第四話 黄色い傘
物が一つ増えただけなら、
たぶん、見間違いで済ませられる。
問題は。
家族まで、それを昔からあったと言い始めた時だ。
朝から雨だった。
窓を細かく叩く雨音で目が覚めた。
時計を見る。
いつもの時間。
昨日の夜。
スマートフォンに保存された卒業写真へ、一瞬だけ現れた赤い靴。
朝になって確認しても、写真は元のままだった。
昭和四十三年度。
三年二組。
神谷千鶴。
そして、その隣にある不自然な空白。
赤い靴はもう写っていない。
「……ほんと、何なんだろ」
スマートフォンを伏せる。
考えても答えは出ない。
メアへ聞いても、たぶん。
『知らない』
と言う。
それが嘘ではないことも、少しずつ分かってきた。
◇
玄関を出る前。
母が傘立てから一本の傘を取り出した。
「今日これ使い」
黄色い傘だった。
「私の?」
「前からあるでしょ」
「こんなのあったっけ」
「あるある。透明のやつ、この前骨曲がったって言ってたじゃん」
「ああ……」
そうだった。
普段使っているビニール傘は、先日の風で一本骨が曲がっていた。
黄色い傘は昔使っていたものらしい。
持ち手には小さな傷。
黄色い布地も、少しだけ色褪せている。
「子どもっぽくない?」
「雨に濡れるよりマシ」
「まあいいけど」
開いてみる。
何の変哲もない傘だった。
黄色。
ただそれだけ。
私はそのまま学校へ向かった。
◇
雨の日の学校は、いつもより少し暗い。
教室の窓には水滴。
廊下には濡れた靴の跡。
昇降口の傘立てには、色も形も違う傘がぎっしり並んでいた。
自分の黄色い傘は目立つ。
間違えることはなさそうだった。
一限目。
二限目。
昼休み。
昨日みたいに図書室へ行くこともなかった。
神谷千鶴について、もう少し調べたい気持ちはある。
でも。
毎日怪談のことばかり考えているのも変な気がした。
だから今日は何もしない。
普通に授業を受けて。
友達と話して。
帰る。
夜の学校にも行かない。
そう決めた。
「最近さ」
昼休み。
向かいに座っていたクラスメイトが言った。
「何?」
「お前、三階の西側よく見てない?」
箸が止まる。
「見てないけど」
「昨日も窓から見てたじゃん」
「たまたま」
「赤靴さん?」
「違う」
「絶対そうじゃん」
笑われる。
私は弁当へ視線を戻した。
「今日行けば?」
「行かないよ」
「雨の日って出そうじゃない?」
「その発想、小学生みたい」
「怖いんだ」
「別に」
「じゃあ行けばいいじゃん」
「なんで行く前提なの」
相手が笑う。
私も笑った。
普通の昼休みだった。
◇
放課後。
雨はまだ降っていた。
昇降口へ行く。
傘立てから黄色い傘を探す。
すぐに見つかった。
一本。
持ち手の小さな傷も同じ。
手に取る。
その時。
隣にいた生徒が言った。
「それ目立つね」
「でしょ」
「なくさなそう」
「逆に恥ずかしいけど」
傘を開く。
校門を出た。
黄色い布越しに見る空は、少し明るかった。
雨粒が傘を叩く。
ぱらぱら。
ぱらぱら。
コッ。
足が止まった。
振り返る。
誰もいない。
「……」
違う。
今のは。
傘に大きな雨粒が落ちただけだ。
私は歩き出した。
コッ。
また。
今度は二回続かなかった。
パ、もない。
ただの雨音。
そう思う。
今日は行かない。
学校へ戻らない。
そう決めたんだから。
◇
午後七時四十三分。
私は家にいた。
夕飯を食べていた。
テレビでは天気予報。
明日の朝には雨が止むらしい。
「明日傘いらんな」
父が言う。
「よかった」
私は答える。
黄色い傘は玄関。
普通の夜。
スマートフォンを見る。
19:44。
いつもなら。
あと十六分。
考えてしまう。
八時。
三階西側。
メア。
「今日も来たんだ」
たぶん。
行けばそう言う。
でも今日は行かない。
毎日会う必要なんてない。
そもそも。
相手は怪異だ。
私は何を普通の友達みたいに考えているのだろう。
「何ニヤニヤしてんの」
母に言われた。
「してない」
「してた」
「してないって」
私はご飯を食べる。
時計を見る。
19:51。
見ないようにする。
19:56。
また見る。
20:00。
