四
「ううう……」
「いや、そのなんだ、悪かったな」
道場の隅で涙を流す私の背中に向かって千尋は申し訳なさそうに声を掛けてくる。
「ううん、いいんだ……。そりゃ臭いよね、汗だって沢山掻いてるし、垢だって出るし、そもそも獣だし……」
しかし、謝られてしまったことにより更にやり場の無い気持ちをどうすることもできなくなり、やはり私は涙を流すのだった。
結局、獣臭いという千尋の発言から始まった一騒動は、道場破りを名乗る少年が盗んできたという石鹸の登場により、丸く収まったのであった。
「ああ、石鹸で髪の毛洗うとふけが沢山出るようになるぞ」
「いやああああああああ!」
少年はリンスやシャンプーも腐るほど持ってきていたので、それ以上の大事には至らなかったのは、言うまでもないだろう。
「しっかし、亜人がお洒落に気を使うものか?」
その日の夜中、一行九十九と名乗る少年は千尋が作った料理を不味い不味いと言いながらとてもおいしそうに頬張っていた。
そして、何だお前はという千尋の呆れ声を無視しての、先ほどの一言である。
本当に、突拍子もない。しかし、私としては反応せざるをえない質問であった。
咀嚼していた米と山菜を飲み下し、口を開いて講義する。
「するでしょ! 人なんだから!」
「人、ねえ?」
「っ!」
九十九は急に食べる手を止め、口の端だけで笑って見せる。
「確かに、俺達亜人は人だ。少し人間とかけ離れた姿形はしているけどな」
そう言うと、切なげな顔をしながら九十九は自らの『犬の耳』と『人の耳』を撫でる。上の耳は基本垂れているので、髪の毛とどうかしているように見えてしまい、本当に撫でているのかわからないが。
つられて私も自分の『狐の耳』と『人の耳』を撫で、千尋は右手で赤い右目を押さえた。
「……いや、それだけだけど」
「それだけかよ! しんみりして損したわ!」
切なげな顔から急に真顔になったので、九十九が何を言うのかと思えば、酷く拍子抜けした言葉を聞かされた。
私は何も言えずに固まってしまい、千尋は思わず、といった風に左手に持っていた箸を九十九に投げつけた。九十九はけらけらと笑いながらその箸を空中で掴みとり、千尋に投げ返した。
「まあ、冗談は置いといて」
「九十九が言い始めたことじゃん……」
「だから俺がすっぱりまとめたの」
まとまったのか? と千尋が目で問い、どうだろ? と私は目で返す。
「ごほん……。明日、手合せしてくれないか?」
わざとらしい咳払いの後、何の脈絡もないことを九十九は言った。何故か照れた風に。
「俺は別に良いけど……。燐火はどうなんだ?」
「え、手合せなら千尋と毎日してるし、別にかまわないと思うよ」
「……なんでそんな軽くオーケーするかな? ちょっと緊張した俺が馬鹿みたいだぞ?」
「ああ、それはお前が悪いな」
力の抜けた声を出す九十九と、呆れた声を出す千尋。
人間の主人を守る犬と人間を襲う鬼。
「……っくく」
ああ、今日は良い夢が見れそうな気がしてきた。
「ユニバース!」
よくわからない掛け声と共に、九十九は握り拳大の石を私に向かって投げる。
「え!? えっと、ピーマン!」
九十九の掛け声に衝撃を覚えつつも、私もよくわからない掛け声と共に固く握った拳を前に突出し、九十九が投げた石を粉々に砕いた。
石を砕くときにまったく痛みや抵抗が感じられないことには未だ慣れないが、それは上達してきた証拠だと千尋は言う。九十九は私の感覚が鈍いとかなんとか言っていた。
「あっははは! 何今の掛け声!」
「うるさい! 今日の夕食にタマネギ混ぜるかんね!」
「やめて下さい!」
夕食係は千尋なんだけどね。
そのことに九十九も気付いたようで、
「――ってお前関係ないじゃん!」
「いや、頼めばもしかしたら……」
「やめろっ!」
「あうっ!」
やはり九十九は口よりも先に手が動くのであった。
……おかげでたんこぶが出来てしまった。




