プロローグ
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この作品は、大己貴椿が過去執筆したものに神宅真言が修正・編集等を加えた合作となります。
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……いつも静かな気持ちでいた。いつも静かな気持ちじゃなかった。それを望んだ訳でも無いけど、静かには居させて貰えなかった。
薄暗い部屋にぽつり、忙し気な影と動かない影。パイプ椅子に浅く腰を下ろし丸めた背にはタオルが掛かっている。細くしなやかな前腕がすぅっと膝の辺りに伸び拳には厚いバンテージがかちりと巻かれている。固く握る拳の甲の封印の印に近付く時を感じさせる。見上げた鏡に映る頬の青白い影。何度と無く深い呼吸に、暗がりに浮かび上がる海老の様に割れた腹筋の影が重なる。肋骨に張った胸筋に流れた汗が鈍く光った。
思えばいつもこんなだった。思い返す度、腹の底がチリチリ痛む。全く心地が悪い。
がらんの瞳が微かに光り、静かな部屋に小さく、会長、そろそろ、と声を漏らす。
顔を上げると体格の良い男が、そうだったな、とごつごつした手にたっぷりとウォーターグリースを広げ、長い髪の根元の辺りから万遍と無く塗り伸ばす。粗めの櫛で長い髪を何度も何度も丁寧にたくし上げる。じっとしとれよ、と男は額を押さえ髪を強く後ろに流す。髪を束ね後ろを紐でキュッと縛る。目尻がクッと吊り、瞳の光に精気が満ちる。ふう、と息を吐くと体中から細い幾つもの影が浮かぶ。そこかしこにピリピリと空気が張る。
「秀、気分はどうだ」
「はい、いつもと同じですよ」
柔らかな顔で声の方を見る。そうか、と男は手持ち無沙汰気に洗面台の蛇口を捻り、忙し気に自分の顔と手を洗う。そして上げた顔を鏡越しに見せる。
「なあ、秀よ」
首をすうっと伸ばし返事をせずに鏡を見る。
「お前、どうしてボクシングなんぞ始めた」
「……」
「いやな、ボクシングしようなんて奴は少々に血の気が多いってのが道理なんだがな。お前みたいなタイプは珍しいんでな」
「何ででしょうね」
「いや、いいんだ。気ぃ悪くするな、只……」
「そんな話、ゆっくりした事無かったですね」
笑みを浮かべ鏡越しに二人は目を見合わせる。
「何にせよ今日は特別だからな」
「……そうですね」
特別、の二人の意味は違っていた。それでも二人の話は妙に噛み合っていた。
空虚な胸にぽつりと浮かぶ自分だけの、特別、の意味。ただ、胸の思いに駆られ、嫌が応にも顔が気持ちが引き締まる。
「あの、何か冷たい物少し」
ああ、とクーラーバッグの中から差し出されたスポーツドリンクのストローに口だけ寄せてくわえる。渇いた喉に染み渡る。その喉越しの心地良さに思わず、はあ、と吐息が漏れる。ワセリン塗るか、の声にこくりと肯いた顔に、薄く万遍無く広げてゆく。
「お前は不思議な奴だ」
「そうですか?」
「闘う男の目ぇしとらんわ」
「そんな男らしく無いですか僕」
「只、ギラギラしとらんのでな」
「……かも知れませんね」
男は顎の辺りを撫で頬を二、三度軽く叩いた。静かな部屋に身を打つ心地よい音が響く。微かに頬が痛い。その痛みさえどこか清々しくさえ思える。
「よし男前になったぞ」
はにかんで照れ臭そうに鏡を見た。と同時に忙し気に扉を叩く音が控え室に響く。会長、そろそろ準備いいですか、と二人を呼ぶ声。扉の方に顔だけ向け、男は初めて会長の顔をした。
「そろそろ行くか、秀。今日も勝ってこい」
「はい」
会長はそそくさとしかし確実にグローブの紐を結び、そして一通りの荷物を持ち扉を勢い良く開く。セコンドに荷物を渡しタオル越しに秀の肩を強く叩く。場内のアナウンスがメインイベントの試合を告げる。
細く暗い通路の向こう、青コーナーが浮かぶ。眩い光の遠い歓声。秀の心はそれでも驚く程に静かで、只、胸の奥で何度も繰り返す。
“……僕はこれから何をする……。”
歓声が秀を呼ぶ、青コーナーが秀を呼ぶ。ミヅキ、ミヅキとコールが響く。音楽が鳴り渡る。胸の声が秀の背を押す。
“……驚く程に静かな気持ちだ、性懲りも無く僕はまたそれでも……。”
暗く細く長い通路の一歩一歩、何時もあの日を思い出す。
“……僕はミヅキ、シュウ……。”
遠くに音楽が聞こえる。拳が固くなる。
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