第二話 今日は大丈夫な日
学校の怪談は、学校を出れば終わる。
そう思っていた。
少なくとも、昨日までは。
朝。
目を覚まして最初に見たのは、自分の部屋の天井だった。
いつもの白い天井。
カーテンの隙間から朝日が差している。
鳥の声。
家の前を通る車。
階下から聞こえる食器の音。
何も変わっていない。
昨夜のことを思い出す。
コッ。
コッ。
パ。
あの音を聞いてから、私はしばらく部屋の扉を開けられなかった。
結局、意を決して廊下へ出てみたけれど、誰もいなかった。
白い輪もない。
赤い靴もない。
家族は全員寝ていた。
廊下の床を見ても、いつも通りだった。
だから。
聞き間違いだったのかもしれない。
疲れていた。
夜の学校で変な女の子に会った。
足を掴まれたような気がした。
水に濡れたような気もした。
そのせいで、普通の物音までけんけんぱに聞こえた。
そう考えれば、一応説明はつく。
ベッドから降りる。
昨日履いていた靴は玄関にある。
念のため確認してみようと思った。
階段を降りる。
「おはよう」
母が台所から顔を出した。
「おはよ。昨日遅かったね」
「うん。忘れ物してて」
「夜の学校なんか一人でうろうろしない方がいいよ」
私は足を止めた。
「……なんで?」
「なんでって、危ないでしょ」
普通の答えだった。
「それだけ?」
「それ以外に何があるの?」
「いや……」
母は不思議そうな顔をして、また台所へ戻った。
玄関へ向かう。
昨日の靴をひっくり返した。
右足。
何もついていない。
「……あれ?」
白い粉が消えている。
軽く叩いて落とした覚えはない。
昨夜、玄関で見つけた時には確かに付いていた。
靴底を指でなぞる。
普通のゴム。
粉の跡すらない。
やっぱり夢だったのだろうか。
でも。
手に残った革の感触だけは、妙にはっきり覚えている。
古びた赤い靴。
錆びた金具。
冷たい声ではなく、普通に笑う少女。
『好きなのつけて』
そう言われたところまで。
「名前……」
結局、つけていなかった。
◇
学校へ着けば、本当に全部がいつも通りだった。
朝のホームルーム。
一限目。
二限目。
先生の声。
教科書をめくる音。
眠そうなクラスメイト。
昨夜の三階西側廊下と、同じ建物とは思えない。
休み時間。
私は窓から本館の西側を眺めていた。
当然だけれど、何も見えない。
「何見てんの?」
後ろから声をかけられた。
クラスメイトだった。
「三階の西側ってさ」
「うん?」
「夜、誰かいることある?」
「先生じゃない?」
「生徒とか」
「部活?」
「制服じゃない女の子」
相手の表情が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……何?」
「いや」
目を逸らす。
「別に」
「絶対なんか知ってるじゃん」
「知らん知らん」
「今、顔変わったけど」
「気のせい」
「じゃあ三階西側に制服じゃない女の子がいるって話を――」
「赤靴さん見たの?」
私は黙った。
今度は相手が黙る。
「……何それ」
「知らないの?」
首を振る。
クラスメイトは少し声を落とした。
「昔からある学校の怪談」
「どんな?」
「えーっと……」
思い出すように天井を見る。
「夜、三階の廊下に女の子がいるんだって。赤い靴を片方だけ履いてて」
「片方だけ?」
「たしか」
私は昨日の少女を思い出す。
裸足だった。
両足とも。
「それで?」
「赤い靴を見つけても拾ったらダメ」
「なんで?」
「女の子のところまで届けることになるから」
背中が少し冷えた。
「届けたら?」
「知らない」
「そこ一番大事じゃない?」
「だって小学生じゃあるまいし、真面目に覚えてないって」
相手は笑った。
「戻ってこられなくなるとか、名前取られるとか、そんな感じじゃなかった?」
「話、決まってないの?」
「こういう怪談なんてそんなもんでしょ」
「女の子の名前は?」
「だから赤靴さん」
「本名」
「知らないよ」
「いつからある噂?」
「知らない」
「誰が最初に――」
「めっちゃ食いつくじゃん」
笑われた。
私は口を閉じた。
「いや、ちょっと気になって」
