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第三話 神谷千鶴

知らない名前だった。


けれど、その名前は私の机にあった。


そして翌朝には消えていた。


残ったのは、自分の字ではない四文字だけ。


――神谷千鶴。

『神谷千鶴』



授業中。


私はノートの一番後ろを、もう一度開いた。



昨日までなかった文字。


鉛筆で書かれている。



神谷千鶴。



その横には、小さな赤い靴。



消しゴムを当ててみた。



少し擦る。



消えた。



普通の鉛筆だった。



「……普通なんだ」



思わず呟く。



「何が?」



隣から声がした。



「なんでもない」



慌ててノートを閉じる。



先生は黒板へ向いたまま授業を続けている。



窓の外には青空。


運動場では体育の授業。


廊下では誰かが走って、先生に怒られている。



普通の学校。



昨日の夜、三階西側で名前のない少女に「メア」という名前をつけたことだけが、別の世界の出来事みたいだった。



でも。



ノートを閉じても。



消したはずの名前が頭に残っている。



神谷千鶴。



昭和四十三年度。


三年二組。



そこまで、昨日の紙には書いてあった。



昭和四十三年。



何年前だろう。



スマートフォンで検索しかけて、やめた。



授業中だ。



それくらい後で調べればいい。



私は黒板へ視線を戻した。



数分後。



なんとなく気になって、もう一度ノートを開いた。



「……え」



消したはずだった。



『神谷千鶴』



同じ場所に、また名前があった。



赤い靴の絵も。



私は指で文字をなぞった。



さっきより少し薄い。



完全に元へ戻ったわけではない。



消し残しだろうか。



そう思って。



今度はページごと破った。



小さく折る。



筆箱へ入れる。



これならいい。



授業が終わる。



休み時間。



筆箱を開ける。



紙は入っていた。



名前もある。



何も変わっていない。



ノートを開いた。



白紙だった。



「……そういう感じなんだ」



何に納得したのか自分でも分からない。



少なくとも。


文字そのものが勝手に戻ったわけではなさそうだった。



私は破った紙を見ながら考えた。



昭和四十三年度。


三年二組。



学校に記録が残っているかもしれない。



     ◇



昼休み。



図書室のカウンターで尋ねると、司書の先生は眼鏡の奥から私を見た。



「昔の卒業アルバム?」



「はい」



「何年くらい?」



「昭和四十三年度です」



「また古いね」



「ありますか?」



「たぶん資料室かな」



先生は椅子を回し、後ろの棚から鍵を取った。



「何に使うの?」



「ちょっと調べたい人がいて」



「親戚?」



「……たぶん違います」



「たぶん?」



笑われた。



「まあいいけど。持ち出しは禁止ね」



図書室の奥。



普段は閉まっている小さな資料室。



鍵を開ける。



少し埃っぽい。



古い学校新聞。


記念誌。


生徒会誌。


卒業アルバム。



棚の背表紙には年度が書かれていた。



「昭和四十三……昭和四十三……」



指で追う。



あった。



思っていたより薄い。



表紙には今とは少し違う校章。



私は机まで運んだ。



「写真撮ってもいいですか?」



「個人情報があるから、必要なところだけにしてね」



「はい」



椅子へ座る。



表紙を開く。



最初は校舎の写真だった。



今と違う。



本館の形も少し古い。



体育館も小さい。



知らない学校みたいなのに。



正門の位置だけは同じだった。



ページをめくる。



校長。


教師。



三年一組。



次。



三年二組。



指が止まった。



最初に名前を見る。



男子。


女子。



五十音順。



その中に。



『神谷 千鶴』



あった。



胸が少し速くなる。



「……いた」



写真を探す。



一人ずつ並んだ顔写真。



神谷。



神谷千鶴。



そこにいた少女を見て。



私は息を止めた。



黒い髪。



白い肌。



大きな目。



少しだけ笑っている。



昨日。


三階西側廊下で。



「今日も来たんだ」



そう言った少女。



メアだった。



服も髪型も違う。



写真では制服を着ている。



髪も肩より少し長い程度。



でも。



顔は同じだった。



似ている、ではない。



同じに見える。



私はスマートフォンを取り出した。



写真を撮る。



一枚。



画面で確認する。



神谷千鶴の写真はちゃんと映っていた。



昨日の赤い靴みたいに消えてはいない。



