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忍び寄る幻影

 俺は気がつくと、夏の日差しが燦々と照りつける、野球グラウンドのバッターボックスに立っていた。

 周りには誰も居ない。一緒に野球をする仲間も、試合を取り仕切る審判も、応援してくれる人達も、誰も居ない。でも、今この時を夏だと実感させるうるさいくらいのセミの声は俺の耳にしっかりと鳴り響いている。

 俺は何故ここに立っているのだろう?

 今更野球をやりたいなんて思わない。一打席だけでも打ってほしいと言われても絶対に断る。野球が嫌いな訳ではないが。俺にとって野球は恐怖そのものだ。

 このバッターボックスに立っているだけで、夏の暑さも相乗し、目眩がしてくる。

 俺がこの場所に立つ理由がわからない。ここへとどうやって来たのかすらわからない。自分の足で決して来るわけがないんだ。

 でも足が動かない。

 自分を支えている両足が地面にべったりと張り付いて動いてくれない。ただグラウンドから湧き上がってくる熱だけを吸収し、俺の体温を上昇させる。

 ――どのくらいの時間が経っただろうか?

 果てしなく長い時間ここに立ち続けていた。それでも俺の脚は一向に動いてはくれない。

 頭の中ではもう考える事もやめてしまい、俺は畑に佇む案山子のように棒みたく突っ立っているだけになった。

 頭の中が真っ白に染まる頃、やがて俺の視界に人影が映る。そいつはバッターボックスの目の前、マウンドの上にボールを持って立っていた。

 そいつがピッチャーなのだとしたら俺はバッターなのだろう。しかしこれでは野球というスポーツは進行しない。何故なら、俺はバットを持っていないからだ。

 でも、例えバットを持っていたとしても俺は絶対にバットを振らない。

 ――野球をしたくないんだ。

 何の為に目の前の誰かがマウンドの前に現れたのか、全く理解出来ないでいるが俺はそいつに教えてやりたい。

 ――俺に打つ気はないと。

 しかしそいつは俺の考えなどお構いなしにボールを投げる構えを見せる。その構えを見た瞬間、俺は何故ここにいるのか、少しだけわかった気がした。

 忘れる筈もない。忘れようとしても忘れる事の出来ないそのフォーム。

  身長は低いのに、豪快なフォームから投げ出されるそのボールは剛速球と言う名が相応しい。

 ボールを追いかける俺の目はそのボールを投げたピッチャーの顔を一瞬だけ捉える。その顔は僅かだが、笑っていた気がした。

 ――ああ、やっぱりお前だったのか。

 そう……俺は待っていたんだ。

 あいつが来るのを。

 俺が再びバッターボックスに立って、あいつが再びマウンドに立つのを――。

 どんな間違いが起こったとしても、感動の再会なんかでは全くない。こてんぱんに負かされた相手にリベンジがしたいだとか、純粋に相手との試合を楽しみたいだとかそんな綺麗な理由では決してない。

