二年
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心地良い風が柔らかく顔の辺りを抜ける。高い日の光が地に万遍無く降る。芝や木々の緑の青臭さがくすぐったい。焦れったい程の春の季節の温度が風景の全部を寛大に抱擁する。
秀は只走っていた。背を伸ばし、確実な歩幅で吐息の刻みだけを一定に黙々とひたすらに走っていた。うっすらと浮かぶ額の汗を拭うでも無く遠くの一点だけを見詰めていた。
少年院に送られてからもう二年は経っていた。毎日が只規則正しく過ぎていた。朝六時半のサイレンは少々けたたましくもあったが、その他は意外な程に緩やかだった。
飽きさせないイベントと、外に出る事以外はある程度に許された自由、喰うだの寝るだの気にしなければそれなりに快適ではあるし、健全なだけのイベントも楽しいとすら錯覚しそうだ。何より自分に向けられる筈の世間の雑音や中傷も此処に居れば決して届く事は無い。
院生同士のトラブルも少々のいざこざこそあれ、大事すら起こさなければ早く此処から出られるって事を心で理解していたからこそ、さして起こる事は無かった。何より皆、罪の大小はあれど同じ様な問題を抱えているのを知っている故の妙な共通の仲間意識さえ芽生えていた。尤も中には一匹狼を気取る者も居たが、それでも自ら問題を起こす馬鹿は流石に居ない。
生温い心地の良さ。それはまるでこの柔らかな春の日差しの様に。つまりは此処は罪人の収容施設では無く、更正施設と云う事。
秀は昼の休憩時間にグラウンドを一人よく走っていた。別に走るのが好きな訳では無かった。他に特にやる事もやりたい事も無かったし、何より誰とも喋らなくて済むのが良かった。だから秀は夏でも冬でも構わずに毎日毎日走った。まるで生温さの日常の中でともすれば忘れてしまいそうな心の傷のかさぶたが閉じてしまわない様に……。
秀は少々は逞しくなっていたが自分の心に気付けないでいた。只、確かな事は走った後は必ず腹の底がチリチリと痛みが残ったと云う事。それを振り払う様に秀は今日も走る。柔らかな優しいだけの風が秀の頬を撫でる。
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「ねえ、海月君、だったね。俺、君の事知ってるぜ。君凄えんだってねえ、テレビで見たぜ君の事。少年Aってさあ」
秀のその男の最初の印象は“ヤナヤツ”だった。
「新顔だね君、今迄見た事無かったよ」
「俺、久保田ってんだ。よろしくな、少年A」
久保田は軽薄な面で嫌味っぽく笑う。秀は久保田を一瞥し、何も無かった様に歩き出す。
「そんな目で見るなよ、恐えな」
久保田が戯けた振りして秀の後を追う。そして秀の肩を掴む。
「おい、無視してんなよ。“ヒトゴロシ”」
秀は一瞬立ち止まり少し笑いながら振り返る。肩の手を払い除け透明な瞳で久保田を見る。
「何なら君も同じ様にしてやろうか久保田君。僕は一人でも二人でもどうって事無いんだからね」
「何だとコラ」
久保田の激昂の声が震え語尾が裏返る。
「何ビビってんの。喧嘩売ってんじゃないよ、クボタクン」
秀は久保田の肩をポンと叩き、何も無かった様に歩き出した。
此処にはたった一つの暗黙のルールがあった。それは自分の過去を言うは無用、人の過去を聞くは不作法と云う事。互いに傷付けない様、要らぬ揉め事を起こさぬ様に子供達なりに考え出された物だった。それが何時しか慣習となっていた。
皆互いの過去を知ってはいてもそれを敢えて口にはしない。時折大きな罪を犯した者がそれを吹聴したりもしたがそれも三日で飽きていた。罪の大小の差はあれ、皆一様に罪を犯したに違いは無い。
当然、秀もそうしていた。と言うより無口な秀にとってはその方が都合が良かった。一部の間では罪の大小で力関係が出来上がっていたりしたが、それも秀には関係が無かった。人を殺めた程の罪は返ってそれを幸いした。つまりはハクが付いていたのだ。秀は悪さ自慢なんかに興味が無かったが何より此処ではやり易かった。
人と関わらない、それが秀にとって最大の関心事であった。
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