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心の中の暗闇

「はあ、なんて穏やかな日なんだろう」

 授業の終わりを告げるチャイムが学校中に響き渡り、昼休みが始まる。

 腹が減ったと購買に走っていく奴、仲のいい友達と話し始める奴、終わった授業のノートまとめを未だにやめない奴。

 そんな自由な行動が認められる時間の中で俺もその時間を有効に使おうと意気込む。

「よし! 寝るか!」

 外は快晴で、窓際である俺の席には夏を匂わせる太陽の日差しを涼しい風が見事中和していて、ただでさえ居眠りの俺に睡魔を襲わせてくる。

 こんな日には寝なきゃ損だ。

 昼飯にありつこうともせず机に突っ伏し、後はただ睡魔に身を委ねるだけだと自分に言い聞かせ、意識を闇の中へと沈めようとすると――。

「ゆーいちろーくーん!」

 教室中に響き渡るくらいのバカでかい声で俺の名前を呼ぶ奴がいた。

「あれ? 優一郎君? 寝ちゃったの?」

 そうだ寝てる事にしよう。俺は寝てるので起こさないでください。

「ねえねえ! 起きてよ! ゆーいちろーくーん! ゆーいちろーくーん!」

「……すまん。悪かったからそんなに俺の名前を連呼するのは止めてくれ」

 千野のあまりのうるささに意地を張るのが面倒になってきた。それに下の名前を連呼された所為で周りのクラスメイト達がこちらを見てひそひそと囁き合っている。

「ねえ、名前で呼び合ってるけどあの二人って付き合ってんの?」

「え? マジで? 以外と三浦って手出すのはえーんだな」

 クラスメイト達の囁き合っている内容が俺の耳にも微かに聞こえてくる。頼むからせめて俺に聞こえない様に言ってほしい。

「ご、ごめんね……。えっと、今日はお弁当作ってきたんだ」

 と、俺の名前を連呼した事を謝りつつ、俺の机の上に弁当箱を置いてきた。

「あぁそうなのか、味わって食べろよー。それじゃ俺は寝るから」

 俺は再び机に突っ伏す。

「私が食べるんじゃなくて! これは優一郎君に作ってきたんだよ」

「は!?」

 思わず突っ伏していた体を起こし、千野の顔を凝視する。千野はニコニコしていて、俺が弁当を食べてくれるのを待ち望んでいるかのよう。

 千野の発言の後、教室中が揺れた。

「おいおい! まだ入学して数カ月ってのに愛妻弁当かよ!? 三浦の奴やるじゃねえか!」

「もしかしたら中学の頃から付き合ってたんじゃないの? いいわねぇ~」

 俺のクラスメイト達はとうとう囁く事をやめてしまい、逆に遠慮することも無く、女子たちの黄色い声、男子達の野太い声が、教室中に激しく響く。

「チャーハン弁当作ってきたんだよ! この前は一緒にネギチャーハン作ったから今日は他の味も食べてもらいたくって。えへへ」

 えへへじゃねえ……。お前にはこの喧騒が聞こえんのか?

「ちょっといいから! こっち来てくれ」

「う、うん!」

 騒ぎが一時的に肥大化しすぎて、このままじゃ寝るどころか教室にいるだけで恥ずかしい。とりあえず教室から出よう。

 自分の席から立ち上がり、千野の手を咄嗟に引っ張って教室から出ていく。多少早歩きになっているが千野もなんとか着いて来てくれている。教室から出る途中、騒ぎが一段とうるさくなっていた気もするが、とりあえず教室からは距離を置く事にしよう。