 風を切ってグングン近づいてくるそのボールが目の前に近づいてきた時。

 祈るような気持ちで俺は目を閉じた。

 ――どうか。

 ――俺に当たってくれますように。



「ふあっ!」

 頭が一気に覚醒した。深い眠りの底から急激に引きずり出され、現実へと無理矢理引っ張ってこられたかの様。

「っぷ……あっはははははははは!」

 教室中が笑い声で満たされ、その歓喜の中心にいるのは何故か知らないが俺である様だ。

「ふあっ! ってなんだよ三浦! どんな夢見てたんだ?」

「ねえ! どんな夢見てたの? もしかして仲山さんと……」

 どうやら授業中に居眠りしてしまい、クラスメイト達が沈黙を保って先生の授業を聞いている最中、一人間抜けな声を出してしまったみたいだ。

 すごく恥ずかしい……。

「い、いや。別に夢なんか見てねえって」

「ホントかよー?」

 周りの奴らが騒がしい。クラスの雰囲気が明るいのは結構な事だが。できれば俺の事はそっとしておいてほしいな。

 千野の方を見やるとクスクスと笑っていて、あいつも俺の奇声がツボに入ってしまったらしい。

「おい。そろそろ授業……っくく……再開するぞ」

 おい……何笑ってんだよ教師。

 教室中とは言ったものの、まさか先生までもが腹を抱えて笑っているなんて。

 その後は何事も無かったかの様に先生も表情を引き締め、授業も進み出しクラスメイト達も再び授業を聞く為、授業へと没頭していった。



「優一郎君はどんな夢を見てたのかな?」

 昼休み。時間が立てば自分が起こした失態も風化していくだろうと思ったのが甘い考えだったのか、ただ一人だけ、俺がどんな夢を見たのか興味のある奴が問いかけてきた。

「大した夢じゃない。頼むから忘れてくれ」

「でもなんだか気になっちゃうなぁ。だってあんなに驚いた顔して起き上がるんだもん」

 そうやって掘り起こされると、あの時の恥ずかしさが蘇ってくる。

 俺の前に座っている奴は購買へと駈け出して行き、その空席に千野が腰を下ろす。俺と千野が向かい合わせになる構図の完成だ。

 俺達がこうして喋っていても、クラスの連中からかう声は聞こえてこない。公認と言うのは聞こえはいいが、俺としてはそれは断じて間違いだと叫びたい。からかわれたい訳ではないのだがこの状況が当たり前になるのは果たして良い事なのだろうか?

「俺は購買に行くから、じゃあな」

 そう言って席を立ち千野を置き去りにしていこうとする。しかし、千野も俺が席を立った後、すぐさま俺の横へ並び、着いてきた。

「ねえねえ、優一郎君ってばー」

「うるさい、絶対に教えないから」

「うぅ……」

 唸りだした千野は購買に行く途中、一年の教室が並ぶ廊下のど真ん中で急に立ち止まる。

「優一郎君に……怒られたぁ」

「は?」

 千野の目に涙が溜まりだす。全身も震えだし、何かを必死に堪えているように見える。

 おいおい、まさか泣き出すんじゃねえだろうな? 別に怒った訳じゃないんだぞ……。

「千野? 別に怒ったわけじゃないからな? ただ俺も良くわかんない夢で説明しづらいから教えるのが面倒だっただけだ」

「ぐすん……ホント?」

「あ、ああ。本当だ」

 千野に対して怒りを示しているわけじゃない事をとりあえず伝えると、自分の袖で両目に溜まっていた涙を拭い、段々と落ち着きを取り戻しているようだ。

 それにしてもあれだけで泣きそうになるなんて、まるで子供みたいだな。

 そんな弱々しい千野に対して庇護欲を掻き立てられてしまう俺は、女の涙に弱いのかもしれない。

「少しは落ち着いたか?」

「うん……ごめんね、私がしつこい所為で困らせちゃったね、ホントにゴメン」

「いいよ別に。それに意味不明な説明で良ければ教えてやる。購買で昼飯買ってくるから教室で待ってろ」

「うん、わかった」

 なんとか千野の涙を収めることに成功した。いつも通りの千野に戻り、俺と別れて教室へと戻って行く。

「はあ、とりあえず早くパン買って戻ろう」

 いつも通りになったとは言え、心の中でまだ気にしているかも知れない。中学では友達も居なかったらしいし、人付き合いが苦手なのは既に承知の上なんだが。

 いろいろと千野の事ばかりを考えている内に購買に辿り着く。昼休み直前は人だかりで辿り着くのも一苦労だが、少し時間が経った今ならほとんど誰もいない。もちろん余っているパンも売れ残りばかりで俺には選択の余地すらなかった。