「知ってる人いた?」



司書の先生が声をかけてくる。



私は一瞬迷った。



「この人」



スマートフォンではなく、アルバムを指差す。



「神谷千鶴さん」



先生が覗き込む。



「うーん」



「何か知ってますか?」



「さすがに私が生まれる前だからねえ」



「そうですよね」



「親戚じゃないの?」



「違います」



「じゃあなんで?」



「ちょっと……似てる人を知ってて」



「へえ」



先生は写真を見る。



「昔の写真って、不思議と似た人いるもんね」



そう言って離れた。



普通の反応だった。



私はもう一度写真を見る。



似ている人。



そう言われれば。



そうなのかもしれない。



六十年近く前の生徒と、今の少女。



同一人物のはずがない。



それに。



昨日のメアは、自分の名前すら知らなかった。



私はページをめくった。



集合写真。



三年二組。



校舎の前に、生徒たちが並んでいる。



一列目。



二列目。



三列目。



神谷千鶴を探す。



いた。



一番端ではない。



中央より少し左。



ただ。



「……何これ」



隣が空いている。



人一人分。



いや。



少し広い。



集合写真なのに、その部分だけ不自然に間隔が空いていた。



撮影の日に欠席者がいたのだろうか。



でも普通なら詰めて撮る。



それに。



よく見ると。



前の列も。



後ろの列も。



同じ位置だけ、少し間が空いている。



縦に一本。



人が避けて立ったみたいな空白。



そのすぐ隣に、神谷千鶴がいる。



私はスマートフォンで撮った。



シャッター音。



画面を確認する。



写っている。



神谷千鶴。



空白。



問題ない。



そこで。



ページの下に小さな文字があることに気づいた。



クラス名簿。



集合写真に写っている生徒の名前。



一人ずつ確認する。



全員いる。



欠席者の注記もない。



じゃあ。



この空白は何なんだろう。



「先生」



「はい?」



「昔の卒業アルバムって、途中で写真が変わったりします?」



先生が笑った。



「怖いこと言わないでよ」



「ですよね」



「紙だから焼けたり剥がれたりはするけど」



「人が消えたりとか」



「しません」



当然だった。



「ですよね」



私はアルバムを閉じた。



     ◇



放課後。



今日はすぐ帰るつもりだった。



本当に。



昨日も夜の学校へ来た。



今日まで行く必要はない。



それに、メアへ聞いたところで。



『知らない』



で終わる気がする。



校門を出る。



家へ向かう。



コンビニの前を通る。



駅へ続く道。



信号。



いつもの景色。



気づけば私は。



家ではなく。



学校へ戻っていた。



午後七時五十八分。



「……何してるんだろ」



昨日も同じことを言った気がする。



三階へ上がる。



西側廊下。



今日は白い輪があった。



八個。



「増えてる」



奥を見る。



メアがいる。



一人でけんけんぱをしていた。



コッ。



コッ。



パ。



私に気づく。



「今日も来た」



「うん」



「三日目」



「数えてるの?」



「うん」



「昨日、時間とか分かんないみたいなこと言ってなかった?」



メアは少し考えた。



「三日は分かるよ」



基準がよく分からない。



私は白い輪を見る。



八個。



「今日はこれ通らないとダメ?」



「今日はそれ」



「昨日は大丈夫な日だったのに」



「今日は違う日」



「何の日?」



「八個の日」



「そのまんまだね」



最初の輪へ足を入れる。



何もない。



二つ目。



何もない。



三つ目。



冷たい。



でも。



昨日までとは少し違う。



冷気が足元を通っただけ。



四つ目。



何もない。



五つ目。



耳元で。



「ちづる」



声がした。



私は止まった。



メアを見る。



「今、呼んだ?」



「何を?」



「ちづるって」



メアは首を傾げた。



「誰?」



私は輪の中で立ったまま。



鞄からスマートフォンを出す。



昼間撮った写真を開いた。



「この人」



メアへ見せる。



彼女は画面を覗き込んだ。



顔が近い。



写真。



メア。



見比べる。



やっぱり同じ顔に見える。



「……これ、メアじゃない?」



メアは写真をじっと見た。



数秒。



十秒。



表情は変わらない。



「似てるね」



「似てるどころじゃないでしょ」



「髪短い」