 俺達二人はとりあえず外に出て、グラウンドが見渡せるベンチに二人並んで腰かけた。昼休みはグラウンドに出ている生徒も居ないので、意外と人目につかなさそうだ。

「おい……もしかしてわざとやってるのか」

「へ? 何のこと?」

 俺が遠まわし気味に聞いてみても千野には身に覚えがないようである。

「前も言ったかもしれないけど俺達は友達なんだよ。男と女が気軽に名前で呼び合って、しかも女が男の為に弁当作ってくるとか、そりゃカップルのする事だって」

「そ、そうなの? ごめん、私やっぱりまだ友達との距離感みたいなのがまだよくわかってないんだ……」

 まあ最近までは本だけが友達だった――みたいな奴が友達付き合いがわからないのも仕方ないのかもしれないが。

「別に名前で呼んでくれる事は構わない。だけどちょっとの事で反応するほど敏感でうるさくなる奴がいるから。だからせめて大声で呼ぶのは避けてほしい」

 出来るだけ説教じみた雰囲気にならない様、こちらから頼み込む形で言う。

「うん……ごめん。そうするね。でもよかったぁ、もしかしたら俺との友達をやめてくれないか? なんて言われるかと思ったからすこし緊張したよ……」

「友達をやめてくれないかって……。そんな言い方聞いたことねぇよ」

 とは言うものの千野は本当に緊張していたらしく、さっきの言葉の最後の方は僅かに声が震えており、自分の膝の上に置いている両手は握りこぶしをつくって震えていた。

 なんだか空気を悪くしてしまったようだ。はっきりと言い過ぎてしまったのだろうか? 何はともあれせっかく彼女がお弁当をつくってきてくれたみたいだし、この淀んだ空気を変えるためにここは一つ……。

