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醜い逃走

 都浪の自己紹介が終わった後、すぐに一時限目の授業が始まった。都浪は廊下側一番後ろの席を指定され、何食わぬ顔で授業を受けている。自己紹介の時にクラス中をどよめかせた事をさほど大したことではないと思っているのだろう。

 クラスの連中はというと……。

「おい、もしかしてさ……三浦の彼氏とか?」

「え? うそ! 三浦君ってそっちの人!?」

「でも三浦には仲山が居るだろ? いや……これはもしかして、テレビとかで良くありがちな……修羅場ってやつじゃないのか!」

 授業中であると言うのにクラスの奴らが都浪の発言についてヒソヒソと考察を繰り広げていて、それでも自分は全くの無関係だと主張しているかのように都浪は授業に没頭している。

 俺も周りの声がはっきりと聞き取れるくらいには冷静になってきた。都浪が現れた時は目の前の現実が信じられずに錯乱してしまったが、それでも今俺の視界には都浪が居るわけで、俺が何をしようと都浪を追い出す事なんて出来るはずが無い。

 自己紹介の時は俺に会いに来たなんて言っていたけど、俺からしてみればクラスの奴らみたいに楽観的になれるはずもなく、あの言葉からあいつの目的を導き出せるとしたら一つしかなかった。

 ――あいつは俺に復讐しに来た。

 違うか? 都浪……。

 都浪を睥睨しながら心の中で問いかけた。

 都浪がここに来た理由についてを考えるだけで一時限目の授業が終わった。授業の終わりを告げるチャイムの音が聞えてきたが、その音も今の俺には何の意味も為さず、俺の視線は都浪の方へと釘付けになっていた。

 先生が授業を終わらせ教室から出て行く。ドアを閉める音と共に教室を張り巡らせていた緊張感が解け、休み時間の気の抜けた空気に変わるが――。

「あいつは一体……どういうつもりで……」

 俺は別の意味で授業中はずっと緊張していたわけであり、当分はこの都浪に対する緊張感が取れない様な気がする。

「ねえねえ、優一郎君」

 授業が終わり、何人かのクラスメイト達に囲まれている都浪に向けていた意識が、俺に話しかけてきた千野へと移る。

「もしかして都浪君と知り合いなの?」

 俺が都浪の自己紹介の時に驚き、立ちあがったのに気付いたのだろう……というか多分、クラスのみんなが気付いているはずだ。

「知り合いって程でもないんだが、ちょっと前にな」

「そうなんだぁ、友達だったの?」

「いや、そんなに親しい間柄じゃないんだよ」

 都浪とは友達なんかじゃ全くない。そもそも同じ学校だったわけでもないし、まともに喋った事すら無い。

 しかしあいつの事は忘れられる筈もない。それほど都浪という男が俺の記憶に刻み込まれている。

 特にあの時の――人を見下したような笑みが。

「そんな事言わないでよ、三浦君」

「――っ!」

 俺と千野が向き合って話している最中に、横から突然都浪が会話に加わってきた。

「僕達仲の良い友達だったよね? 一緒に野球するくらいさ」

「……都浪、どうしてここに来たんだ?」

「どうして? ははっ! さっき自己紹介で言ったよね。僕は君に会いに来たんだよ」

 絶対に嘘だ。

 会いに来たと言うのはあながち間違ってはいないのかもしれないけど、都浪から漂う雰囲気には嘘が纏わりついている。

 こいつはやっぱり……。

「そうか、じゃあ都浪。俺はお前に言っておかなきゃいけない事がある。昼休みに話そう」

「……いいよ? 僕も君とじっくり話がしたいって思ってたんだ」

「ゆ、優一郎くん……」

 俺の誘いをにやけ顔で快諾した都浪は自分の席へと戻って行く。千野が心配そうな目で見つめてきているのは気付いていたが、千野に構っていられる余裕が、今の俺にはなかった。



 昼休み、屋上前の階段。食事もせず都浪をこの場所に呼び出した。立ち入り禁止になっている為、屋上へと繋がる扉は鍵が掛けられているが、その手前にある階段には人が寄り着かない。屋上には行けないのだから誰も来ないのは当然なのだろう。

「ねえ、別にこんな人気のない所じゃなくても僕は構わないんだけどさぁ、三浦君?」

 教室での都浪とはうって変わって敵意丸出しの都浪が、まるで旧友に会えたかの様に楽しげな笑みを向けてきた。童顔である都浪がつくるその表情は、笑っているのに不気味さしか感じられない程、暗い闇が潜んでいるように見える。

 やはりこいつがこの学校に来た理由は一つしかない。

「都浪……お前は復讐しに来たのか?」

「復讐? あっはは! 何言ってるの? 三浦君」

 都浪の顔色を窺いながら慎重に問いかけると、都浪はツボに入ったかのように笑い飛ばした。

 都浪は俺に会いに来たんじゃないのか? 