「はぁ……これ下さい」

「はいよ」

 俺が買ったのはパックの麦茶とほとんど中身が入って無いと評判のあんぱん。

 せめて麦茶が牛乳だったらまだましだったのに……。

 購買は職員室や生徒会室などと同じ北校舎の一階にある為、自分の教室がある南校舎に移動しなければならない。

 その途中で他の学年の生徒や先生達とも勿論すれ違うわけであり。

「あら? 優一じゃない」

「……郎が抜けてますよ、千草さん」

 俺が教室へ戻ろうと一年の南校舎へ移動していた所、こちら側に向かって実に美味そうなサンドイッチを頬張りながらな歩いている千草さんに出くわした。

「そうだったっけ? 結構久しぶりよね。会う機会なんて無いんだから当たり前たけど」

 千野の家で料理を教えてもらった時以来だ。あまりにも学校で遭遇しないから本当に学校に通ってるのか疑問だった。

 千草さんの制服姿はこの前見た私服姿よりも若干幼く見えた。と言っても学生相応の姿に見えるだけでこれはこれで容姿端麗の美少女、といった言葉が当てはまる。

「どう? 千野とは。仲良くやってくれてる?」

「……は、はい! とても!」

「何でそんな間が開くの? 何かあった?」

 まさかこのタイミングで千野との近況を聞かれるとは、千野を泣かしそうになった事の罰なのだろうか。

 意を決して真面目に答えよう。

「実は千野と……喧嘩したわけじゃないですが、あいつが泣きそうになっちゃって」

「理由を言ってみなさい。次第によっては撲殺だけど、まあ同情出来る余地でもあれば殴殺で許してあげるから」

「それ、どっちも一緒なんですが……」

 千草さんはなんて優しい目をしているんだろうか? この目が殺気を帯びている様に見えるのは俺の心が歪んでいる所為なのか? どこか遠くからその目を眺めたかったです。

「その、俺が授業中居眠りしてて、それで千野が何の夢を見たのかと聞いてきたんですけど俺はそれを説明するのが面倒でうるさいって言ってしまいました」

「それで?」

「それで終わりです」

「つまりあんたがうるさいって言ったから千野は泣いちゃったわけよね?」

「泣いてはいません。泣きそうになっただけです」

 ここで一応言い訳を挟んでおく。千野は泣きそうになっただけで泣いてはいない。でも千野の泣きそうな姿を思い浮かべると煙の様に罪悪感が充満し、千草さんに嘘を吐かせてはくれなかった。

「もっと言ってやりなさい」

「すみませんでし……は?」

 意外にも千草さんから出てきた言葉は怒りの叱責などではなく、俺の行いを許容し、逆にそれを千野にぶつけてやれと促してきた。

「あの子は今まで他人と話す事をあまりしてこなかったから、人に自分を良く見せようと上辺の態度を見せてるだけ。あなたにはそう見えない?」

「えっと、俺には……」

 あいつはいつも温厚な態度で接してくれて、純粋な笑顔を自分の周りに振り撒いている。

 俺にはそう見えていた。

「他人に対して怒ったりなんてしないのよあの子は、私にしても本当のあの子が一体どんな子なのか実は良く分かってないのかもしれない……。家族である私が理解してあげないといけないのは良く分かってるつもりなのよ。それでもね、あの子の見せる笑顔が本物なのか私には良く分からないわ」

「千草さん……」

「だから、あなたは千野に真摯で居てあげてほしい。怒りの感情も全て隠さずに千野に打ち明けてほしい。そうすればあの子もいつかは……。心の底から言いたい事を吐き出してくれるかもしれないから」

 怒りや悲しみの感情は、自分が納得いかないから、自分には抑えきれないから表面に出てくるもので、確かにそれが人の本当の気持ちを知るには容易な手段なのかもしれない。

 俺が千野に遠慮をしない事でいつか千野自身の本当の感情が浮かび上がってくるんだと千草さんは思っているんだろう。

 でも本当に、俺が見てきた千野の笑顔は心の底から思ってもない事だったのか?

 いきなり真面目な話をされたもので俺も思考がうまく回らずに立ち尽くしていた。

 少し落ち着いて自分の考えを整理していく。

 ――ん? ちょっと待てよ?