「なあ、よかったら弁当食わせてくれないか?」

「え、う、うん……。どうぞ?」

 偉そうに弁舌を振るっていた俺が言うのはおこがましいのかもしれないが、確かに腹は減っている。昼飯は十分に睡眠を取った後、購買で買って食べるつもりだったのだが……。

 折角だしもらっておこう。

 千野の両の掌に乗っかっているその弁当を受け取って、蓋を開けた。

「おお、これは高菜……チャーハンか?」

「せ、正解です! 優一郎君が良く食べるコンビニのおにぎりで、高菜おにぎりが結構多かったのでチャーハンにしてみました!」

 メールでよく晩飯で何を食べたか聞かれていたからな。まあ高菜は好きだし、それを弁当として、しかもチャーハンにして作ってきてくれるのは非常に嬉しい。

「うん、美味いな。高菜の塩っけがきいてて食が進む」

「家に高菜漬けあったから作ってみたんだ。お父さんが大好きだからいつでも食べられる様に、ってお母さんがいつも漬けてるんだよ。喜んでくれて嬉しいです」

 俺の感想に千野も安堵の笑みを浮かべる。どうやらさっきまでの重い空気もどこかに飛んでいってしまったらしい。

 それに実際、美味しく弁当を頂いた。いつもは購買のパンを頬張ってるから、いつもと違う昼食が取れて千野には感謝している。

 他の美味そうなおかずも綺麗に平らげ、弁当をすっからかんにしてしまった。

「ごちそうさま。サンキュな、これ洗って返すから」

 俺の隣で千野も自分の弁当を食べていて、俺の食いっぷりをチラチラと見ていた。

「いえいえどういたしまして。気に入ってくれたのならまた作ってくるから!」

 と、また俺に弁当を作ってくれるらしいのだが……。

「ま、まあ、また今度頼むよ」

 今回と同じパターンにならない事だけを祈りながら、食後の満腹感に浸って、誰もいないグラウンドを眺めていた。



 千野も昼食を食べ終わり、一緒に帰ると面倒そうだから別々に戻ろうという事になった。先に帰るよう千野に言おうとすると――。

「あれ? これ何かな?」

 千野の足元に一枚の紙が飛んできた。千野はその紙を拾い、俺にも見えるように体を寄せてくる。

 ……ちょっと近い。

 いろいろと思う所はあるが、とりあえず千野が手にしている紙を見てみる。

「ん? 答案用紙か。名前は……丘野達美。C組だったら隣のクラスだな」

 テストの答案用紙なので勿論クラスと名前が書いてある。とりあえずどこの、誰の物かはわかったのでわざわざ探す必要もないのだが。

「さ、三十一点……?。赤点ぎりぎりじゃないか」

 この前のテストか。そこまで難しい問題も出なかったはずだがな。あまり勉強してない俺でさえ八十点くらいだった。

 いつも純度の高い笑顔を振り撒いている千野でさえ、苦笑いを隠しきれないでいる。

「た、多分調子悪かったんだよ! ほら、風邪とか引いてて集中できなかったとか、ホントは頭いいんだよ!」

「たかがテストで集中できないくらいの風邪引いてるのに学校に来る奴なんているのか? 俺だったら諦めて追試受けるけどな。相当意地の強い奴なのかもしれないけど」

 まだ一年だし例え成績が悪くても挽回するチャンスくらいあるだろう。次でいい点数をとればその成績向上が先生たちの高評価に繋がるかもしれないしな。

 その答案用紙を見ながら勝手に丘野達美の人物像を想像し合っていると、俺達の座っているベンチの後ろから誰かが走る様な足音が近づいてきた。

「はあっはあっ、ね、ねえ! この辺になにか飛んでこなかった?」

「あっ、はいっ! これじゃないですか?」

 息を切らせて走ってきた女子に千野が丁寧に答案用紙を差し出す。

「あ! これこれ! はぁ……よかったぁ。さすがにこんな点数の答案用紙、誰にも見せらんないよー」

「はいっ! よかったですね丘野さん!」

「……なんで私の名前を?」

 こいつはホントにバカ野郎だな……。誰にも見せられないってわざわざ言ってくれてるのに、なんで点数の隣に書いてある名前を言っちまうんだよ……。

 俺達に見られた事にショックを受けているみたいなので、とりあえずフォローしてやるか。

 完全に固まっている丘野達美であろうそいつの肩に手を乗せる。

「お前にはまだ次があるだろ! あきらめんなっ!」

「う、うわぁぁん! 見られちゃったよぉ……」

 気合いの入った俺の励ましもむなしく空を切り、丘野達美はその場にな気崩れてしまった。少しは反応してくれ……。



「ぐすん」

 丘野は答案用紙を俺達に見られてしまったのが相当ショックだったらしく、落ち込んでしまい、とりあえずベンチに座らせることにした。

「大丈夫ですよ! 決して誰にも話しません! だから安心してください」

 丘野の隣に座る千野ががっくりと肩を落としている丘野に励ましの言葉を乱れ打つ。ちなみに俺は二人の前で、成り行きを見守りながら立っていた。

「ホント? うん、ありがと。まあ、私があんな点数取っちゃうのがそもそも悪いんだし、バカにされても文句言えないのよね」

 たはは、と彼女自身、自分の馬鹿さ加減を自覚しているようで、苦笑いを浮かべながら頭を掻く振りをする。意外とすんなり立ち直ったな。

 しかし千野の励ましもあったお陰か、口調もさっきまでのどんよりとした低いトーンではなく、普段の丘野が発しているであろう、軽快な口調に変化していた。

「でもそこまで難しい問題でも無かったぞ? そんなに勉強苦手なのか?」

「うーん、というより全然授業とか聞いてなかったわね~、部活で疲れていつも寝てるし、テスト勉強もほとんど自主練に当ててたから」

 達美は女子バスケ部に入ってるらしい、確かに俺達は一年なので部活に入ってる奴らは勉強どころじゃないかもしれないが。

「なんだよ、最初からやる気なかったんなら別に点数悪くても気にしなくてよくないか?」

 まあ大抵クラスの平均を落とすのは全く勉強をしてない奴だ。勉強が苦手と言うわけではなく、そもそも勉強をしないからで、テストで良い点数が取れないのは当たり前だ。

「うん、確かに勉強するのはどっちかって言うとあんまりやりたくないし、勉強する暇があったらバスケしてたいんだけど、けどさすがに赤点ギリギリの点数しか取れないと落ち込んじゃってね。この点数見たときはぞっとしたわよ……」

 要するに自分はもっと出来るって思い込んでたわけか。テストは自分の学力を明確に示してくれる機会でもあるが、それを自分がどう捉えるかは人による。俺は特に何とも思ってないが。