 その馬鹿にされた様な笑いに俺は少しだけホッとして緊張の糸を緩めた。

「何当たり前な事を言ってるの? それ以外に何があるんだよ」

 朗らかな笑みを一瞬にして消し去り、冷たい眼光で俺を睨みつけてくる都浪。その双眸から鋭い殺気を感じ、気を抜いていた俺は一歩後ずさる。都浪は何も行動を起こしていない筈なのに、胸の辺りをど突かれてしまったかのように体が揺れた。

 やっぱりこいつはまだ俺の事を恨んでいたんだ……。

「都浪……悪かった」

「あ?」

「すまなかったっ!」

 俺は腰を折って頭を下げた。謝罪の言葉を口にした瞬間、申し訳なさがみるみる込み上げてきて頭を下げずにはいられなかった。

 都浪に言わなければいけなかった事――つまり謝罪だ。

「俺はあの試合で取り返しのつかない事をしてしまった……お前に恨まれるのは当たり前だ。だから……すまなかった」

 そうだ。俺が悪いんだ。

 俺が都浪の野球人生を狂わせてしまったんだ。



 中学時代、野球部に所属していた俺はエースという肩書を背負い、自分で言うのも気が引けるが、チームの柱とも言える存在だった。

 中学で百四十キロ近い球を投げられた俺は、他の中学の野球部から脚光を浴び、呼び声高い県ナンバーワンピッチャーの座に居座り続けていた。中学三年に進級した時から既に、全国各地の野球名門校から声を掛けられていた事もあって、毎年甲子園へと足を運んでいる名門校への進学もほぼ確定事項であった。

 しかし、そんな俺と肩を並べるほどの豪腕投手が同じ地区にもう一人――。

 名前は都浪鷹介。

 見た目は小柄な体躯をしており、投手としては体つきに恵まれていない様に見えるのだが、どこからそんな力が出てくるのかと不思議に思えるくらい鋭い球筋、バッターが仰け反る位の豪速球を投げる投手である。

 都浪も将来を有望されていた選手であり、県外の甲子園常連校への進学が決まったいたと噂されていた。

 そんな俺達が全国への切符を掛けて挑んだ県大会決勝。

 その大会以降、俺達二人の名前はその地区の野球界から完全に消え去ってしまった。



 県大会決勝。

 試合が始まる前の緊張感は俺にとって好調になれる合図であり、特に決勝戦といういつもより特別な場は試合会場全体をその緊張感が包みこんでいて、これ以上ないくらいのベストコンディションであった。

 しかも今まで散々鎬を削り合って来た程、勝負を付けたい相手であって、胸の鼓動が早く試合を始めてくれと急かしてくる。

 都浪を要する相手チームは県内でも有数の強豪校。都浪のワンマンチームと言うわけでもないが、都浪の存在はいつの試合でも状況を好転させてしまう。

 試合に勝ちたい衝動と、都浪に勝って更に上へと行きたい野心がせめぎ合いながら心の奥底から湧き上がってくる。

 高鳴る鼓動を抑えつけながら、俺と俺のチームは控えベンチからグラウンドへと飛び出して行った。



 互いの力が均衡した試合は終盤に差しかかり――八回表、相手チームの攻撃。

 スコアボードには未だにゼロの数字しか並んでいない。ここまで一人のランナーも出していない俺と都浪はバッターの打撃をことごとく抑え込んでいた。

 しかし前半に張り切り過ぎていた為か、ここまでくると疲れで制球が乱れる。

 くそっ……ボールが思う所にいってくれない。

 相手チーム一人目の打者――フォアボール。

 二人目――フォアボール。

 息が上がって集中力も途切れてしまい、狙いが全く定まらない。流れ落ちて来る汗が目に入って鬱陶しく思えてくる。

 しかし得点圏内にランナーを出してしまったからには次は絶対に抑えておかなければならない。

 額から滴り落ちてくる汗を拭い、バッターボックスを見るとそこには都浪の姿が映っていた。

 都浪はエースであるが、強打者でもある。前の試合まで打点をほとんど上げていたのがあいつだ。ここぞという時の勝負強さに定評がある。

 そんな都浪を確実に打ち取れる自信が体力の尽き果てた今の俺にはなかった。

 おそらくこの試合、先に点を取った方が勝つだろう。ここまでの球数も少なく、ペース配分を考えているであろう都浪は未だ疲れている様子はない。そんな都浪を攻略できる打者はこのチームにはいない……。

 一体どうすれば勝てる?