「そこ?」



「服も違う」



「六十年くらい前の写真なんだから当たり前」



「六十年?」



「たぶんそのくらい」



「長いね」



まるで他人事だった。



「神谷千鶴」



名前を言う。



メアは反応しない。



「聞いたことない?」



「ない」



「昔のあなたの名前とか」



「分かんない」



「何か思い出さない?」



「ううん」



「怖くない?」



「なんで?」



本当に分からないらしい。



私は写真を見る。



「自分と同じ顔の人が昔の卒業アルバムにいるんだよ」



「いるね」



「気にならない?」



「ちょっと」



「ちょっとなんだ……」



「でも」



メアは私を見る。



「今はメアでしょ?」



言葉が止まった。



「……そうだけど」



「じゃあいいよ」



あっさりしている。



私は何も言えなくなった。



メアは写真へ指を伸ばした。



画面には触れない。



その少し手前で止める。



「この人」



「うん」



「隣、誰?」



私は画面を見る。



「誰もいないよ」



「いるよ」



背中が冷えた。



「……どこ?」



メアが指を差す。



神谷千鶴の隣。



集合写真の空白。



「ここ」



「何がいるの?」



メアは画面を見たまま。



「分かんない」



「人?」



「たぶん」



「見えてるの?」



「うん」



「どんな人?」



少し間があった。



「顔がない」



私は画面を伏せた。



メアがこちらを見る。



「なんで隠すの?」



「……ちょっと嫌だから」



「怖い?」



「怖い」



「そっか」



笑わなかった。



それだけだった。



「今日はもう帰る」



「うん」



私は残りの輪を見る。



六。


七。


八。



「これ、最後まで行かなくてもいい?」



「いいよ」



「途中で終わるの嫌じゃなかった?」



「昨日はね」



「今日は?」



「帰りたいんでしょ?」



「うん」



「じゃあ帰れば?」



本当に。



それだけ。



私は輪から足を出した。



何も起きない。



「またね、メア」



「またね」



廊下を戻る。



数歩歩いて。



振り返る。



メアはもう、けんけんぱを再開していた。



コッ。



コッ。



パ。



     ◇



家へ帰って。



私は昼間撮った写真を確認した。



まず。



神谷千鶴の個人写真。



ある。



顔も変わっていない。



次。



集合写真。



神谷千鶴。



その隣の空白。



「……ん?」



昼間より。



広い。



そんな気がした。



スマートフォンの画面だけでは分からない。



私は指で拡大した。



空白。



何もない。



メアが言った。



『いるよ』



もう一度見る。



見えない。



当然だ。



誰も写っていない。



その時。



画面右上に表示された数字に気づいた。



写真の撮影時刻。



12:41。



おかしい。



私は集合写真を撮ったのは、一枚だけだった。



でも。



アルバムには同じ写真が二枚保存されていた。



一枚目。



12:41。



二枚目。



20:09。



私は今日の午後八時九分。



メアと一緒にいた。



写真なんて撮っていない。



二枚目を開く。



同じ集合写真。



同じ神谷千鶴。



同じ空白。



ただ。



一つだけ違った。



神谷千鶴が。



こちらを見ていた。



昼間の写真では。



正面のカメラを見ていた。



二枚目では。



顔だけが少し横を向いている。



空白の方へ。



私はスマートフォンを置いた。



見なかったことにしたかった。



数分後。



もう一度開く。



二枚目の写真は消えていた。



一枚目だけ。



12:41。



普通の集合写真。



神谷千鶴も正面を見ている。



ほっとして。



画面を閉じようとした。



その時。



気づいた。



神谷千鶴の隣。



昼間はただの空白だった場所。



そこに。



小さく。



赤い靴が一足だけ写っていた。



片方ではない。



左右。



二つ揃って。



誰も履いていない赤い靴だけが。



きちんと並んでいた。

第三話を読んでいただき、ありがとうございます。


「神谷千鶴」。


メアと同じ顔をした、昭和四十三年度の卒業生。


彼女がメアなのか。

別人なのか。

そして集合写真の空白に、何がいるのか。


まだ答えは出ません。


次は少し学校の記録から離れて、

主人公の日常側へ怪異が近づいてきます。

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