第五話 メアがいない夜
いつもいるものが、いない。
それだけなら。
本当は、安心していいはずだった。
その日は、何も起きなかった。
朝。
玄関の黄色い傘は一本。
傘立ての底にあった水も、白い粉も消えていた。
学校へ行っても。
ノートに知らない名前は増えていない。
スマートフォンの写真も変わらない。
廊下に白い粉もない。
昼休みに三階西側を通ってみたけれど、普通の廊下だった。
旧音楽室の扉も閉まっている。
昼間に見ると、本当にただの倉庫だ。
「……夜だけなんだ」
そう呟いて。
私は教室へ戻った。
◇
放課後。
今日は部活もない。
用事もない。
だから。
まっすぐ帰ればいい。
昇降口で靴を履き替える。
校門を出る。
駅まで歩く。
コンビニの前を通る。
そこで。
足が止まった。
スマートフォンを見る。
午後七時三十二分。
まだ早い。
「……」
昨日。
メアは学校の外にいる私を見たと言った。
黄色い傘を差しているところ。
どこから見たのか本人にも分からない。
『前よりいっぱい見える』
そう言っていた。
何が起きているのか。
知りたい。
それだけ。
たぶん。
私はコンビニへ入った。
飲み物を一本買う。
時間を潰して。
午後七時五十二分。
学校へ戻った。
◇
校舎にはまだ人がいた。
一階の職員室には明かり。
どこかの教室から教師の声。
自動販売機の低い音。
窓の外を車が走る。
いつもの夜。
三階へ上がる。
西側へ向かう。
角の手前。
私は自然に足を止めた。
聞こえない。
いつもなら。
そろそろ。
コッ。
コッ。
パ。
それがない。
スマートフォンを見る。
19:59。
あと一分。
待つ。
表示が変わる。
20:00。
何も聞こえない。
「……今日は遅い?」
誰に言うでもなく呟く。
一分。
二分。
20:03。
音はしない。
私は角から西側廊下を覗いた。
誰もいなかった。
「……え」
旧音楽室まで、まっすぐ見える。
人影はない。
メアもいない。
白い輪もない。
赤い靴もない。
ただの廊下。
「今日は大丈夫な日……?」
前にも一度あった。
輪が一本もない夜。
あの時、メアは普通に立っていた。
『今日は大丈夫な日』
そう言って。
普通に歩けばいいと教えた。
でも今日は。
そのメアまでいない。
私はゆっくり廊下へ入った。
一歩。
何もない。
二歩。
何もない。
足を掴まれない。
濡れない。
声も聞こえない。
普通に歩ける。
なのに。
いつもより怖かった。
◇
旧音楽室の前まで来た。
誰もいない。
「メア?」
呼んでみる。
返事はない。
「いる?」
何もない。
扉を見る。
鍵が掛かっている。
窓から中を覗く。
壊れた譜面台。
古いテレビ。
積み上げられた段ボール。
文化祭で使ったらしい看板。
人はいない。
「……メア?」
もう一度。
返事はない。
私は廊下を見る。
空調。
照明。
窓。
何も変じゃない。
普通。
完全に普通。
そのことが。
落ち着かなかった。
「あれ……」
気づけば。
私は旧音楽室から離れ、階段の方まで戻っていた。
メアがどこかにいないか探している。
階段。
踊り場。
隣の教室。
トイレの前。
誰もいない。
「何してるんだろ、私」
止まる。
会えない日くらいある。
そもそもメアが毎晩ここにいる保証なんてない。
約束もしていない。
友達ですら。
いや。
友達なのか?