「じゃあ今度一緒に勉強しませんか!」

「え、教えてくれるの?」

 と、ここで千野から思わぬ提案。

「そうだね……確かに誰かに教えてもらった方が捗るかも」

「うん! 結構勉強は得意なので。私がわかる範囲であれば教えてあげますよ?」

 その面倒くさそうな提案に以外と好反応を示す丘野。根っからの勉強嫌いというわけでもないみたいだ。ちなみに千野は今回のテストで学年上位に入っていたらしい。

「私もこの学校入って結構友達出来たんだけどさ、一緒に勉強してくれる子ってあんまり居ないのよね、その割にみんないい点取るし、良かったらお願い!」

 両手を合わせ、千野を崇めるように頼み込む。

「はい、喜んで! 私と優一郎君が謹んでお受けいたします!」

「あれ? 俺も入ってたのか? まあ構わないが」

 いつの間にか俺も勉強会のメンバーに加わっていた。いつやるのか細かい日程は決めていないが、どうせやる事もやりたい事も無いし、問題無いか。

 丘野は座っていたベンチから、小柄であるその身体ををふわりと浮かせ、二、三歩ほど前に出る。

 ブラウンに染めてあるショートカットの髪と、風が吹けば奥が覗けるかも知れない程に短い制服のスカートを翻してこちらへと向き直り、溌剌とした声で言った。

「私も改めて、丘野達美よ! これから仲良くしてね! 千野!」

「は、はい! こちらこそよろしくお……よろしくね! 達美さん!」

 思いもよらない丘野からの友好的な発言は千野も嬉しかったみたいで、さすがにまだ敬語を使おうとは思わなかったみたいだ。名前はご丁寧にさん付けだが。

「よかったじゃないか。友達が増えて」

 千野に向かって賛辞の言葉を贈ってやる。最近ではあのノートの活躍もある様で、クラスでは度々千野が誰かと喋っている場面を見かける。千草さんのアドバイスは効果覿面みたいだ。

「あの……一応あなたにも言ったつもりなのよ?」

「あ? ああ……俺は三浦だ。よろしくな」

 俺も仲間に入れて貰える様だ。それこそ思いもよらない展開だったが、まあ友達が増える事が別に嫌というわけではない。女子の友達が居てもいいだろう。

「さっき千野も優一郎って言ってたから私もそう呼ぶわね! 私の事も達美でいいわよ」

 何とも軽い性格だな。ノリがいいというか。さっきも結構友達が出来た――と自分で言える位友好関係が大分広いのだろう。こういう積極性は千野も見習った方がいいのかもしれないな。

 とりあえず、頷く事で肯定する。その後に千野の顔を見ると、俺と丘野が話しているのがそんなに嬉しいのか、和やかな笑みで俺達二人を見ていた。

「あ!」

 と、ここで達美が何かに気づいたようである。

「忘れてた……そういえばもう一枚飛んでいったんだ」



 もう一枚と言うのはテストの答案用紙がもう一枚と言う事だろう。達美もすっかり忘れていたみたいで、表情には焦りの色が見える。

「昼休み終わっちゃいそうだし……はぁ、どうしよう」

 達美の声は先程までの落ち込んだ低いトーンに逆戻りし、溜息を吐く達美に千野が寄りそっていた。

「あともうちょっとだけ探してみようよ」

 しかし、俺達がテストの点数がどうとか、勉強がどうとか言っている間に、決して短くはない時間が経っている。どこか遠くへ飛んで行ってしまったらもう見つけようがないな。まあ達美の事を知っている人間が居ない所まで飛んで行ってくれれば知人から見られる事も無いんだろうけど。

「あ! あれ!」

 キョロキョロ周辺を見回していた千野が指をさす。その方向を見ると、校門の近くにある木の枝に一枚の白い紙が引っかかっているのが見てとれた。

「私、取ってくるよ!」

 そう言うと千野は白い紙目掛けて走り出す。仲良くしてくれる達美の為に早速何かしてあげたいのだろう。

しかし、どうやって取るんだ? 木に登るつもりだろうか?

 千野は小走りで校門近くの、紙が引っ掛かっている木へと近づいていく。

「もう、別に千野が行かなくても自分で行くのに、嬉しいけどさ」

 少し照れながら千野の後を追う達美。ベンチの近くに立っていた俺は二人が戻ってくるのを待つため、座る事にした。

 ベンチに座ろうとすると、少しだけ強い風が吹いた。もしかしたらと思い、木に引っ掛かっている紙に目を移すと。

「あーっ! 待ってよー!」

 小走りで駆けていた千野は風で飛んでいく紙を更に追いかける。目標である紙は風に吹かれるまま校門に向かって飛んでいく。

 でもそろそろ追いつくか。風が吹いて枝から離れたし木に登る必要も――。

「ん? あれは……」

 やれやれと安心しきっていた俺の視界の端には、校門から続いている金網の向こうに一台の車が映った。

 校門から出るとそこは道路だ。車は大分離れた位置にいるが……結構スピードが出ている。もしかしたらと思い、俺も追いかけ始めた。

 千野はもうすぐ校門を出る辺りで、校門の邪魔もあり車が見えていないのか、紙を目掛けて一目散に走って行く。千野の目には青い空をバックに舞い踊る白い紙しか見えていないのだろう。

