第4章 視線
映画は青春アニメだった。
主人公がヒロインに告白する場面に移る。
この場面を見ながら、学生時代の事を思い出して胸の奥が鈍くチクリとした。
りさの方を横目で見る。
彼女は無表情で一点を見つめている。
画面ではなく、「虚空」を見ているような目だった。
その目は、あのころのままだった。
俺は学生時代、りさが好きだった。
高校3年のある日。
俺は学校から戻ると、宿題のプリントを忘れていることに気がついた。
「うっわだるー! 何やってんだ俺」
そう自分の忘れっぽさに苛立ちながら、走って学校まで戻った。
もう日は沈みかかっていた。
校庭で部活動をしている喧騒、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
息を切らして教室に入ると、電気のついていない薄暗い空間の中で、りさだけが席に座っていて、視線をひとつも動かさず、何かを見つめている。
俺は驚いて息を呑んで、その場でりさを凝視しながら固まってしまった。
間を置いて、りさも俺の視線に気がついたのかこちらに目を向ける。
気まずかったし、こんな薄暗い教室で何をしていたのか。
ちょっと怖かった。
黙りこくったまま、お互い見つめ合う沈黙に耐えられず、喉の奥から
「おっ、おおう。びっくりした! なにしてん!?」
と素っ頓狂な声が出てきた。
目を白黒させた、大きな図体の俺が、暗い教室に飛び込んできて、裏返った声で間抜けな質問をしていた。
きっと、りさの目には滑稽な生き物に見えたに違いない。
りさは笑いもせず、ただ静かに
「ちょっと考え事をしてただけ」
と言う。
あまりの淡々とした答えが、その凛とした声が、
この“薄闇の中のりさ”が、なんだかこの世のものではないようで妙に惹き付けられた。
それから俺は、りさの姿を目で追うようになった。
サラサラとした黒髪。
整った顔。
一点の曇りもない深い瞳。
俺にはその姿が、完璧なお人形のように見えた。
クラスの真ん中でキャンキャンとチワワのように騒ぐ、バカで下品な女どもとは、醸し出るオーラが違う。
どこか人を寄せつけないオーラを纏っていた。
しかも聡明だ。
けれど彼女は、いつも誰とも話さない。
話さないのに人を惹きつける。
男子の間でも、その美しさと氷のような静けさから「氷の女王様」なんて陰であだ名をつけられていた。
けど、俺が話しかけると少しはにかんだように笑う。
その笑顔が、俺は大好きだった。
俺にしか見せない笑顔。
俺はその事実が、すごく誇らしかった。
俺だけが見ることができる「氷の女王様」の笑顔。
帰ってくる答えも、俺が予想する斜め上の答えで、それがおもしろく、度々彼女に話しかけていた。
そんな日常の中で、俺が彼女に惚れた日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
高校3年の冬。
ほとんどのクラスメイトが赤本を手に机に向かっている。
みんな必死だ。
俺だって余裕なんてない。
うちには弟もいるが、あいつは精神的に不安定で、今学校にも行かず1日部屋に閉じこもってる。
両親の期待は全て俺に向いている。
誰も名前を知らない大学になんか入れない。
金銭的余裕もないから、浪人なんて出来ない。
1発合格しなければ……。
頭が痛い。
さっきから何時間も机に向かいっぱなしだったからな。
伸びをして首をゴキゴキと鳴らしてから、気分転換でもするか、と思い、小さくため息をついて廊下に出た。
ふらふらと、どこへ行くでもなく校内を散歩していた。
職員室の前を通り過ぎようとした時、担任の声が聞こえてきた。
「本当に進学しなくていいのか? 君の実力なら名門も夢じゃない。それに奨学金という手もある。家庭の事情もわかるが……」
彼女の方に目を向けると、ただ下を向いて固まっていた。
彼女が急に小さく見えた。
細い華奢な体で立っているのもやっとなのに、小さい体でひとりで全部を背負い込んでいるんだ。
俺が何とかしてあげたい。
おこがましいけど、そんな思いとともに、それとは別の熱いなにかが込み上がってきた。
俺が恋に落ちた瞬間だった。
卒業式に告白しようと決めていたんだ。
だけどその日、俺はどこの誰かもわからない女の子たちにもみくちゃにされ、
制服のボタンというボタン(ワイシャツのものまで!)をむしり取られてしまった。
ひどい……。
なんでこんな仕打ちを受けなくちゃいけないんだ。
半裸になりながらも、学校中を走り回って彼女を探した。
4階もある校舎全部。
体育館裏、女子トイレまで。
最後の方は、無意識に彼女の名前を叫んでいた。
今日を逃したら、もう一生会えない。
彼女の家も知らない。きっとクラスの誰も連絡先を知らないだろう。
今日を逃したら、もう一生彼女には会えないかもしれない。
死に物狂いで探し回った。
でももう、彼女の姿はどこにも見つからなかった。
全力で走り回ったせいで、もう限界だった。
教室の真ん中に大の字で倒れ込む。
心臓が脈打つ。全身の血液が沸騰するようだった。
腕で顔を覆い、悔しくて悲しくて、声を殺して泣いた。
「氷の女王」は、春の雪解けと共に、消えていなくなってしまった。
それから俺は進学し、就職した。
その間にも何人か女性とお付き合いしたが、りさの存在を忘れることはなかった。
あの日スーパーで見かけた後ろ姿。
一瞬、胸が締め付けられた。
学生の頃、俺が好きだった、あの黒くて長い髪はバッサリと切られていた。
ぱっと見ただけなら、幼い男の子のようにも見えた。
なのに、俺はすぐに気づいた。
――りさだ。
心臓がバクバクしていた。
まさかまた会えるなんて思わなかった。
神様がくれた最後のチャンスだと思った。
思わず彼女の手を取った。
もう二度とりさを見失わない。
そう誓った。