私が勝手に名前をつけただけ。
夜の学校にいる怪異。
それなのに。
いないと。
こんなに変な感じがする。
◇
午後八時十五分。
私は西側廊下の壁にもたれていた。
買った飲み物を開ける。
一口。
普通の味。
メアがいたら。
何を言っただろう。
『それ何?』
とか。
好きな食べ物すら分からないと言っていた。
飲み物を渡したら飲むのだろうか。
今度試してみよう。
そこまで考えて。
自分で少し笑った。
「……今度って」
また来る前提だ。
怪談を調べるため。
神谷千鶴のことを知るため。
白い輪のことを調べるため。
そういう理由を並べてきたけれど。
今日は。
怪異なんて何も起きていない。
調べるものもない。
それでも私はここにいる。
「……帰ろ」
ようやく立ち上がった。
飲み物を鞄へ入れる。
旧音楽室を見る。
「じゃあね」
誰もいないのに。
言ってしまった。
少し恥ずかしくなる。
私は廊下を戻った。
◇
角まで、あと数歩。
その時。
コッ。
止まった。
背後。
コッ。
身体が固まる。
少し間が空く。
パ。
いつもの音。
でも。
位置がおかしい。
いつもは。
廊下の奥から聞こえる。
旧音楽室の方。
メアがいる場所から。
今は。
すぐ後ろ。
ほんの一、二歩。
そんな距離から聞こえた。
私は振り返らなかった。
何かがいる。
そう思ったわけじゃない。
むしろ。
振り返ればメアがいるかもしれない。
そう思った。
なのに。
身体が動かなかった。
「……メア?」
呼ぶ。
返事はない。
数秒。
空調の音。
車。
遠くで教師が笑う声。
それだけ。
私はゆっくり振り返った。
誰もいなかった。
廊下。
旧音楽室。
照明。
全部同じ。
白い輪もない。
それでも。
床を見る。
私のすぐ後ろ。
白い粉が少しだけ落ちていた。
輪ではない。
何かを描いた形でもない。
ただ。
床に。
一歩分。
裸足の足跡のような形で。
白い粉が残っていた。
小さい。
私の足より、ずっと小さい。
「……メア?」
何も答えない。
私は近づかなかった。
写真も撮らなかった。
そのまま廊下を出た。
◇
階段を降りる。
二階。
一階。
普通。
職員室の前を通る。
「今帰りか?」
教師に声をかけられた。
「はい」
「遅くならないようにな」
「はい」
校舎を出る。
夜風。
外の音。
車。
信号。
コンビニ。
全部普通。
今日は。
家まで輪が続いているわけでもない。
傘も増えていない。
何も起きない。
それでいい。
◇
帰宅。
玄関。
白い輪なし。
廊下。
何もなし。
部屋。
普通。
私は制服を脱いだ。
ベッドへ座る。
スマートフォンを見る。
午後九時十二分。
写真アプリ。
変化なし。
録音もしていない。
知らない着信もない。
「……よかった」
声に出す。
今日はこれで終わり。
そう思った。
制服をハンガーへ掛けようとして。
手が止まった。
背中。
制服の後ろ。
肩甲骨の少し下。
白い粉。
「……」
触る。
チョークみたいな粉。
廊下にあったものと同じ。
壁にもたれた時についた?
いや。
私は西側廊下で。
背中を壁につけていた。
なら。
普通に付いてもおかしくない。
そうだ。
それだけ。
私は手で払った。
粉は落ちた。
それ以上は何もなかった。
◇
翌日。
学校。
昼間は普通だった。
昨日のことを考えながら授業を受ける。
メアはいなかった。
でも。
音はした。
白い足跡もあった。
あれはメアだったのか。
それとも。
別の何か。
分からない。
放課後。
昨日より早い時間に三階西側を通った。
何もない。
そして。
午後八時。
私はまたそこにいた。
今日は。
コッ。
コッ。
パ。
ちゃんと聞こえた。
角を曲がる。
メアがいる。
いつもの場所。
裸足。
白いブラウス。
暗いスカート。
昨日より。
髪が少し長い気がした。
私を見る。
「今日も来たんだ」
笑う。
私は安心した。
自分でも驚くくらい。
「昨日どこにいたの?」
最初に聞いた。
メアは首を傾げる。
「昨日?」
「昨日。来たけどいなかった」
「いたよ」
「いなかった」
「いた」
即答だった。
「どこに?」
メアは私を見る。
それから。
視線を少しずらした。
私の肩。
その向こう。
背後。
「そこ」
私は動かなかった。
「……そこって?」
