喪失の習慣
雨の匂いがすると、真壁透は今日も傘を無くすだろうと予感する。
その予感はたいてい当たった。朝、ビニール傘を握ってアパートを出る。電車に乗り、傘立てに差すなり放置する。あるいは喫茶店の入口、あるいは会社のロビー、あるいは取引先の傘立て。気がつくと手は空になっている。夕方、外に出て初めて、もう一度濡れて帰る自分に気づくのだ。
今年で何本目だろう、と考えて、考えるのをやめた。数えても仕方がない。傘は消耗品で、無くすことは透の暮らしに編み込まれた習慣のようなものだった。雨が降る。傘をさす。傘を忘れる。濡れて帰る。それだけのことに、特別な感傷はなかった。
ただ、その日の傘だけは少し違った。
亡くなった母が遺した、紺色の長傘だった。骨の数が多く、開くと音もなくきれいな円を描いた。柄の部分には細い溝が彫られていて、握ると指がそこに自然と収まる。母が雨の日に駅まで迎えに来てくれたときの、あの大きな影を思い出させる傘だった。透はそれを、ふだんは下駄箱の奥にしまっていた。気まぐれにその朝だけ持ち出して——そして、いつものように無くした。
どこで手放したのか、まるで記憶がなかった。
会社からの帰り、透は途中下車した。普段は素通りする乗換駅の、忘れ物センター。改札脇の地味な窓口で、紺色の長傘を、と告げると、係の人が分厚いファイルをめくった。該当なし。透はうなずいて、それでもなぜか立ち去れなかった。
「あの」と声が出た。「もう少し、奥を探してもらえませんか」
窓口の人は怪訝そうに顔を上げた。奥、と透は言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。奥のどこ。だが言葉は勝手に続いた。母の傘なんです。最後に残った、形のあるものなんです。
窓口の人は黙って透を見た。それから、ふと表情をやわらげた。
「奥の部屋に、行かれますか」
奥の部屋、という響きが、雨の音に混じって妙にやわらかく聞こえた。透は意味も分からないままうなずいた。
窓口の脇の、見落としていた扉が開いた。蛍光灯の白い廊下が、思いのほか長く続いていた。歩くほどに、外の雨音が遠ざかっていく。やがて空気の質が変わった。湿った金属の匂いに、古い紙と、誰かの家の押し入れのような、なつかしい埃の匂いが混じる。
廊下の突き当たりに、もう一つ扉があった。
扉を開けると、そこは図書館のように天井の高い部屋だった。壁一面に木の棚が並び、棚にはひとつひとつ、小さな引き出しがついている。何千、何万とあるその引き出しの一つひとつに、手書きの札が下がっていた。傘、と書かれたものもある。だが、それだけではなかった。「最初に泣いた夜」「言わなかった、ありがとう」「夏の終わりの匂い」——意味の分からない言葉が、整然と並んでいた。
部屋の中央に、人影がひとつ立っていた。
年齢も、男とも女ともつかない。淡い灰色の上着をきっちりと着て、両手を前で重ねている。顔立ちはどこか曖昧で、見るたびに少しずつ印象が違う気がした。その人は透を待っていたように、静かに会釈をした。
「ようこそ。わたしは、つがい、と申します」
つがい、と透は繰り返した。番、ですか。
「番でも、対でも。ここで失くされたものを、お預かりしています」
透は棚を見回した。傘を、探しに来たんです。母の。
「傘も、ここにございます」つがいは穏やかに言った。「ですが——失くされたのは、傘だけですか」
窓の外で、雨が降り続けていた。いや、ここに窓などなかったはずだ。それなのに、どこからか、たしかに雨の音がした。透は自分の両手を見た。空っぽの、何も握っていない手のひらを。
「あなたが、これまで失くしてこられたもの。形のあるものも、ないものも」つがいは棚に向かって、ゆっくりと手を広げた。「すべて、ここにございます」