「くそっ!」

 もしかしたらと思っただけでゆっくりと走っていたその足を、全力で動かし始める。最近は運動不足であまり走っていなかったが意外と俺の思うように動いてくれた。

「えっ! はやっ!?」

 千野を追いかけていた達美を一瞬に追い抜かす、達美も途中から気付き千野を止める走りめていたのだが、俺が追いかけた方が速そうだ。

「おい千野! 止まれ!」

 千野は俺の声も聞こえていない。夢中で紙を追いかけている。

「もーう少しだよぉ!」

「もう少しであの世に行っちまうぞ!」

 あと少しで千野に追いつくが千野も本当にもう少しで、ヒラヒラと舞う白い死神に追いついてしまいそうだ。

「おおらああぁ!」

 ギリギリ届くかどうかの地点で千野に向かってダイブ。

「――ひゃあ!」

 千野の背中にタックルする事に成功し、そのまま自分の体を千野と地面の間に滑り込ませた。

「ぐぅは!」

「ひゃん!」

 ……なんとか着地成功。

 地面に倒れ込み千野を抱えたまま車道の方を見上げると、白い紙がスピードの出ている車にクシャリと叩きつけられ、それこそ車に命を奪われたかの様に俺の顔の横へと静かに着地した。



「ご、ごめん……なさい」

 俺が抱える少女から震える声が聞こえてきた。

 千野は声も体も震えている。張り切って白い紙を追いかけていたものの、それに夢中で周りが見えていなかったのだ。いや、見えなかったんだからしょうがないと俺は思う。

「はは、すまんな。お前の背中にタックルしてみたくてな。ついやっちまったよ」

 俺は千野が気にしない様、とぼけてみる。でもこんな冗談じゃ当たり前だが信じてくれないみたいで、千野の震えは止まらない。

「こんなのは偶然だ、いろんな偶然が重なってこうなっただけなんだ。今みたいな事は一生の内に何回も無い。だから回避できただけでお前はラッキーなんだよ」

「ぐすっ……そうなの……かなぁ?」

 泣き出してしまった。やれやれだな。でも泣き終わればいつも通りの千野に戻ってくれるだろう。

「そうだよ、だから何も悲しい事はない。逆に喜ぶべきだって、お前を不幸に陥れる様な偶然を嘲笑ってやればいい。こんなんじゃ私は死なないわよっ! ってな」

「う、うん! そうだね! ……やっぱり優一郎君は優しいなぁ」

 良かった。最後の方は良く聞こえなかったけど、何とか元気になってくれたみたいだな。もうすぐ昼休みも終わるし、泣いたまま教室に帰らせるのはなかなか酷なものだ。

「あ、あのー? 大丈夫ですかー? 生きてますかー? お元気ですかー?」

 おそるおそる、といった感じで達美が近寄ってくる。

そういえばこいつも居たんだったな。

「大丈夫です。生きてます。僕はとても健やかな毎日を送ってます」

「生きてる代わりに壊れた!」

 とりあえず、俺と千野の無事を伝えておく。どうやら俺が千野にタックルをかました後、遠くからじっと様子を見ていたらしい。

「な、なんかごめんね? 私がそもそも答案用紙を風に持ってかれなければこんな事にはなってなかったかもしれないのに……」

 白い紙がテストの答案用紙である事を確認し、達美に渡す。ちなみに飛んでいた答案用紙には四十二点と赤い数字が書かれていた。

「別にお前の所為でもないだろ。みんな自分の所為にしたがるんだな。俺は偶然に一票だ」

 仰向けに倒れたまま人差し指を天へと突き刺すように掲げる。未だに千野は俺の上に倒れ込んだままだがこれは涙を隠しているからなかなか起き上がれないのだろう。俺の胸に顔を押しつけている。

