第六話 今日は名前で呼ばないで
名前は、呼ぶためにある。
誰かに振り向いてほしい時。
そこにいると確かめたい時。
だから。
呼ばないで、と言われた理由が分からなかった。
その日は、朝から何もなかった。
制服の内側に残っていた、
『いたよ』
という白い文字は、指で触れた瞬間に崩れた。
粉を払えば、跡もない。
写真も普通。
黄色い傘も一本。
ノートにも知らない文字は増えていない。
私は少しずつ、この状況に慣れ始めている自分が嫌だった。
普通なら。
制服の内側に勝手に文字が書かれていた時点で、もっと騒ぐはずだ。
先生に相談する。
家族に話す。
学校へ行かない。
たぶん、そっちの方が正しい。
でも。
メアに聞けばいい。
そう思っている。
何か分かる保証なんてないのに。
むしろ。
ほとんどの場合、返ってくる答えは。
『知らない』
それなのに。
夜になれば、私はまた三階西側へ行くのだろう。
◇
午後八時二分。
今日は少し遅れた。
階段を上がる途中で。
コッ。
コッ。
パ。
音が聞こえた。
「いる」
思わず口元が緩む。
そのことに気づいて。
少しだけ嫌になる。
怪談の音を聞いて安心するって、どうなんだろう。
角を曲がる。
白い輪。
今日は十個。
その向こう。
メア。
いつもの白いブラウス。
暗いスカート。
裸足。
少しだけ笑っている。
私は手を上げた。
「メ――」
メアの表情が変わった。
人差し指を唇へ。
「しー」
声を止める。
「……何?」
メアは小さく首を振った。
「今日、名前呼ばないで」
「名前?」
「うん」
「メアって?」
「それ」
「なんで?」
「分かんない」
やっぱり。
「でも呼ばない方がいい?」
「うん」
今日は笑っていなかった。
それだけで。
私はそれ以上聞かなかった。
「分かった」
メアが少し安心したように頷く。
私は床を見る。
十個。
いつもより多い。
「これ、通っていいの?」
「うん」
「名前呼ばなければ?」
「たぶん」
また、たぶん。
私は最初の輪へ足を入れた。
コッ。
何もない。
二つ目。
コッ。
三つ目。
パ。
四つ目。
足元が冷たい。
でも痕跡はない。
五つ目。
何もない。
六つ目。
その時。
廊下の奥から声がした。
「――ねえ」
私は止まった。
女の声。
メアを見る。
彼女は口を閉じたまま。
声はメアからではない。
背後。
階段の方。
「ねえ」
聞き覚えがあるような。
ないような。
「……誰?」
返事をしかけて。
メアが首を振った。
強く。
私は黙った。
声も止まった。
数秒。
空調。
車。
遠くの職員室。
いつもの音だけ。
私は七つ目へ進む。
コッ。
八。
コッ。
九。
その時。
「――○○」
私は足を止めた。
自分の名前。
はっきり呼ばれた。
声は。
母に似ていた。
「……」
振り返りそうになる。
メアを見る。
笑っていない。
口元へもう一度指を当てる。
返事をするな。
そういう意味だと思った。
「○○」
今度は父の声。
少し遠い。
「まだ学校にいるの?」
心臓が速くなる。
そんなはずない。
家にいるはずだ。
スマートフォンを取り出そうとする。
メアが首を振る。
「電話もダメ?」
小声で聞く。
頷く。
私は手を下ろした。
九つ目の輪の中。
あと一つ。
「○○ちゃん」
今度は。
知らない声。
いや。
知らないはずなのに。
身体のどこかが、その呼び方を知っていた。
○○ちゃん。
もっと幼い頃。
誰かにそう呼ばれていたような。
でも。
誰だったか出てこない。
「○○ちゃん」
優しい声。
「こっち」
私は。
ほんの少し振り向いた。
その瞬間。
「見ちゃダメ」
メアの声。
いつもと違った。
笑っていない。
はっきりした声。
私は止まった。
「……今の、知ってる人?」
聞かれる。
「分からない」
「じゃあ見ないで」
「なんで?」
「分かんない」
そこで。
メアは一度言葉を切った。
「でも」
私を見る。
「お願い」
初めてだった。
メアが。
何かをしてほしいと。
遊びでもなく。
軽い調子でもなく。
頼んだのは。
私は前を向いた。
「分かった」
十個目。
パ。
メアの前へ着く。
振り返らない。
その瞬間。
背後の声は消えた。
白い輪も。
いつものように消えていた。
◇
「今の何?」
私は最初に聞いた。
メアは床を見る。
「知らない」
「私の名前呼んでた」
「うん」
「メアにも聞こえた?」
「聞こえた」
「誰の声?」
「分かんない」
私は壁にもたれかけて。
やめた。
前回。
制服の背中に文字が残っていたことを思い出した。
今日は床へ座る。
メアも隣へ座った。
少し間を空けて。