「昨日見たとか?」
「……」
「え、マジ?」
「見てない」
「今の間でそれは無理あるって」
チャイムが鳴った。
クラスメイトは席へ戻りながら、
「今日、夜八時に行ってみれば?」
と笑った。
冗談だった。
だから私も、適当に笑っておいた。
◇
午後七時五十六分。
私は三階にいた。
「……何してるんだろ」
自分でもそう思う。
今日は忘れ物なんてしていない。
家にも、
「ちょっと用事」
とだけ言って出てきた。
怪談を確かめたい。
昨日のことが夢じゃなかったと確認したい。
そういう理由なら、まだ分かる。
でも。
それだけなのだろうか。
あの子に名前をつける途中だった。
そんなことを、昼間ずっと考えていた。
西側廊下へ続く角の前で立ち止まる。
スマートフォンを見る。
午後七時五十九分。
馬鹿馬鹿しい。
八時になった瞬間に何か起こるわけじゃない。
そう思った。
表示が変わる。
20:00。
コッ。
顔を上げた。
コッ。
一拍。
パ。
「……いる」
角を曲がった。
少女は昨日と同じ場所にいた。
旧音楽室の前。
裸足。
白いブラウス。
暗い色のスカート。
長い黒髪。
けれど。
昨日より、髪が少し短い気がした。
気のせいだろうか。
少女はこちらに気づいた。
笑う。
「今日も来たんだ」
その言い方があまりにも普通で、私は少しだけ安心した。
「来たよ」
「うん」
「……それだけ?」
「何が?」
「もうちょっと驚かないの?」
「来るかもしれないと思ってたから」
「なんで?」
「昨日、途中だったでしょ」
「何が?」
少女は私を指差した。
「名前」
覚えていた。
「ああ」
私は少女の方へ歩こうとして。
止まった。
床を見る。
白い輪がない。
昨日は七つ並んでいた。
今日は一本もない。
「……ない」
「ないね」
少女も床を見る。
「今日はどうすればいいの?」
「何が?」
「そっち行くの」
「歩けば?」
「普通に?」
「うん」
「何も起きない?」
少女は首を傾げた。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「今日は大丈夫な日」
何の根拠があるのか分からない。
けれど少女は本当にそう思っているようだった。
私は恐る恐る一歩踏み出す。
何もない。
二歩目。
何もない。
三歩。
昨日なら、足を掴まれた辺り。
何も起きない。
そのまま普通に少女のところまで歩けた。
「……ほんとに何もない」
「言ったでしょ」
少し得意そうだ。
「昨日の輪って何だったの?」
「けんけんぱ」
「それは分かってる」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
少女は笑った。
私は隣の旧音楽室を見る。
昨日と同じく鍵が掛かっている。
「昨日、どこ行ったの?」
「どこ?」
「先生に呼ばれて振り返ったら、いなくなった」
「ここにいたよ」
「いなかった」
「いた」
「見えなかった」
「じゃあ見えなかったんじゃない?」
昨日からずっとこの調子だ。
嘘をついている感じはしない。
でも、話が噛み合わない。
「赤靴さん」
試しに呼んだ。
少女が瞬きをした。
「誰?」
「あなた」
「私?」
「学校でそう呼ばれてるらしいよ」
「へえ」
「知らなかったの?」
「知らない」
「夜の三階に出る、赤い靴の女の子だって」
少女は自分の裸足を見る。
「靴ないよ」
「それ私も思った」
「じゃあ違うんじゃない?」
「でも昨日、赤い靴あったじゃん」
「うん」
「あなたが持ってきてって言った」
「言ったね」
「それで赤靴さんじゃないの?」
「知らない」
少しも気にしていない。
「昔からいるらしいよ」
「そうなんだ」
「戻れなくなるとか、名前を取られるとか」
「名前?」
少女がこちらを見る。
その時だけ、少し興味を示した。
「うん」
「取れるの?」
「私に聞かないで」
「どうやって?」
「知らないって」
「じゃあ取れないんじゃない?」
「その理屈でいいのかな……」
私は壁にもたれた。
少女は隣に立っている。
昨日は怖くて仕方なかったのに。
こうして何も起きていないと、普通の女の子と話しているような気分になる。