何も起きない。
当然だ。
学校じゃない。
メアもいない。
白い輪もない。
赤い靴もない。
私は少しだけ。
本当に少しだけ。
物足りないと思った。
◇
午後八時十三分。
玄関の方で音がした。
ガタン。
何かが倒れたような音。
母が台所から顔を出す。
「何?」
「見てくる」
私は立ち上がった。
玄関へ行く。
何も倒れていない。
靴。
傘立て。
荷物。
全部いつも通り。
「何もないよ」
奥へ声をかける。
「じゃあ外かな」
「たぶん」
戻ろうとして。
私は立ち止まった。
傘立て。
黄色。
一本。
今日使った傘。
その隣。
黄色。
「……え?」
もう一本あった。
同じ黄色い傘。
二本。
並んでいる。
私は近づいた。
今日使ったものはどっちだ。
右。
左。
両方とも同じ形。
同じ色。
持ち手。
右側の傘には傷がある。
今日見たものと同じ。
左にはない。
「お母さん」
呼ぶ。
「何ー?」
「ちょっと来て」
「今手離されへん」
「黄色い傘って何本ある?」
台所から返事。
「二本やろ?」
息が止まった。
「……二本?」
「そう」
「前から?」
「前から」
私は二本の傘を見る。
「誰の?」
「一本あんたので、もう一本……」
そこで声が止まった。
「もう一本誰の?」
「え?」
「だから、誰の傘?」
母が台所から顔を出した。
「何?」
「黄色い傘」
「ああ」
玄関を見る。
「二本あるやろ」
「それは見たら分かる」
「じゃあ何?」
「誰の?」
母は口を開いた。
止まる。
「……」
「お母さん?」
「何やったっけ」
笑った。
「まあ昔からあるやつやろ」
「誰が使ってたの?」
「知らん」
「知らんのに昔からあるの?」
「そんな傘一本一本覚えてないって」
そう言って、台所へ戻っていった。
私は玄関に残った。
二本。
黄色い傘。
右。
左。
同じ高さ。
同じ形。
一本は持ち手に傷。
もう一本は傷がない。
試しに左を持つ。
少し重い。
閉じたままなのに。
布が濡れていた。
「……」
今日は。
この傘は誰も使っていないはずだ。
私は傘を開かなかった。
そのまま元へ戻した。
◇
夜。
自分の部屋。
何度か玄関へ確認に行った。
黄色い傘は二本。
消えない。
母へもう一度聞いても。
「前から二本」
父に聞いても。
「そうやったんちゃう?」
はっきり覚えていない。
でも。
誰もおかしいと思っていない。
おかしいと思っているのは私だけ。
私はベッドへ座る。
スマートフォンを見る。
午後十時二十二分。
メアへ会いに行けば。
何か分かっただろうか。
いや。
『知らない』
と言う気がする。
それでも。
聞きたかった。
◇
翌日。
雨は止んでいた。
玄関へ降りる。
傘立てを見る。
黄色い傘は。
一本だった。
「……」
傷のある方。
昨日使った傘。
もう一本はない。
母が横を通る。
「何してるの?」
「黄色い傘」
「うん」
「昨日二本あったよね」
母が傘立てを見る。
「一つしかないけど」
「昨日は二本だった」
「そうやった?」
「お母さん、前から二本あるって言ってた」
「言った?」
「言った」
「勘違いちゃう?」
「誰の傘か聞いたら分からないって」
母は少し考えた。
「覚えてないなあ」
それだけ。
「急がんと遅刻するで」
台所へ戻っていった。
私は黄色い傘を見る。
一本。
普通。
持ち手の傷。
何も変わっていない。
傘の下を見る。
床は乾いていた。
◇
その日の夜。
午後八時。
私は学校にいた。
もう。
来ない理由を考えるのはやめた。
西側廊下。
今日は白い輪が七個。
一番奥。
メアがいた。
私を見る。
いつものように笑う。
「今日も来たんだ」
「来た」
私は輪を見る。
「今日は七個?」
「七個だね」
最初の輪へ入る。
何もない。
二つ目。
少し冷たい。
三つ目。
遠くで誰かが笑った気がした。
でも。
確認しても誰もいない。
四。
五。
六。
七。
最後まで進む。
今日は何も痕跡が残らなかった。
メアのところへ着く。
「ねえ」
「なに?」
「昨日、私来なかったでしょ」
「うん」
「何してた?」
「遊んでた」
「一人で?」
「うん」
普通の答え。
私は少し迷ってから聞いた。