「なんで今日は名前呼んじゃダメなの?」
「分かんない」
「またそれ」
「だって分かんないもん」
少しだけむっとした顔。
いつものメアに戻っている。
「いつからそう思ったの?」
「今日」
「私が来る前?」
「うん」
「何かあった?」
メアは少し考える。
「呼ばれた」
「誰に?」
「私」
「……メアが?」
メアがこちらを見る。
私は慌てて口を閉じた。
「ごめん」
「今は大丈夫」
「もう呼んでいいの?」
「うん」
ルールが分からない。
本当に。
毎回違う。
「誰に呼ばれたの?」
「知らない人」
「何て?」
「メア」
私は黙った。
それは。
おかしい。
「その名前」
ゆっくり言う。
「私がつけたんだよね」
「うん」
「他に知ってる人いる?」
「知らない」
「学校の人に言った?」
「言ってない」
「じゃあ、なんで知らない人が知ってるの?」
メアは。
少しだけ考えて。
首を傾げた。
「聞いてたんじゃない?」
背中が冷えた。
「いつ?」
「名前つけた時」
「誰が?」
「知らない」
「いたの?」
「分かんない」
私は周囲を見る。
誰もいない。
旧音楽室。
廊下。
窓。
いつもと同じ。
でも。
あの日。
私がメアという名前をつけた時。
誰かが。
どこかで。
聞いていた?
「それで今日、呼ばれた?」
「うん」
「返事した?」
「してない」
「なんで?」
メアは少し考える。
「私を呼んでる感じじゃなかったから」
「名前はメアだったのに?」
「うん」
「どういうこと?」
「分かんない」
今度は。
その答えが。
少し怖かった。
◇
しばらく普通に話した。
今日は好きな色を聞いてみた。
「赤?」
赤い靴があるから何となくそう思った。
でも。
メアは。
「青」
と言った。
意外だった。
「なんで?」
「空」
「夜しか見てないのに?」
「昼も知ってるよ」
「いつ見たの?」
「知らない」
普通に答える。
昼の記憶がある。
でも。
いつの記憶なのかは分からない。
「じゃあ私の好きな色当てて」
「黄色」
「なんで」
「傘」
「一回使っただけじゃん」
メアが笑った。
少しだけ。
いつもの空気。
それに安心する。
午後八時三十一分。
私は立ち上がった。
「今日は帰る」
「うん」
「またね、メア」
今度は。
普通に呼べた。
メアも。
「またね」
と返す。
私は廊下を歩き出した。
角まで進む。
そこで。
メアが後ろから言った。
「ねえ」
振り返る。
「何?」
少し遠く。
メアが立っている。
「今日」
「うん」
「家で呼ばれても」
笑っていない。
「すぐ返事しない方がいいよ」
「……なんで?」
「分かんない」
そして。
いつものように。
「でも、そう思う」
と言った。
◇
帰宅。
午後九時前。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
母の声。
普通。
台所にいる。
父はリビング。
テレビ。
いつもの家。
私は靴を脱ぐ。
「ご飯あるで」
「後で食べる」
「先にお風呂?」
「うん」
普通。
何も変じゃない。
階段へ向かう。
「○○」
母。
「何?」
振り返る。
「あ、いや。タオル持って上がって」
「分かった」
普通。
返事をした。
何も起きない。
自分でも少し笑いそうになる。
メアの言葉を気にしすぎている。
◇
午後十一時十四分。
ベッド。
スマートフォンを見ていた。
家族はもう寝ている。
明日も学校。
そろそろ寝よう。
充電器へ挿す。
その時。
着信履歴が目に入った。
一件。
母。
20:16。
「……?」
今日。
学校にいた時間。
母から電話なんて来ていない。
不在着信の通知も見ていない。
通話履歴を見る。
『母 20:16 着信 0秒』
私は部屋を出た。
母の寝室。
起こすのは悪い。
でも。
気になる。
少し迷って。
戻る。
明日聞けばいい。
◇
翌朝。
朝食。
「昨日、八時くらいに電話した?」
母が顔を上げる。
「電話?」
「私に」
「してないけど」
「履歴残ってる」
スマートフォンを見せる。
母も見る。
「ほんまや」
「覚えてない?」
「してないと思うけどなあ」
自分のスマートフォンを取る。
履歴を確認。
「ほら」
見せてもらう。
母の発信履歴。
昨日の20:16。
私。
ちゃんと残っている。
二人とも黙る。
「間違えて押したとか?」
「かも」
「でも着信ゼロ秒だし」
「ポケットで触ったんちゃう?」
「家で?」
「知らんけど」
母はそれ以上気にしなかった。
たぶん。
普通なら。
それで終わる。
私は自分のスマートフォンを見る。
昨日。
午後八時十六分。
何をしていた?