「あの、一ついいですか?」

「え? 何?」

 千草さんも千野の事を考え込んでいるんだろう。俺が声を掛けた事で、少し驚いた顔になった。

「あいつは怒りますよ?」

「え、うそ……?」

 千草さんは目を大きく見開いて驚きを露わにする。

「この前ちょっと問題がありまして、そこで千野に叱られました」

「千野に……叱られた?」

「はい、結構大声で怒鳴られました」

「怒鳴られた!?」

 あの廊下での出来事だ。クラスメイト達から覗かれている中で大声で言われた。

『私はあなたに出会えて本当に良かった!』

 あの言葉は今でも鮮明に覚えている。その時は俺も千野が怒った事に衝撃を受けた。でも確かに千野は怒っていて……。

 千野が心の底から言ってくれた言葉だと、そう思う。

「そうなの……。多分あなたは相当千野に信頼されてるのよ」

 悲しい目をして千草さんは下を向く。

 姉として妹の事をわかってあげたい気持ちが俺みたいな奴に劣っていると、そんな事でも考えているんだろうか。

 もしそうだとしたら、そんな事はないと俺は千草さんに伝えたかった。

「俺が情けないからですよ」

「え?」

「俺が情けないからです。俺が屑みたいな奴だからさすがのあいつも、こいつ……なんとかしなくては! なんて思ったんじゃないでしょうか?」

 きっとそうだ、俺は本気でそう思っている。だからあの時の千野の怒りに感謝した。

 あのおかげで視界を遮ってくる影が消えた様な気がしたから。

「情けないって……はぁ、まあ千野が怒ったシチュエーションも気になる所ではあるけれど、あなたも踏み込んで欲しく無さそうだし、そう言う事にしといてあげるわ」

 俺のよく分からないネガティブすぎる説明に、千草さんも呆れ果てたのか、溜息を一つ吐き、この話題を切り上げようとする。

「でも、さっきも言った通り千野には真摯でいてあげて。あの子は多分、他人の感情に敏感だから心の中で不安になってると思うの。はっきりと言ってあげた方があの子も自分の感情を出せるんじゃないかと思うから」

「わかりました。後、俺からも一ついいですか?」

 千野さんのお願いは俺も尤もだと思う所であり、異存はない。というか別に千野に対して気を使った記憶があまりないから今まで通りでいい筈である。

 俺の事は良しとして、俺も思った事を千草さんに伝えておこう。

「千草さんはありのままのあいつを見てやればいいと思います。あいつは上っ面の態度を取ろうとしているのかもしれませんが。もしそうだとしたら千草さんの目に映る理想の自分を、あいつは演じようとしているはずです」

「ありのままのあの子を?」

「はい、温かく見守ってやる事があいつにとってはいいのかもしれない……というのが俺の考えなんですが」

 浅はかな考えかもしれない、まだ千野の事をろくに知らない俺が家族である千草さんを導く事が出来るなんて思ってもいないが。

 しかし俺は、あいつが純粋の塊である事を信じている。

 はっきりとは言わないが千草さんには分かって貰えただろうか?

