第3章 痣
次の日の朝。
いつもと同じように身支度を整えるだけのはずなのに、胸の奥がやけに軽かった。
今日は、たっくんと映画を観に行く。
ほとんど眠れなかったのに、体は妙に動く。
眉毛を整え、髪にくしを通し、小さなクローゼットの中から「一番マシ」に見える服を慎重に選んだ。
昨日、スーパーから強引に連れ出されたからいつものお弁当はない。
今日は社食で済ませよう。
外に出ると、秋の朝のひんやりした空気が頬を撫でた。
その冷たささえ、今日は心地よかった。
歩道の隅を歩く猫。
ランドセルを揺らして走る子どもたちの声。
たった五分の通勤路が、やけにまぶしく見えた。
白い作業着に着替え、今日もレーンに立つ。
同じ場所、同じ騒音、同じパッケージのクッキー。
そのなかに、ときどき形の崩れたものが混ざる。
ここではそれを「きゅーすけ」と呼ぶ。
完璧じゃないから弾かれる。
きゅーすけを箱に落としながら思った。
――私は、きゅーすけだ。
完璧な人間の列から外れて、
遠くへ運ばれていくことのない“出来損ない”。
マスクの中で、ひとり苦笑する。
昼休み、帽子を脱いで社食の列に並ぶ。
今日の昼ごはんは二百円のうどんにした。
社食はいつもガヤガヤしている。
パートさんたちはいくつかのグループで固まり、まるでおしゃべりなインコのように賑やかだ。
私はひとりで隅のテーブルに座る。
うどんを胃に流し込んでいると、一人のパートさんが近づいてきた。
「あらあ! 誰かと思ったわよ!
今日はお化粧なんかしてぇ! この後予定でもあるの!? デート!?」
驚いた。
パートさんの観察眼は鋭い。
さすが長年きゅーすけを見極めてきただけある。
彼女は私の返事を待つこともなく、どこかへ行ってしまった。
遠くの方で「若いっていいわねぇ」という声がうっすら聞こえる。
……あなたたちだって若い頃があったでしょ。
順番なんだよ。
心の中で、すこし毒づいた。
仕事を終え、待ち合わせ場所に向かう。
映画館は近くのショッピングモールの中に入っている映画館だ。
映画を誰かと見に行くのなんて、何年ぶりだろう。
外の夜の冷たい秋風と緊張で、少し震える。
ちょっと早く着きすぎたかな、と思いながら待ち合わせ場所へ向かうと、すでに彼の後ろ姿が見えた。
背中が広い、大きな後ろ姿。
彼はこちらに気づくと、いつもの屈託のない笑顔でブンブンと大きな腕を振っている。
ゴールデンレトリバーが喜んでしっぽを振っているみたいだ。
その彼の無邪気さに、さっきまでの震えも収まり、モール内の温かさと彼の笑顔で緊張がほぐれていくのを感じた。
映画館のチケット売り場へ向かい、列に並ぶ。
私は空いている方の列に並んだ。
慌てたような彼の声が飛んでくる。
「え!? 別々の席で見るの!?」
一瞬、私は意味がわからなかった。
そうだ。一緒に座席を選ばないと、隣には座れないんだった。
恥ずかしさで顔が熱い。
耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。
それを見て、彼は楽しそうに笑っている。
無事に隣並びの座席を確保して、ポップコーンを買う。
ポップコーンは塩がいちばんだとか、キャラメルは途中で飽きるんだよとか、
他愛もない会話も楽しかった。
バタバタしつつも、無事にそれぞれポップコーンとコーラを抱え、指定の席に腰を下ろした。
「この原作、再現度高いといいよな」
「だよね。あのシーンどうなるんだろ」
そんな他愛もない会話をしているうちに照明が落ち、館内がゆっくり暗くなる。
たっくんと並んで画面を見つめた。
映画は序盤から原作通りに見る人を引き込んでくる。
ふと、普通の“家族団欒”のシーンが映った。
――その瞬間、後頭部に衝撃が走る。
まただ。
視界がゆっくり暗くなり、座っているはずの自分の体から、意識だけが深い場所へ無理やり引きずり込まれていく。
フラッシュバック。
頭の中から母の声が聞こえる。
「あの人とは離婚したから」
ベタベタと体に絡みつく夏の湿気。
味のしない夕食。
それを口に運んでいたときの母の言葉。
――私は、何の感情も抱かなかった。
父には、それほど“無関心”だった。
多分、お互い。
父はほとんど家にいなかったし、私も彼に興味がなかった。
夜中に父親の怒鳴り声で目を覚ますことが時々あった。
お母さんが泣いている声が聞こえる。
かばいに行きたかった。
でも怖くて体が動かなかった。
布団を被って耳をふさいで独りで泣いた。
父親の記憶はこれだけ
その代わりに、母は“完璧”を求めた。
水疱瘡で熱を出した日。
息が苦しく、足首には大きな水膨れ。
それでも母は私をちゃぶ台の前に座らせた。
「正座しなさい。漢字ドリルが終わったら休んでいいわよ。
崩さないで。ちゃんと正座して」
朦朧とした意識でちゃぶ台に向かっていると、くるぶしの水膨れが潰れて膿がにじむ。
擦れてジクジク痛んだ。
心細さで泣きそうになったけれど、それでも泣くことも足を崩すことも許されなかった。
100点以外は認められなかった。
98点を取ると、
「なんでこんなミスするの! もったいない!」
と、食器が震えるほど怒鳴られた。
“1番じゃなければ価値がない”
それが母の口癖だった。
私はその期待に応えられなかった。
「人としてのレベル」なんて、最初から決まっている――。
幼い頃、そう思い知らされた。
努力しても、元から優秀な子には勝てない。
そして母は、ある日とうとう言った。
「もう、あなたには期待しない。好きにしなさい」
そのときの、すべてを諦めたような目。
――見放された。
完璧じゃなかった。
できない子だった。
だから私は愛されなかった。
その日から、私は“愛されるための努力”をやめた。
私は完璧じゃない。
だから、愛を受け取る資格がない。
その痛みは、皮膚の下でじわじわ広がるアザのように、
ずっと私を蝕んできた。
消えない心の痣。
――なんて、私の心は醜いんだろう。