 必死の思いで考えを巡らせていると、バットを構えていた都浪がこちらを見据え。

 ――にやりと笑った。

 その表情を見た瞬間背筋が凍りついた。俺の体力が尽きかけている事が都浪には完全にばれている。あいつはここで勝負をかけて来るつもりだ。

 どれだけ速い速球を投げても、どれだけ鋭い変化球を投げても、打たれてしまう……。

 都浪のあの自信に満ちた表情は、俺の自信を奪い取っていた。

 駄目だ……ここで終わりなのか……。

 絶望の淵に立たされていた俺はキャッチャー――山藤の構えるミットを見る。山藤も都浪の実力を十分に知っている為、甘いコースは命取りだと感じているのだろう。

 山藤は内角の高い位置、都浪の胸元にミットを構えていた。

 馬鹿野郎……今の俺の体力でそんな際どいところに投げられるわけが――。

 そのミットを見た瞬間、悪魔の閃きが俺の頭を過ぎった。

 打者の胸元を抉るインコース……体力が底を尽きかけている俺が狙うにはリスクの高すぎるコースだ。かといって都浪ほどの打者ともなればそれだけのコースでなければ打ち取れない。

 インコースを狙っても不自然ではないタイミング……。

勝つには……これしかない!

 体力のない俺でも狙える……打者――都浪の小さな体。

 あいつを……この試合から引きずり降ろしてやる!

 そのコースを投げると決めてしまった時点で俺は野球選手として……いや、スポーツマンとして外れた道を走ってしまったのだろう。

 勝利への執念に身を任せ、思い切り腕を振る。

 俺が全力で投げた――おそらく百四十キロ近いストレートは。

 ――都浪の頭を目掛けて一直線に飛んでいった。



「まさか狙われるなんて思わなかったよ、君のあの時のボールは僕もさすがに投げられない……それ位の球速はあった。そんな球が指に当たったら骨が砕け散るに決まってるだろ?」

 あの時俺が投げた球は都浪に当たりデッドボール。咄嗟に頭を庇った都浪はバットを持つ手に球が直撃し、吹き飛ばされる様に倒れ込んだ。

 デッドボールを受けた都浪は、そのまま病院へと向かって行った。ボールを投げた俺はその後も投げ続けたのだが……。

「その後の展開は僕も見たかったなぁ、いくら投げてもストライクに入らないどころかキャッチャーも取れないくらい暴投連発だったらしいじゃないか! もしかして自分がやった事に罪悪感でも生まれちゃったのかなぁ?」

 都浪の言う通りデッドボールの直後、俺はまともに投げられなくなってしまった。自分の思い描いていた場面が今目の前に完成しているというのに、試合会場から出て行く都浪を目の当たりにして……。

 頭の中が罪悪感で満ち溢れてしまった。

 下げていた頭を上げ、視界に入った都浪の顔は侮蔑する様に俺の事を笑っている。

「俺もあの時は必死だった。あのままだといつまでたっても試合が終わらない気がしてきて焦った。勝つためにはどうすればいいのか考えた結果があれだったんだ!……俺は最低だよ」

「はっ! 後悔するくらいならやるなよ……しかも試合は僕達の勝ちだった。君は本当に愚かな選択をしたよね」

 結局暴投で二人のランナーを出し、相手に二点を献上してしまった所で監督が様子がおかしいと思ったのか、俺は交代を告げられベンチへと下がる事になった。満塁となった状況を俺の後に登板した控えピッチャーが抑える事が出来ず、一気に四点を奪われた。その後の九回裏で一点しか奪い返せずに試合は終了。

俺達中学最後の試合は、最悪の形で幕を閉じてしまった。

「試合に勝った報告を聞いた僕は心底嬉しかったよ。県ナンバーワンピッチャーの三浦優一郎に最後の最後で勝つ事が出来た。僕は途中で病院送りにされたけど、それでも僕は嬉しかった」