裸足だけれど。
影の位置も少しおかしいけれど。
廊下の照明は少女の斜め後ろにある。
なのに彼女の影は、私の方へ伸びていなかった。
横へ伸びている。
まるで、別の場所から光が当たっているみたいに。
「ねえ」
少女が言った。
「何?」
「名前」
「ああ」
完全に忘れていた。
「まだ決めてなかったね」
「うん」
「本当に何でもいいの?」
「いいよ」
「後から嫌って言わない?」
「嫌だったら変える」
「軽いなあ」
私は少女を見る。
黒い髪。
白い服。
赤い靴。
夜の学校。
夢みたいな存在。
「……メア」
口にしてみた。
少女が首を傾げる。
「メア?」
「うん」
「それ、私?」
「嫌?」
数秒。
少女は何かを確かめるように、その名前を口の中で転がした。
「メア」
もう一度。
「メア」
そして笑った。
「うん。それでいいよ」
その瞬間。
遠くで何かが落ちた。
金属のような音。
私たちは同時に廊下の奥を見る。
何もいない。
「何?」
「知らない」
メアは普通に答えた。
昨日なら、私はすぐに音の方へ向かっていたかもしれない。
でも。
今日は大丈夫な日。
そう言われたばかりだった。
私は動かなかった。
メアも動かなかった。
しばらくすると、何事もなかったように職員室から笑い声が聞こえてきた。
「見に行かないの?」
私が聞く。
「なんで?」
「音したから」
「したね」
「気にならない?」
「ちょっと」
「じゃあ」
「でも今、話してたから」
メアは床へ座った。
壁に背中をつける。
「続きしよ」
「何の?」
「知らない」
「何それ」
私も少し離れて座った。
本当に何も起きなかった。
怪談の正体について話したわけでもない。
赤い靴の意味も分からない。
白い輪も出なかった。
ただ。
好きな食べ物を聞いた。
メアは、
「分かんない」
と言った。
学校にいつからいるのか聞いた。
「前から」
と答えた。
何年前から、と聞いたら。
「何年前?」
と逆に聞かれた。
時間の感覚が違うのか。
単に覚えていないだけなのか。
それ以上は分からなかった。
午後八時二十七分。
「そろそろ帰る」
そう言うと、メアは頷いた。
「うん」
「今日は止めないんだ」
「昨日も止めてないよ」
「そうだった」
「また来る?」
私は少し考えた。
「たぶん」
「そっか」
それだけ。
「じゃあね、メア」
名前を呼ぶ。
メアは少し遅れてこちらを見る。
自分の名前だと認識するまで、一瞬かかったようだった。
それから。
「またね」
と笑った。
◇
帰宅する。
今日は何も起きなかった。
玄関。
白い輪はない。
廊下。
何もない。
昨日のような音もしない。
夕飯を食べる。
風呂へ入る。
家族と少し話す。
全部いつも通り。
そのことに、少し拍子抜けした。
本当に「大丈夫な日」だったらしい。
部屋へ戻る。
制服を脱いで、明日の準備をする。
教科書。
ノート。
筆箱。
学生証。
そこで手が止まった。
机の上に、見覚えのない紙があった。
小さな紙切れ。
学校でもらうような物ではない。
古い。
少し黄ばんでいる。
何だろう。
裏返す。
名前が書いてあった。
『神谷 千鶴』
知らない名前。
その下。
『昭和四十三年度』
さらに、小さく数字。
『三年二組』
私はしばらく紙を見ていた。
こんな物を持ち帰った覚えはない。
鞄の中にも入れていない。
制服のポケットにも。
触ったことすらない。
なのに。
紙の端には。
白い粉が付いていた。
今日は輪なんて、一つもなかった。
私は指で粉を触った。
普通の粉だった。
次の日。
学校へ持っていこうと思って机を見ると。
紙は消えていた。
ただ。
ノートの一番後ろのページに。
自分の字ではない文字が残っていた。
『神谷千鶴』
その横に。
鉛筆で小さく、赤い靴が描かれていた。
第二話を読んでいただき、ありがとうございます。
何も起きない夜もある。
けれど、「何も起きなかった」ことと、「何も持ち帰らなかった」ことは同じではないのかもしれません。
少女は、この夜から「メア」になりました。
次回も、昨日まで普通だったものが一つだけずれていきます。




