をなくすだけだろう。
けれど、と透は思った。
全部でなくていい。
透は引き出しを少しだけ開けて、中に手を入れた。若い自分が広げた地図の、その端をほんの少しだけ破り取るように、ひとかけらの熱だけを、手のひらに掬った。それは温かくも熱くもなく、ただ、かすかに脈打っていた。透はそれを、胸のいちばん奥にしまった。残りはそのまま、引き出しに返した。二十二歳は顔を上げず、地図に夢中のままだった。それでいい、と透は思った。あの頃の自分は、あの頃の自分のままで、ここにいればいい。
引き出しを閉じると、部屋の光が、少しずつ穏やかになっていった。
「お見送りします」つがいが言った。
来たときの白い廊下を、二人で歩いた。歩くほどに、雨の音が近づいてくる。古い紙と埃の匂いが薄れ、湿った夜気が頬に戻ってきた。突き当たりの扉の前で、つがいは立ち止まった。
「また、何かを失くされたら」つがいは、はじめてかすかに微笑んだように見えた。「いつでも」
扉を抜けると、もとの改札脇だった。振り返ると、そこにはもう、奥へ続く扉などなかった。地味な忘れ物センターの窓口が、いつものように閉まりかけていた。
外に出ると、雨は上がっていた。
濡れたアスファルトに、駅の灯りが滲んでいる。透は母の傘を手に、ホームへの階段を上った。終電が近かった。各駅停車に乗り込み、空いた席に座る。窓に、自分の顔が映っていた。何かが、ほんの少しだけ違って見えた。どこがと言われると分からない。けれど、確かに違っていた。
電車が走り出す。透は膝の上の傘を、両手で握っていた。今日は、これを無くさないだろう。そんな気がした。
終点のアナウンスが流れた。透の降りる駅は、その一つ手前だ。立ち上がりながら、ふと、胸の奥のあのかけらが、かすかに脈打つのを感じた。
ドアが開く。濡れた夜の匂いが流れ込む。
透は傘を握り直し、まだ少し湿ったホームへ、ひとつ、足を踏み出した。