 涙も徐々に収まってきたみたいで、俺の胸に手を当てながらゆっくりと起き上がる。

「うん……もう大丈夫だよ。ありがとう」

 今度はごめんなさいじゃなくて、ありがとう……か。

 俺の言葉で千野の気持ちに少しだけ影響を与えたのだと思うと何となく嬉しさが生まれた。

 滑り込んだ時に若干腕や足を擦り剥いたが、特に大きな怪我をしたわけでもないので自分の力で立ちあがる。千野も特に外傷はないようではあるが、腰が抜けているのか達美の手を借りて立ちあがった。

 二人とも立ちあがると、昼休み終了五分前の予鈴が学校中に鳴り響く。

「とりあえず、教室に戻ろう」

 二人とも頷き、三人で教室へ向かって歩き始めた。

「いやー、でもびっくりしたわよホント」

 教室までの道のり。昇降口手前程で達美が俺の方を見ながら驚いていた。危なかったのは千野の方だと思うのだが?

「あんたって足速いのね!」

「ん? まあ野球やってたからな、運動してる奴からしたら普通じゃないか?」

 達美は千野が轢かれそうになった事よりも、俺の足が速かった事に驚いたらしい。でも、暗い話を長々と引き延ばされるのは俺としても気まずいばかりだ。千野からしても恐らくそうだろう。だから達美の突飛な話題転換は正直すごく助かる。

「そういえばそうだね。達美さんが歩いて追いかけて来てたのは見たんだけど、その時優一郎君はベンチに座ろうとしてたよね? もしかして瞬間移動!?」

 瞬間移動って……。いつもの調子に戻ってくれたのは良かったけど、さすがにそのボケは救いようが無いぞ。

「全力で走っただけだよ。俺より早い奴なんていくらでもいるって、まあ達美はあまり早くないようだがな」

 さっきは意外と簡単に達美を追い越せたし、足はあまり速くないのだと予想していたのだが。

「一応女バスの中だと一番早いんですけど……って事はあなたは野球部に入ってるの?」

 あれで早い方なのか? まあ言っても女子だからな。

「野球部には入ってない。というよりも、今後も部活に入る予定はないな」

「へぇ、それだけ早ければ野球部以外でもやってけそうだけどね」

 少しだけ羨望の眼差しで俺の事を見つめて来る達美。

 ――まさか足が速いってのを見られただけで部活の話から野球部という単語が出てくるまで繋がってくるとは。

 この辺でズバッと話題を変えておいた方がいいな。――よし!

「そんな事よりも、今日はいい天気だよな」

「は? それって屋内に入った瞬間言うセリフなの? もしかしてさっきので頭でも打ったのかしら?」

「え? えぇっ? そ、そうなの優一郎君? ホントにごめんね……」

 俺の話題を変えようとした作戦はどうやら失敗に終わってしまったみたいだ。しかも話題をまた振り出しに戻すという、まさに愚の骨頂。

 どうやら俺は千野のボケスキルと同じく救いようのないほどに、会話のセンスがないらしいな……。

「そんな事は無いって、それよりお前のクラスここじゃないのか?」

 三人で喋りながら戻っているとあっという間に自分達の教室へと戻ってきていた。達美も話しに夢中になっていたのか、俺と千野のクラスと達美のクラスとのちょうど間で気が付き、達美は若干通り過ぎた形になる。

「おっとと! それじゃ、今日は助かったわ。また今度勉強教えてね!」

「うん、楽しみにしてるね!」

 一瞬、慌てた素振りを見せると、さきほどのお礼を言われ、教室の扉を潜って行った。

 俺はその様子を黙って見届けると、達美が教室の中へ消えていった事を確認し、自分の教室の扉を潜ろうとするのだが――。

「優一郎君、優一郎君」

 制服のシャツを引っ張られている感覚がして振りかえると、その感覚通り、千野は俺のシャツを親指と人差し指で控えめに引っ張っていた。

「ん? どうした?」

「優一郎君。さっき、私を助けてくれた時に言ってくれたよね? 一生の内に何度とない偶然を回避できたのがラッキーなんだって」

 恥ずかしそうにもじもじとそう言う千野がなんとなく可愛く見えてしまう。

 ふむ、確かにそのような事を言ったが、千野を励ますために咄嗟に出てきた言葉なので、別に誰からの引用という事でもなく、恐らく漫画か何かで読んだセリフがその時に出て来てしまったのだろうと自分で結論付ける。