「ふふ、そっか……ええわかったわ」

 呆然と俺の話を聞いていた千草さんだが、俺の言葉を理解してくれたのか、軽く笑みを漏らし、納得した合図をする。

「千野の事は見守って上げる事にするわ、って言っても私自身あの子にどうしてやればいいのか全然わからなかったし、千野の事はあなたに任せる!」

 そう言うと、千野にそっくりの笑顔を浮かべ、俺の右手を掴む。

「要するに、俺が何とかしてやるから、黙って見てろ。ってことでしょ? だから千野の事はあなたにお任せします」

「は?」

 言動から察するに俺の気持ちを理解してくれてない。

 それでも千草さんの、俺の右手を掴んだ左手には力がこもっていた。もしかすると千野の気持ちを理解してあげられないという、もどかしさの現れなのかもしれない。

「この前はあなたの事が信じられなくて言えなかったけど、千野の事よろしくね!」

 嬉しさと寂しさが混じり合ったその笑顔は、妹の事を一番に思う心優しい姉だけが浮かべる表情だと俺はこの時始めて知る事ができた。

俺の右手にサンドウィッチを持たせる。

「そんなんじゃお腹空くでしょ? 私の食べかけだけど、あげるわ」

まくし立てられて何も言えず、俺の横を通り過ぎて歩いていく千草さんの姿を、振りむいて視界に捉える。

 仲山家で一番最初に会った時の千草さんのあの態度も妹の事を思っての事で、妹想いの優しい姉だという事を会話の中で改めて思い知らされた。

「あ、それと……」

「はい?」

 何か思い出したかのようにこちらへと振り向いて。

「あんた、自分の事を屑とか言ってたけど、そんなことないわ、いい男よ。もっと自信持ちなさい」

 そう言うと千草さんは俺が向かっているのとは反対側の校舎へと消えて行った。

「はぁ……買い被り過ぎだろ」

 千草さんの言葉を理解するのに時間が掛かってしまったが、どうやら俺は仲山姉妹に気に入られる傾向にあるらしい。

 いい男って……そんな事言われたら照れるに決まってる。

 しかも、俺の右手には千草さんの食べ欠けのサンドウィッチ。

「まあ、さすがに捨てるの勿体無いよな」

 教室で千野が待っている事を思い出して、慌てて戻ろうとする。

 千草さんの食べ欠けだと思うと、本当に俺の口に入れていいのか少しだけ迷ってしまったが、折角の貰い物と言う事で美味しく頂くとする。

 あまり気にしない様に食べたつもりだったのだが、体は言う事を聞いてくれず、俺は火照った体で教室への道を急いだ。



 結局俺が戻った頃には昼休みも終盤、という事もあり、俺が見た夢の内容を、簡潔に千野に話した。

「そうだったんだぁ、不思議な夢だったんだね」

「ああ、俺も何が何だか良くわからなかった。何で俺がバッターボックスにたっていたのかなんて……」

 そして俺は嘘を吐く。

「何の事か……さっぱりだったさ!」

「そうだよね! 夢って自分でも理解出来ない、不思議な事ばかりが起こるから、私も訳のわからない夢ばっかり見るよ!」

「だよな~。いや俺もさ、自分が見る夢を自分で決められればなって、いつも思うんだよ」

 自分が見る夢を自分で決めたい。この願望に関しては本当にそう思っている事だった。

 俺の夢はいつまで過去の傷跡を映し続けるのだろう? 自分自身忘れたいとは思っても、心のどこかでは忘れちゃいけない、と脅迫観念みたいなものが働いていて、それが俺の夢として毎晩浮かび上がってくるのだろうか?

「よしっ! それじゃあ……」

 何やら気合いを入れ始めた千野は自分の両手を組み合わせ、何かに祈る様な姿勢になり、目を閉じる。

「優一郎君が、幸せな夢を見られますように……」

 一体何を言っているんだこいつは……といつもなら俺はこう思っているはずなのだが、千野の言葉の意味を呑み込んでふと思う。

 俺の……幸せな夢?

 それって一体、どんな夢なんだろう――?



 翌日の朝、いつも通りの時間に起床し、いつも通りの時間に学校へ行き、いつも通りの時間に席に着く。

 そんなルーチンに堪らず欠伸が漏れてしまう。

 周りを見渡すと、俺以外にもみんな眠たそうにしていて、眼が半開きの奴が多い。朝八時の決して遅いとはいえない時間帯と、今日一日耐えていかなければならない授業の連続が俺達生徒のやる気を根こそぎ削いでいる事は間違いない。

「おはよ! ゆーいちろーくん!」

「ああ、おはよう」

 このクラスでは明らかに少数派であろう、朝にはめっぽう強そうなお方が、わざわざ俺の元へと挨拶に来てくれる。

 千野さん……毎日ご苦労様です。あんまり、無理して来なくていいっすよ?

 心の中で千野の律儀さを労っておく。口にするのは気恥かしい。後、返事をするのがめんどくさい……。

「またかよ、朝からお熱いねー」

「朝からそんなにイチャイチャしないでくださーい」

「だから、違うって」

 クラスの奴らは完全に俺達が付き合っているものだと勘違いしている。しかし最近では徐々に関心が薄れて来ているのか、前までは囃したてる様な声も、今では適当な言葉が飛んでくるだけだ。

 俺としてはあまりいじられ過ぎるのも好きではないので内心ホッとする気分であり、時間は何もかもすべての事象を洗い流してくれる素晴らしいものだと、この時実感した。

 このまま何事もなく三年間過ごして卒業すれば、俺がしでかした事もみんなの記憶から無くなっているんじゃないだろうか? 退屈な毎日を送っていると、そんな短絡的な思考をしてしまう。

 しかし退屈ではあるが千野や達美や桃子が居る分、ボッチと言う訳でもない。クラスメイトだって話してみれば面白い連中ばかりだ。

 部活をしていない俺にとっての日常は、それだけで十分なのかもしれないな。

 周りの席から飛んでくる声に「んー?」と首を傾げ、未だに自分がこのクラスでどんな立場に置かれているのか全く理解していない千野は何かを思い出したかのように話題を振ってきた。

「そういえばねっ! 朝教室に来る途中に先生たちが話しているの聞いたんだけど、今日私達のクラスに転校生が来るらしいよ!」

「転校生?」

「うんっ! どんな人なのか全然わからないんだけど、私達のクラスに来るんだって」

 俺達はまだ高校一年で、しかも夏休み直前だ。転入するなら普通二学期とかに来るもんなんじゃないのか?