「昨日さ」
「うん」
「黄色い傘使ってたんだけど」
メアが笑った。
「うん」
私は止まった。
「……なんで知ってるの?」
「黄色かったね」
「待って」
メアを見る。
「見たの?」
「うん」
「どこで?」
「分かんない」
「昨日、学校から出た?」
「出てないよ」
「じゃあどうやって見たの?」
メアは少し考えた。
「見えたから」
「どこに?」
「分かんない」
また。
知らない。
でも今回は。
少し違った。
「前は見えなかった?」
聞く。
メアは首を傾げた。
「前?」
「学校の外にいる私」
「うん」
「見えたことあった?」
少し考える。
「なかったと思う」
「じゃあ昨日から?」
「たぶん」
「何が変わったの?」
メアは廊下を見る。
白い輪。
私。
自分の裸足。
それから。
「前よりいっぱい見える」
と言った。
「いっぱい?」
「うん」
「何が?」
「あなた」
背中が冷えた。
「学校にいる私以外も?」
「うん」
「家にいるところも?」
「分かんない」
「昨日は何してるところを見たの?」
「歩いてた」
「どこを?」
「傘さしてた」
「それだけ?」
「うん」
メアは少し笑った。
「黄色、目立つね」
昼間。
昇降口で同じことを言われた。
『それ目立つね』
偶然。
ただの言葉。
なのに。
妙に嫌だった。
「メア」
「なに?」
「私の家、分かる?」
「知らない」
「家族は?」
「知らない」
「私が学校にいない時、ずっと見える?」
「ずっとじゃないよ」
「じゃあ、いつ?」
メアは困った顔をした。
「分かんない」
そこで。
私は質問をやめた。
分からないものを聞き続けても仕方がない。
メア自身も。
昨日初めて起きたことを、説明できないのだ。
「昨日ね」
私は言った。
「黄色い傘が家で二本になった」
「二本?」
「うん」
「増えたの?」
「たぶん」
メアは少し笑った。
「輪みたい」
「やめてよ」
「なんで?」
「嫌だから」
「そっか」
笑うのをやめた。
そして。
少しだけ考えて。
「増えるの、輪だけじゃないんだね」
そう言った。
それだけだった。
メアにも。
理由は分からない。
◇
その日は早めに帰った。
玄関。
黄色い傘。
一本。
変化なし。
部屋へ戻る。
鞄を置く。
何も起きない。
机。
ベッド。
本棚。
いつも通り。
私は少し安心した。
制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
画面が点く。
通知が一件。
写真アプリ。
『一年前の今日』
自動で表示された昔の写真だった。
何気なく開く。
去年の同じ日。
家族で出かけた時の写真。
私は中央に立っている。
父。
母。
私。
背景には玄関。
傘立てが少しだけ写っていた。
黄色い傘。
一本。
「……」
拡大する。
一本。
やっぱり昨日の母の記憶がおかしかった。
そう思った。
画面を閉じようとする。
その時。
写真が一瞬だけちらついた。
もう一度見る。
黄色い傘。
二本。
「……え?」
目を離さない。
二本。
並んでいる。
右側。
傷のある傘。
左側。
もう一本。
昨日と同じ。
私は写真の日付を見る。
一年前。
そんなはずはない。
スクリーンショットを撮った。
すぐに確認する。
スクリーンショットには。
黄色い傘が一本しか写っていなかった。
元の写真へ戻る。
そこにも。
一本。
私はしばらく画面を見ていた。
それから。
玄関へ行った。
傘立て。
黄色い傘は一本。
その横。
何もない。
ただ。
傘立ての底に。
小さな水溜まりができていた。
黄色い傘は乾いている。
ほかの傘も乾いている。
雨は。
昨日の夜には止んでいた。
水溜まりの中央に。
白い粉が。
ほんの少しだけ浮いていた。
第四話を読んでいただき、ありがとうございます。
学校から出ていないはずのメアが、
初めて学校の外にいる主人公を「見た」夜。
同じ頃、家では黄色い傘が一本増えていました。
メア自身にも、なぜ見える範囲が広がったのかは分かりません。
学校へ近づいているのは主人公なのか。
それとも。
学校の方が、少しずつ主人公の日常へ近づいているのか。