 だから俺自身、特に何の意味も無い言葉だとしか思っていなかったのだが。

「私ね、優一郎君に出会えたのが、一番のラッキーだと思うんだ」

 本当に私は嬉しいんだと、そう訴えかける様に主張する千野の笑顔。

 千野は、俺の無責任な言葉を真摯に受け止めていた。

「さっき優一郎君がいなかったら、もしかしたら大けがしてたかもしれないもん。もし優一郎君があの日に私のノートを見つけてくれなかったら……って考えるだけでやっぱり怖いな」

 困ったような、安堵するような、千野の中でいろんな感情が鬩ぎ合っている事だろう。そう思わせるような、俺にはよくわからない顔をしている。

「でも、俺と出会わなかったらあんな事が起こらなかったかもしれないし、お前が怯えてしまうようなことも……」

 あれ……ちょっと待てよ? もしかして俺が悪いんじゃないのか?

「そうだよ、俺が悪いんじゃないか……」

「優一郎君?」

 額から、冷や汗が滲み出る。四肢の先端が冷たくなってきて、感覚も消え入りそうになり、全身から血の気が引いていく。視界に黒い靄が掛かり始め、今にも真っ暗になってしまいそうだ。

 そうだ全部俺が悪いんだ、人生の中で何度とない偶然を千野に導いたのは。

 ――俺じゃないのか……? 

 あの頃の俺みたいに……。

 俺が……。

「俺が千野のノートさえ拾わなければ――」

「優一郎君!」

「ぐはっ!」

 両の頬に鋭い刺激が走った。暗くなっていく視界が一気に開いていく。

「そんな事……言わないでよ! 私の友達になれて嬉しくないの? 私は……優一君と友達になれて、すごい嬉しいよ?」

 千野の両手が俺の頬を挟み撃ちにした様だ。千野の顔を見ると涙目で真っ直ぐ俺の事を見つめていた。

「千野?」

「優一郎君と仲良くなれて、ちょっと自信がついたから他の子たちとも仲良くなれて、今はクラスでも結構喋れるようになってきたんだ。だから、私にとっての高校生活は優一郎君と出会えて始まった様なもの。だから……」

 何か大切な事を伝えたい――。千野の瞳の奥に純粋な決意の火が灯っているのを俺はこの時、見た様な気がする。

「これだけは言えるよ! 私はあなたに出会えて絶対に良かったっ!」

「……っ!」

 廊下中に響き渡った千野の叫びは、冷たく凍りそうになった俺の心まで届いた。

 千野の言葉に驚きを隠す事が出来ず、暫くじっと千野の顔を見つめてしまったのだが、とにかく謝らなければと思い。

「ご、ごめん。悪かった……俺も千野に出会えて良かった」

「え? う……うん。私もいきなりごめんね? 叩いちゃって、それにはしたなく大きな声なんか出しちゃって……なんだか急に恥ずかしくなってきちゃった」

 千野も怒りを沈めたらしく、怒気を孕んでいた空気もどこへ行ってしまったのか、いつもの頼り無さそうな千野に戻っていた。

「でも、優一郎君に出会えてよかったって思ってるのは本当なんだからねっ! そのことだけは絶対に勘違いとかしないでねっ!」

 なんだかツンデレの奴が言うようなセリフを言われたが、千野も焦っているのか若干キャラが崩壊しているような気がする。

 千野に一喝された事に驚きを隠せない俺は呆然とその場に突っ立っていたが、自分達の教室から静かに扉が開く音がした。

「お、おーい……授業始めるぞー。席に着いてくれー」

 そこから数学担当の先生が顔だけを出し、気まずそうにこちらへ呼びかけてきた。昼休みは既に終わり、もう次の授業が始まる時間にまでなっていた。

『私はあなたに出会えて絶対に良かったっ!』

 教室へと戻り、自分の机に向かう途中クラスメイト達からの熱視線が痛いほど突き刺さっていたのだが、先程の千野の言葉が俺の胸の中で木霊していてあまり気にもならず、始まった授業の内容も何一つとして頭の中に入ってこなかった。


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