「まあ、何でもいいや、お前と友達になってくれるといいな」

「うん! そうだね! 優一郎君みたいに親切な人だといいな~」

 俺はそんなに親切なんだろうか。自分自身、大層捻くれた奴だとしか思ってからそういう風に言われるとまるで、他の誰かの事を言ってるみたいに聞こえてくる。

 両の手を合わせ、期待に溢れた笑顔で転校生の顔を想像している千野を眺めていると教室前方の扉が開き、疲れた声で先生が入ってくる。

「……はい、今日も~ホームルーム始めるぞ~」

 朝っぱらからそんなにダウナーの入った顔を見せないでくれ、俺も朝は弱い方なので人の事言えないんだが。

「はぁ……とりあえず転校生がいるんで紹介します」

 なんだそのめんどくさそうな態度。転校生になんか恨みでもあるのか? どっちにしてもこっちまで気分が暗くなってくるからやめてくれ。

「入ってきて~」

 先生は俺達に転校生が居る事を簡単に説明し終え、教室前方の扉に向かってその向こうにいるのであろう、転校生に向かって呼びかけた。

 転校生が教室内に足を踏み入れて来たのだが、俺は未だに頭が冴えず、このまま眠ってしまおうかとでも言う勢いで瞼を閉じる。

「わ、かわいい」

 ん? かわいい? という事は女なのか? しかし、何故女子が可愛いと言う?

 可愛いと言う単語に少しだけ興味を惹かれる、まあ俺も男だ、もしかしたら絶世の美女という可能性もあるわけで、このチャンスを逃したらもう一生見れないかもしれない!

 まあ転校生なんだからこれから三年間同じ学園なわけで、しかも一年は同じクラスだ。嫌というほど顔を拝める機会はあるだろう。

 まあとりあえず一目見たら寝よう。

 俺が目を開けると、扉を開けた転校生が教壇の方へと向かって歩いている姿が映った。

「――っ!」

 それと同時に、俺は思わず腰を上げてしまった。眠気を模様していた俺の頭は一気に冴え渡り、心臓の鼓動が最高潮に跳ね上がる。

「う、嘘だろ……」

「お、おい? どうした三浦?」

 隣の席の松藤が声を掛けてくれたみたいだが、俺はその言葉が耳に入っただけで言葉の意味を理解する事が出来なかった。

 目の前に映る転校生が俺には衝撃的すぎたのだ。

 転校生は男。女子の様に背が小さく、顔も本当に男なのかどうかというくらいに童顔で、見るからに優しそうな笑みを浮かべている。その姿を見て女子は可愛いと表現したのだろう。

 転校生は俺達の方へと向き直り、その童顔に幼さを更に引き立てる微笑を披露した。

「こいつが転校生の都浪だ、仲良くしてやれよ」

 先生が転校生を紹介すると、都浪と紹介された男子は口を開く。

「都浪鷹介です。となみではなく、つなみと読みます。僕は気が弱い方で皆さんに迷惑を掛けるかも知れませんが、よろしくお願いします」

「都浪……だと?」

 忘れ去りたい記憶が一気に蘇ってくる。一目見た瞬間はただの人違いなのだとそう思い込みたかったのだが、名前を教えられ確信する。

「頼むから、夢の中に居るんならどうか覚めてくれ……」

 戦慄した脳が目の前の現実から逃げだそうと脱出口を探す。

「何か都浪に質問は?」

 誰かを紹介する時の常套句を先生が述べる。

「はーい! 彼女はいるんですかー?」

 まるで小学生かとでも言う様な質問だが俺の耳には言葉としてでしか届いてこない。

「そうですねぇ……恋人ではないですが、気になっている人はいますよ」

 質問に対し、一瞬の悩み顔を見せ、想い人が居る事を断言する転校生。

 その想い人の名をその場で打ち明けた。

「僕はそこに立っている三浦君を追いかけて来ました。彼の為に転校してきたんです」

 転校生の双眸がこちらを向き、教室中がどよめく。

 何も言う事が出来ない。

 一言も発する事ができない。

 未だに目の前の光景が理解出来ず、ただ転校生の顔を見ながら立ちつくしていた俺は、先生にとりあえず座りなさいと注意されるまで、そいつのにやけ顔から眼を離す事が出来なかった。


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