 都浪は右手の掌を満ち足りた様な優しい目で見つめていた。

「だからその時は君にボールをぶつけられた事なんて完全に忘れていたよ。僕の中学野球は君に勝った事で何も思い残すことはなかったんだ、指なんてすぐに治して、また高校で上を目指す……。僕の目標はすぐに切り替わっていた」

「そ、それなら――」

「でもね……」

 しかし、その顔が怒りで埋め尽くされ、緩く開いていた手は拳を握る。

「治ってからが問題だったんだよ」

「……? どういう事だ?」

 治ってからが問題? 指が治ったなら野球が出来る筈だ。多少のリハビリみたいなものは必要かもしれないが、選手生命に関わる様な事でもない。

「バットが振れなくなったんだよ」

「バットが振れなくなった? 一体何が――っがはっ!」

 俺が喋っていた途中、都浪が握った右手の拳が俺の頬を打ち抜いた。

「今の僕の拳を、もう一回食らいたいと君は思うかい?」

 俺は吹き飛ばされ、段々と左頬に痛みが集中する。一瞬何が起きたのかさっぱり分からなかったが、左頬の鈍い痛みで都浪に殴られた事を理解する。

「っはあっ……。思うわけないだろ」

 壁に自分の体をもたれさせ都浪を見上げると、その顔は笑っていた。あの時の報復を今実現出来ている事に喜びを感じているのだろうか?

「そうだろう……なっ!」

「――っく!」

 もう一度拳を振り上げた都浪。その姿を見て俺は反射的に両腕で顔を覆う。

 また殴られる――っ!

「……」

 ……何も……こない?

「……つまりそういう事なんだよ」

 都浪が何か喋ったのが聞こえ、力強く瞑っていた目をゆっくりと開いていくと、腕を降ろし、蔑むような冷たい目で俺の事を見降ろしていた。

「指を完治させて臨んだ練習試合。軽いリハビリのつもりで打席に立ったんだ。そしたらどうだい……?」

 都浪は左手で顔を覆う。その手の指の隙間から自虐的な笑みが見えた。

「ピッチャーの投げる球がさぁ、全部自分に向かってくるように見えるんだよ……当たるわけなんてないのに……それでも僕の頭めがけて飛んでくるように見えて……バットが振れないんだ」

「バットが、振れない?」

「そうだよ……あの時のお前の球が頭に焼き付いて離れないんだ。ピッチャーの投げる球が……怖いんだよっ!」

 都浪の笑みは徐々に消えていき、やがて悔しさを滲ませた表情になった。

「そ……そんな……」

 俺はようやく自分のしでかした事の重大性を本当の意味で理解した。

 都浪はバットを振れなくなった。それはつまり――野球の試合に出られない事を意味する。投手が球を投げる度にビビって腰が引けてしまうバッターが打席に立てる訳がない。都浪は投手だからプロみたくDH制でもあれば話は別だが、高校野球にそんなものは存在しない。

 ろくに守れない選手が試合に出させて貰えない様に、ろくに打てない選手が試合に出させて

くれる事も、またないのだ。

 甲子園常連校への進学が決まっていた都浪。こいつが今、野球を辞めた俺と一緒の学校にいるのは、決まっていた内定が取り消しになったからなのだろう。

 俺が……俺があの時あんな球を投げなければ……。

 俺のせいだ……。

「……はは……あっはははははっ!」

 突然都浪は笑いだした。俺の顔を見て何か面白い事でも起きたかの様に腹を抱える。

「ふぅ……ごめんごめん、君の顔がさぁ、あの時の顔とそっくりでつい笑っちゃったよ。俺が打席に立った時の絶望した表情……その顔が見れただけでもこの学校に転校してきた甲斐があ

ったかな?」

  ……俺の顔? 俺の顔は一体どんな表情をしているんだ? あの時の顔とそっくりって?