メアは指を差さない。
ただ。
私の後ろを見ている。
「昨日、そこにいた」
「私の後ろ?」
「うん」
「ずっと?」
少し考える。
「たぶん」
「なんで声かけなかったの?」
「かけたよ」
「聞いてない」
「呼んだ」
「名前?」
「違う」
「じゃあ何て?」
メアは考える。
「分かんない」
「自分で言ったのに?」
「うん」
私は振り返った。
誰もいない。
廊下。
白い輪。
今日は七個。
それだけ。
もう一度メアを見る。
「昨日、私の後ろにいたなら」
「うん」
「私が振り返った時、なんで見えなかったの?」
メアは。
少しだけ困った顔をした。
「分かんない」
やっぱり。
その答えだった。
「じゃあ昨日の足跡は?」
「足跡?」
「白い粉。裸足みたいな」
メアは自分の足を見る。
今日も裸足。
でも。
足裏は綺麗だった。
「私かな?」
「聞いてるのこっちなんだけど」
「分かんない」
私はため息をついた。
メアがこちらを見る。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怖い?」
少し考える。
「……ちょっと」
「そっか」
今日は笑わなかった。
しばらく。
二人とも黙った。
私は白い輪を見る。
「今日は七個なんだ」
「うん」
「昨日は一本もなかった」
「昨日もあったよ」
私は顔を上げた。
「……何個?」
メアは廊下を見る。
「八個」
「見えなかった」
「そうなんだ」
「メアも見えなかった」
「いたよ」
「赤い靴もなかった」
「……」
そこで。
メアが初めて黙った。
「赤い靴もあった?」
メアは。
少し長く考えた。
「分かんない」
「昨日のことなのに?」
「うん」
「なんで?」
「昨日」
メアは私を見る。
「なんか、遠かったから」
「遠い?」
「うん」
「同じ廊下にいたんでしょ?」
「いたよ」
「じゃあ何が遠かったの?」
メアは答えなかった。
知らない時とは少し違う。
言葉を探している。
でも。
見つからない。
しばらくして。
「あなた」
と言った。
「私?」
「うん」
「私が遠かった?」
メアは頷く。
「すぐそこにいたのに?」
「うん」
私は。
昨日のことを思い出した。
何もない廊下。
聞こえないけんけんぱ。
見えないメア。
そして。
帰ろうとした瞬間。
すぐ後ろから聞こえた。
コッ。
コッ。
パ。
距離がおかしかった。
メアには私が見えていた。
私はメアを見つけられなかった。
同じ廊下にいて。
すぐ近くにいて。
お互いの距離だけが。
違っていた。
「……今日は?」
聞く。
メアは少し笑った。
「近いよ」
その答えに。
なぜか。
ほっとした。
「そっか」
私も笑った。
そして。
その日のけんけんぱを始める。
一つ目。
コッ。
二つ目。
コッ。
三つ目。
パ。
何も起きない。
四つ目。
五つ目。
六つ目。
七つ目。
メアの前まで辿り着く。
今日は。
何も起きなかった。
本当に。
何も。
◇
帰宅。
制服を脱ぐ。
昨日白い粉が付いていた場所を見る。
何もない。
机。
スマートフォン。
写真。
全部普通。
私はベッドへ横になった。
昨日より。
少し安心して眠れそうだった。
電気を消す。
目を閉じる。
しばらくして。
ふと思う。
昨日。
メアは私の後ろにいた。
白い粉も。
背中についていた。
なら。
私が廊下の壁にもたれていた時。
あの白い粉は。
本当に。
壁から付いたものだったのだろうか。
私は目を開けた。
部屋は暗い。
何もいない。
もう確認しない。
そう決めて。
布団をかぶった。
翌朝。
制服の背中に白い粉はなかった。
ただ。
昨日まで何もなかったはずの。
制服の内側。
背中に触れる位置に。
小さな文字が一つ。
白い粉で書かれていた。
『いたよ』
指で触れると。
すぐに崩れて。
読めなくなった。
第五話を読んでいただき、ありがとうございます。
メアがいなかった夜。
けれどメア本人は、
「いたよ」
と言います。
見えなかったのか。
同じ場所にいなかったのか。
それとも、「近い」「遠い」の意味そのものが少しずつ変わり始めているのか。
まだ、どれとも決まりません。
ただ一つ。
会えなかった夜に主人公が探していたのは、
怪談の手がかりだけではなかったようです。