思い出す。
三階西側。
白い輪。
名前を呼ぶ声。
たしか。
そのくらいの時間。
◇
昼休み。
私は昨日の着信履歴をもう一度開いた。
母。
20:16。
その下。
知らない表示があった。
昨日はなかった。
いや。
見落としていただけ?
『自分 20:17 発信 0秒』
自分。
そんな連絡先は登録していない。
私は画面を触る。
詳細。
電話番号。
表示されない。
ただ。
『自分』
それだけ。
通話時間。
0秒。
「……何これ」
削除しようとする。
指が止まる。
昨日の声。
自分と同じ声になる場合がある。
そんなことを。
どこかで考えた気がした。
私は削除せず。
スクリーンショットを撮った。
保存。
画面を閉じる。
チャイム。
午後の授業。
その日は。
何も起きなかった。
◇
夜。
午後八時十七分。
私は学校へ行かなかった。
今日は家にいた。
昨日の履歴と同じ時間。
スマートフォンを机へ置いて。
画面を見る。
何もない。
20:18。
何もない。
少し安心する。
その瞬間。
家の固定電話が鳴った。
一回。
私は固まった。
二回。
廊下の向こう。
リビング。
三回。
母が出る気配。
私は部屋を飛び出した。
「待って!」
階段の上から声を出す。
母が電話へ伸ばした手を止める。
「何?」
「出ないで」
「なんで?」
電話。
四回。
五回。
私は階段を降りる。
液晶を見る。
発信者。
表示なし。
母が首を傾げる。
「営業ちゃう?」
「たぶん」
六回。
そして。
止まった。
静かになる。
母が私を見る。
「何なん?」
「……分かんない」
その言葉を口にした瞬間。
メアみたいだと思った。
母は少し怪訝そうにしたけれど。
「まあええわ」
台所へ戻った。
私は固定電話の前に残った。
着信履歴。
一件。
20:17。
番号非通知。
それだけ。
私は部屋へ戻った。
机の上。
スマートフォン。
画面が点いていた。
通知はない。
でも。
通話履歴が開かれている。
触った覚えはない。
一番上。
新しい履歴。
『自分 20:17 発信 0秒』
その下。
昨日と同じ履歴。
同じ名前。
同じ時刻。
私は画面を見たまま動かなかった。
そして。
スマートフォンのスピーカーから。
小さく。
自分の声がした。
「ねえ」
一秒。
「○○ちゃん」
そこで。
音は切れた。
私は返事をしなかった。
しばらくして。
履歴を見る。
『自分』
という表示は。
二件とも消えていた。
残ったのは。
母からの昨日の着信だけ。
それも。
翌朝には。
なくなっていた。
第六話を読んでいただき、ありがとうございます。
主人公がつけたはずの「メア」という名前を、
知らない何かも知っていた夜。
そして今度は、
主人公自身の名前と声が、本人より先に動き始めます。
名前を呼ばれたからといって、
そこにいるのが知っている相手とは限らない。
メアも理由を知りません。
ただ、
「返事をしない方がいい」
ということだけは知っていました。




