第十七話『面対象』
嗚呼、――苦しい。息をしているのに、息切れの強度が増していく。酸素が凄まじいスピードで減っていくのを眩暈の中で自覚しながら、鏡子は貴人に身体を預けている。辛うじて敵の手のひらには捕まっていない。捕まってはいないが……。
花か? まあ、花だ。あからさまに食べるなんてあり得ない行為なのだし。はは、と乾いた笑いが出た。
「この着地の後、貴人は次晴の所へ。援護して差し上げて」
「何をご冗談を。そのような体たらくで、何ができます?」
「……はは、なめないでくれる? このくらい、鏡子にはかすり傷でしてよ」
そうだ、いや、かすり傷さえも傷まないのだから、傷ではない。
「しかし……」
「貴人、次晴を守ってあげて」
その言葉に、ようやく貴人は頷いた。渋々、小さく、ではあるけれど。そうして――貴人の足が着く、その間隙にねじ込んでくる触手はまるで大掃除をする誰かの手のようだ。隙間の埃を絡め取らんと、大きすぎる図体が故に迫力を増した一撃で鏡子たちを……埃を取ろうとしている。
貴人の手から転がり出た鏡子は、滑りながら水面を駆ける。銃弾の如き速さで掴みかかる手を避けて、避けて、確実にあのタコとの距離を詰めていく。呼吸はいらない。
次晴はあまりの無謀さに声を失った。貴人が顔を横に振れば、深いため息を付く。そのまま次晴は腕を大きく広げ勢いよく手を合わせると、すぐに引き寄せてタコを見た。
爆発。標的を定めた炎と空間を弾けさせた二柱の合わせ技だ。
悲しきこと、爆風に視界を結果的に奪われた鏡子の目の前に多い来る平たい面が彼女を否応なく弾き飛ばす。膨大な血は神なる物の怪から流されるものと、神に近い人から流されるもので混じり合い水面の色に溶けていく。滑る水面の最中、鏡子は自らの足で勢いを殺してその場に立ち上がった。額が切れている、その程度の流血。
「鏡子殿……」
しまった、と思った次晴だが鏡子を一瞥したのみで怪異へ走り出す。自らの体の負債を二柱に肩代わりさせて、人の速度を凌駕した風の運びで距離を詰めていく。
鏡子も血を拭って後に続いた。――もう、その頭の中に言葉は無い。
ただ目の前の怪異を討つ――それのみが思考を支配している。
来る、一撃の槍が。時には、避けないことが勝利の一手へと成るらしい。ね、師匠?
鏡子の肩を貫いた一本の手は、逆に鏡子のその触手を捕らえられたと言うべきだ。
血に濡れた肩も頬を一瞥して笑う鏡子は、今を待っていたというかのように目を見開いている。そのまま告げるだろう。その奥に忍ばせた炎の鳥に。
「……駆け上がりなさい、朱雀ッ!!」
炎の疾走は触手を伝い巨大な古き神へと至る。赤い御身を赤い炎にくべて、この水上の花園を焼き尽くそう。鏡子の笑みが深くなる。そのまま触手を引き抜いて、血が滴るまま駆け出そうと身を僅かに屈ませたその刹那に――クジラの歌を聞く。
「 ねえ、忘れてしまったのでしょう? いいえ――忘れたフリをしているのね 」
人魚だ。人魚が鏡子の耳元に口を寄せて、空中を泳いでいる。傍のプロフェッサーも咄嗟に間に合わなかった。鏡子の腕を人魚が取り、アッコロカムイが嘆く炎の中に鏡子を投げ入れようと体を抱き始める。まるで、愛おし気に抱く母の表情で。
「 自分で隠れたくせに探してもらえないことに憤るなんて、まだまだ子どもで可愛いわ可愛いわ可愛い憎たらしい子 」
「……さっきから一体何を……」
鏡子の疑問の瞳に、人魚は初めてその目に感情を宿らせた。
冷たい指先で鏡子の腹にある己の血肉を探している。ぐるりとくぐらせた冷気が、鏡子の肌から中に染みこんでくる。嫌悪感、それを鏡子が露わにする最中に人魚は探り当てたようだ。
「 思い出したのなら帰っておいで。海の底まで…… 」
そのまま突き上げたのは、眼下にいたクジラだ。空を飛んでいたのに、いつのまにか鏡子の真下の水面にその目を光らせた。
鏡子は空に打ち上げられ、そのまま巨大なタコの真上に落ちていく――ただ不機嫌な顔をしたまま。
「……さっきから、意味が、わからないって言ってるでしょ!!」
『 晴明よ 』
タコの……声? これが――? こんな、落ち着いた、女性のような……声が?
落ちていく中、鏡子を受け止めようと差し出される二つの赤い手がある。鯨の目と、タコの目、そのどちらとも、鏡子を見て、言う。
『 晴明よ、お前は、不老不死を求めぬと言ったが…… 』
嗚呼、やっぱり、違いますわね。
タコも、クジラも――二つとも、一人だったんだわ。
『 その在り方は、まるで……罪人のようだ 』
「何が……何が言いたい!?」
『 晴明。誰がお前に、境界を守れと言いつけたのだ。誰がお前を縛るのだ。誰がお前を――そのような地獄に? 』
鏡子が降り立った赤い掌で、血が零れていく。制服が血を吸って重い。色も、なんて色をしているのだろう。
「申し訳ありませんが――オマエ、誰です?」
地面が固くなった。
「生温い甘言なんて、毎日死ぬほど浴びておりますッ!! 今更缶ジュース如きで鏡子が騙されるものか!!」
「とか言いながら――ワタシを使うオンミョウジサンでありました」
「タコが食べたいと言ったのはプロフェッサーではありませんか!!」
タイミングは完璧だ。ふわりと浮いた瞬間に、プロフェッサーの霧がタコの触手を刻み、その切り口から胴体へ爪を走らせた。
嘆くのはクジラだ。空も水も、赤く赤く染まっていく。甲高い音を響かせながら、お互いが血に塗れた姿で騙し合っている。
「よくやりましたわ――朱雀! 本当の不老不死を見せてあげなさい!!」
落ちながら――なぜかプロフェッサーも帽子を押さえながら一緒に――鏡は叫んだ。深く抉れた怪異の腹部に燃え上がる炎を見て。
「さあ、貴人!! 祝砲を!」
怒濤の上半期スケジュールが終わったので、文字書きとしての意識を取り戻しました。
アッコロカムイ戦が終わるまでは薄明を更新します!




