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欠片の傷跡  作者: 大己貴 椿(オオシキ・ツバキ)
2/7


  *


 その部屋には時が無かった。流れる音も無かった。無機質な伽藍の底で冷たい机にへばり付いた。


 僕は誰に宛てるでも無く手紙を書いていた。言葉にならない思いを紡いではボールペンを只走らせていた。肩に首をめり込ませ頬杖を突いたまま溜め息を一つ。


 時折見上げる格子の高い窓の向こうに冷たく欠けた月が静かに輝く。


 此処に来てからもう随分と過ぎた気がする。僕は高い天井を見上げ此処に来た頃の事を思い出していた。


 今でも憶えている。あの時のあの日。


  *


 夕暮れ、藍色の空、路地裏の公園。吹き出す汗でシャツがまとわり付く。遠くに渋滞の音。ありがちな街角の風景。


 複数の人息れ、蠢く人影、肉が肉を打つ鈍い響き。幾度もの呻き声を挟んでか細い言葉が落ちる。


 御免なさい、御免なさい……。何一つ理由の無い謝罪の言葉。学生服姿のままの彼を何人もで押さえ付け代わる代わる殴る、殴る。腹を腕を顔を踏み足蹴にする。


 思えばこれといった理由は無かった。首謀者も居なかった。誰もが共犯の思いの中で只ひたすらに殴った。


 無声映画のスローモーションの残像にからかいの歓声と力無き抵抗。僕は彼を踏み付けたまま見下ろしていた。


 “……嫌な目だ……。”


 僕は彼の許しを乞う捨て犬の様な目が堪らなく嫌だった。額の辺りを蹴り付けては何度も顔を踏んだ。只それだけの、たったそれだけの理由でも充分だった。興奮した口調で誰かが言った。こいつ前からムカついてたんだ。静かに僕は答える、ああ。


 教室の力関係なんてそんな物だ。ちょっとした感情で簡単に崩れてしまう。落ちぶれるのは一瞬の出来事で、僕と彼は少し前まで友達の振りだったけれど今は彼はいじめられっ子で、だから僕は彼を蹴り続ける。


 僕も彼も皆も普通の中学生で、つまりはそれが理由だった。だから誰も何一つ躊躇いの吐息も漏らさず、ひたすらに殴り付けた。ほんの小さな切っ掛けで誰もが被害者で加害者で、だから僕は彼を蹴り続ける。僕らは殴り続ける。


 顔から血が流れようが折れた歯が飛ぼうが腕が変な方向に曲がろうが体中の色が青黒く変わろうが蹴った時に頭から鈍い音がしようが媚び諂う贖罪の息が力無く漏れようがぐったりと動かなくなろうが痙攣で小刻みに体が震えようが。


 誰かが見当違いの罵声を浴びせながらバットを振り下ろし、したたかに体を打ち付けるのを僕は只透明な瞳でじっと見ていた。黙ったまま彼を見ていた。驚く程に心は静かだった。


 あの力無い小動物のそれと同じで弱々しい眼差しが堪らなく嫌だった。


 “全く嫌な目だ……。”


 それから数日後、僕たちはいとも容易く警官に押さえ付けられた。誰も抵抗しなかったけどそれでも地面に突っ伏せられて後ろ手に手錠を掛けられた。


 優しいだけの母は泣きじゃくっていた。厳しいだけが取り柄の父も目を潤ませていた。皆別々の部屋に入れられ取り調べは始まった。


 そこで初めて彼の死を聞かされた。全身打撲による心臓発作だったらしい。皆は泣きじゃくったそうだが僕は不思議と涙は流れなかった。


 警官は問う、何故こんな事をしたのかと。僕はゆっくりと、解りませんと答える。警官は困った顔で僕を見る。そんな事言っても得にならんぞ、とうそぶいても見せるが、それでも本当に理由なんて見付からない。強いて言えばあの目が嫌だったんです、とだけ告げると、警官は相当に困った顔をしてお前は知能犯だと吐き捨てた。


 代わる代わるの警官にその度に嫌みを言われ、七回程そこで寝起きをした頃になると、お前達よりも法律に負けたんだ、と警官は口惜しそうに嘆く。そしてお前は少年法を知っているんだなと警官達の言葉に背を押されて別の部屋に通された。そこには初老の温厚気なおじさんが居て、向かい合わせに席に腰を下ろす。


