二
私と千尋が住んでいるこの古びた道場は、とうの昔に人々から忘れ去られた剣の流派の道場で、自然に蝕まれながらゆっくりと終わりを迎えようとしていた。
しかし五年前。人間の視線から逃げるために小型ボートを盗んで海へ出た私と千尋が難破して辿り着いたのがこの屋久島だ。島は無人島らしく、誰一人として住んではいなかった。
住んでいた形跡はあったが、建造物や家具を見る限りでは数百年前にはもう人が生活しなくなっていたようだ。
流石に、他人の家で勝手に生活するのは気が進まなかったので、山の中に来てみればこの道場があったというわけだ。今では私たちによって本来の姿を取り戻し、本来の目的で使われている。
「なあ、燐火……」
「なーに?」
私は道場の隅に置いてある竹を編んで作られた籠から二メートル超の竹刀を二本取り出す。これは流石に重かった。
一瞬体制を崩しながら、半身になって構え千尋の方を向く。
千尋は全長五十センチ程の木刀を握ったままの左手で頭を掻きながら口を開いた。
「昨日は弓矢で一昨日はなぎなた。その前は確か重りを付けた縄だったよな。そろそろどんな武器で戦うか決めたらどうだ?」
呆れた風に言う千尋に対して、私はムッとして返す。
「私は戦わない! 五年前も言ったでしょ、護身術を教えて欲しいって!」
「いや、確かに言われたけどよ……。お前、今まで俺が教えたこと全部覚えてるのか?」
「大丈夫!」
きゅっ、と床が鳴る。気付けば、千尋が右手の盾で頭を守りながらこちらに向かって突進してきていた。
身を翻しながら両手の竹刀を地面と平行にし、千尋を受け流す。
「しっ!」
千尋は突進の勢いを殺しながら反転し、こちらに向かって回し蹴りを放つ。私は背中を反らし、更に膝を折ることで真正面からかわす。そして、追撃を恐れ体のバネを利用しながら後ろへ飛び退った。
「逃げるな! お前を襲う奴の隙を見逃すな!」
「無理だよ! 私は千尋を傷付けられない!」
「俺はお前を殴れる! 蹴ることもできる! その覚悟がある! 戦いたくないんだったらまず自分を殺すつもりで鍛えろ! 話はそれからだ!」
「何度も言われなくたってわかってるよ!」
私は悲鳴を上げるように叫ぶ。
わかっている。
わかってはいるのだ。
だが、戦いたくないのだ。
もう、私の周りで傷付くのは、私だけで十分なのだ。
「わかってるけど……!」
「甘えるな!」
「ああっ!」
鳩尾に鋭い痛みを覚えながら、私は道場の床に頭を激しく打ち付け意識を失った。
私は午後のトレーニングを終えると、いつものように大樹の枝に腰掛け、木漏れ日を浴びながら夕日を眺めていた。温かい橙色の光が一日の疲れを癒してくれるようで、時折吹く微風もまた気持ち良い。
心地よさの中、ふと今朝の会話を思い出す。
「……誰かを傷つけてまで生き残ろうなんて、そんなの、悲し過ぎるよ……」
殺されそうになったから、逆に殺す。それは至極当然のことなのかもしれない。だが、それは自分が助かるために、誰かを犠牲にしているという事と変わりないだろう。
じゃあ何もせず殺されるのか、と聞かれれば、しかし私はそうだと言うだろう。
「だって、悲し過ぎるじゃない……」
実際、私はウサギも食べるし魚も食べる。虫も殺せば植物も刈る。だが、主観的に見ればそれは他人を殺すのと、他人を傷つけるのとなんら変わりがないだろう。だが、世界の流れからすればそれらは食物連鎖の一部だ。弱肉強食、強者が生き残るために、弱者を己の糧にしているのだ。不自然なことなど何もないだろう。
しかし考えてみてはどうだろうか、同種の動物同士で争う時は群れの中のルールを守るため、また、雌を奪うため、リーダー的地位を奪うためなど、人間とさして変わりない理由で争う。それは、優秀な遺伝子を出来るだけ未来へ残すためだと考えてよいだろう。
一方人間と言えば劣った遺伝子達が一致団結をし優秀な遺伝子を潰してしまうのだ。しかも、面倒なことに世論と言うものは少数精鋭の優秀な遺伝子の意見よりも、劣悪な不特定多数の遺伝子を優先し、どれほどの天才が現れようとも、天才がもたらす甘い蜜だけを器用に吸い取り、もうこれ以上甘い蜜がないという事に気が付けばあっさりと切り捨てる。
わざわざ汗水流して命懸けで生きなくてもよいと気付けば生きることに対し無関心になる。それは周囲に伝染し、必死に生きるモノたちがまるで『劣った』存在に世界は捉え始める。中途半端に生き始めた者たちは無駄な『欲』に興味を持ち始め、小さなものだった欲も、いつしかそれは多くの命を左右するほどのものとなり、世界を巻き込むものへと発展させた。
いや、優秀な遺伝子であっても、必ずどこかに大きな欠陥があるのだから、ふむ、場合によっては最悪の劣悪品ともいえるだろう。
「うー、頭良さげに考え事したら頭痛くなったー……」
ズキズキと痛む頭を両手で抱え込む。結局、私は自分に甘えているだけなのだろう。一歩踏み出せない理由を、覚悟を出来ない理由を、自分じゃない別のものに押し付け、逃げているだけなのだ。
弱いだけなのだ。
そう理解すると、まるで何か覚醒したかのように頭の中が冴えわたる。小波の様な自分の血管を流れる血液の音から、遠くで鳴くか細い鈴虫の声まではっきりと聞こえ、区別が出来る。
大きく心臓が脈打ち、頭の中で何かが噛み合う感覚がする。
「だったら……さ」
いつの間にか日が暮れて、夜闇が辺りを支配していた。幾千もの輝きが黒い空に海をつくる。それは、命の灯のように、儚く、注意していなければ見失ってしまいそうなほど小さな輝きだった。
私はその輝きを浴びながら、満月に向かって呟いた。
「私は私の意思で戦う。私の自己満足のために戦う。他の誰でもなく、私の為だけに戦う」
誰も、私の周りで殺させないために、私はこの手を汚してみせよう。