 自分の顔に手を当てると、まず感じたのは顔中が冷や汗でびっしょりになっているという事、そして自分の頬が痙攣しているかのようにひくついていた。

 今の俺の心境は、あの時の――都浪に逆転を許してしまうと怯えていた――心境によく似ている。

 そうか……今の俺はあの時の俺と同じ……何も変わっちゃいないんだ。

俺はいつまでも屑のまま……。

 この学校に転校してきて杜撰な生活を送ってはいるが、それでも心のどこかではいつかあの時の事を忘れられる時がくるんじゃないかと、そんな淡い期待をしていた。

 でもそれは無理だったんだ。何せ事の発端は俺だ……俺が元凶なんだ。

 例えどんな場所にいたところで、例えどれだけ時間が経ったところで、例えどんなに楽しい時を過ごしていたところで――。

 この記憶はいつまでも……俺に纏わりついてくるんだ……。 

 都浪を見上げていた視線を下へと落とす。急激に俺の体に脱力感が襲ってきて何もする気が起きず、ただ地面だけを見ていたい――そんな気分だった。

 都浪との間に一時の沈黙が流れる。未だ項垂れたままの俺の耳にチャイムの音が聞えてきた。

「――っと、昼休み終わっちゃうね。あの時の借りはさっきの一発でチャラにしておいてあげるよ。――それでいいよね?」

 項垂れた俺の頭上から陽気な声が聞こえてくるが、その声に言葉を返す事が出来ず、ただ下を向いたまま地面を見つめていた。

「君はまだ野球が出来るのに、どうしてこんなところに居るのか理解出来なかったけど、この学校に居るって知って追いかけさせてもらった。君に復讐……一発ぶん殴ってやりたいって思ってこの学校に来たのは本当だからね。 ……でもそれももう終わっちゃった」

 都浪の声が聞こえなくなる。それと同時にゆっくりとしたテンポで都浪が階段を下っていく足音が俺の周りで響き渡る。

「これから僕は……何をしていけばいいんだろうね?」

 その言葉を残し、階段を下りていく都浪の足音がゆっくりと遠ざかっていった。



 授業が終わるチャイムが鳴り響く。都浪が教室へと帰っていった後も地面に座り込んでいた俺は何もやる気が起きず、五時限目が終了した今も依然として背を壁にもたれさせ座り込んでいた。

「今日はもう駄目だ……帰ろう……」

 重い腰をようやく上げ、目の前にある階段を下っていく。

 ずっとここに座り込んでいたところで誰かが助けてくれるわけじゃない。この場所に俺は一人きりだ。自分が行動しなければ何も始まらない。

 でも今日はもう授業を受けられる気がしない。今の俺の頭の中は自責の念がほとんどを占めていて、授業の内容なんて多分、耳には響いても頭には届かない。

 鉄球の様に重い肩をがっくりと落とし、陰鬱な気持ちを心の中に残したまま、自分の教室へと向かって行く。

 自分の教室の廊下まで辿り着くと、授業が終わった事を廊下から確認し、教室の扉を開いた。

「あっ、優一郎君! さっきの授業居なかったよね? どこか具合悪いの? 顔色もゾンビみたいだよ?」

 俺と視線を合わせ一瞬で俺の前に飛んできた千野。

 誰がゾンビだ! ――といつもなら千野の天然ギャグに突っ込んでいるところなのだが今はそんな気も起きず、さらっとその場を流す。

「いや……なんでも無いんだ。別に千野が心配する事じゃない。でも今日はちょっと調子悪いから帰るよ」

 千野にそう説明すると、あまり納得がいかない様な不満そうな顔をしてくる。

「なんでもないのに帰っちゃうの? やっぱり調子悪いんじゃないのかな?」

「あ……ああ、いやそうなんだ。ちょっと食欲も湧かなくて昼も抜いてるんだ、だから今日は帰って寝とくよ。心配掛けたな」

 そう言って大げさに気遣ってくる千野を躱すとさっさと鞄を取って教室の扉へと向かおうとした。

「ちゃんとゆっくり寝てなきゃ駄目だからね! それじゃ気を付けてね?」

「ああ……それじゃ……また」

 俺はいつもの調子で千野と喋れていただろうか? 自分でも言葉の端々に不自然さがあったと自覚していた。

 そんな不安を胸に抱えつつ、教室を出て行こうとすると……。

「そうだ、改めて言っておくよ。これからもよろしくね、三浦君」

 俺が出て行こうとする扉の前に立っていた都浪が俺の耳に囁いてきた。耳を塞ぎたい気持ちになったが、千野やクラスメイト達がいる中でそんな事が出来る筈も無く、逃げる様にその場から走った。

 卒業まであいつと同じ学校という事は、毎回顔を合わせる度にあの試合の事を俺は思い出してしまうのだろう。

 そんな鬱屈した学校生活を想像してしまい、段々と重くなっていく足をなんとか動かしながら学校を後にする。

 あの日と同じ様に照りつけてくる夏の太陽があの日の俺を照らし曝け出している様で、もうやめてくれと心の中で叫びながら出来るだけ涼しい影の道を選んで自分の部屋へと帰っていった。


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