 おじさんは細目の笑顔を僕に向け、大変だったねと言葉を掛けた。どちら様ですかの問いに、私は君達の弁護士ですよと、何も心配する事はありませんよ、と付け加えた。それから僕は色々な話をした。学校の事、親の事、友達かも知れない皆の事、そして彼の事。


 警察には特に酷い事はされてませんが相当嫌味は言われましたと告げると、弁護士はそれは君が賢い子だからだよとメモを取りながら笑う。彼や彼の両親について聞かれたので、実際まだピンと来ません、とだけ答えた。


 二時間程話し、弁護士に何故食事を全部取らなかったのかい、と聞かれて僕は只、肉が喰えないだけなんですと笑う。


「君は正直でいい子だ。そして未来がある。罪は償わなくてはならんけれど、それ以上に君は立ち直らなければならない。何も心配は要らないので全て私に任せなさい」


 弁護士の笑顔の空々しさに僕は胃の奥がチリチリとしたが、それでも弁護士に向かって深々と頭を下げた。


 それから僕達は警察のワゴンに乗せられ鑑別所に運ばれた。マスコミのフラッシュが皆を取り囲んだ。どうやらあの日からしばらく僕達はテレビや新聞の主役だったらしい。決して顔の無い匿名の主人公達。台風の渦の中心はいつも緩やかに時間が流れる。


 学校は先生は親はどうだったろう。僕はいつもの心と同じで皆は憔悴し切っている。後に聞いた話だけどネットの中じゃ僕達の写真があふれてちょっとした祭りだったそうだ。匿名希望の世界程、人の名前を欲しがるらしい。潔癖で過剰な正義感と、起こした事の大きさはマスコミのカメラの数が物語る気がして僕は首を竦めてみたり。


 それからは幾度も鑑別所と裁判所の往復で、傍聴席に見える母の頬が見る度に痩けてゆく。変な心理テストをして医者と話をして僕は狂った振りなんて出来なくて精一杯正直に話す。


 もう一人の自分も悪魔も別に僕の心には棲んでいないので、弁護士の答弁と違った事を時折言う僕に皆は困った顔をしたが、鑑別所は意外と快適だった。検事は僕の態度が気に入らない様子で僕を主犯格に仕立てようとしたが、幸い少年法の壁は相当分厚く傍聴席を埋める人は皆の両親や関係者だけで、それは随分救われた気がした。


 僕は知っていた、幾ら泣きじゃくろうが頭を地べたに擦り付けようが決して彼は生き返りやしない。それでも僕達の背に突き刺さる一部の鋭い視線が僕だけに集まるのが邪魔っ気で一応は謝って見せたりもした。鑑別所ではテレビも新聞も見せてはくれなかったけど何と無く空気は感じていた。裁判の時以外は一度も皆に会わせて貰えなかったのが何よりの証拠だ。


 僕は本を読み勉強をし集団で運動をし、弁護士に会い裁判に出かける。不味い食事にも少しは慣れたけど肉を残すと怒られるのだけは嫌だった。結局僕は個室から出される事は一度も無く、時間はあっという間に過ぎた。


 そして裁判官の一声で全ては決まった。少年院に送致、刑期は約四年。


 退院する頃には僕は十八を超える。僕達は凶悪らしく、年数こそそれなりだけど十四歳にしては大人の入る刑務所のそれに程近い特等少年院に送られるらしい。


 皆は泣いていたが僕は何とも思えなかった。只、慌ただしい時間が通り過ぎて行った気がした。これで怪訝な視線に背中を刺される事が無くなるかと思うとむしろほっとすらしていたのかも知れない。僕の心は誰も知らない。ひょっとすれば僕自身にも。


 只、彼のあの目が嫌だった、それだけが確かな事。


 とにかく僕は街を離れた。北陸に在る海に程近い少年院。少しばかり目眩がした。


  *


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― 新着の感想 ―
[一言] 意外と人間を強く殴るのは勇気がいることです。 つまりは集団の狂気がそうさせたのですね……。
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