↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/7

第一話 赤い靴

夜八時の学校には、昼間とは違う音がある。


空調の低い唸り。

職員室から漏れる話し声。

窓の外を走る車。


そして、そのどれにも混じらない音。


――コッ。コッ。パ。

忘れ物に気づいたのは、学校を出てからだった。


明日の一限目で提出するプリント。


机の中へ入れたままなのを思い出して、私は正門の前で立ち止まった。


スマートフォンを見る。


午後七時四十八分。


まだ先生はいる。


戻って取ってくるだけなら、それほど時間もかからない。


そう思って、私はもう一度校舎へ入った。



昼間とは違って、夜の学校は妙に広い。


怖い、と言うほどではない。


職員室にはまだ明かりがついているし、廊下の向こうから先生たちの話し声も聞こえる。


外では車が走っている。


自動販売機も、いつもと同じ低い音を立てていた。


だから、廃校を探検しているような非現実感はなかった。


ただ。


人がいないだけだった。



教室へ戻ってプリントを取り、鞄へ入れる。


そこでそのまま帰ればよかった。



教室を出た時。


音がした。



コッ。


コッ。


パ。



私は立ち止まった。


何の音だろう。


廊下の向こうを見る。


誰もいない。



コッ。


コッ。


パ。



今度ははっきり聞こえた。


何か硬いものが床へ当たる音。


二回。


それから、少し間が空いて一回。



「……けんけんぱ?」



自分で口にしてから、少し笑いそうになった。


高校生にもなって、夜の学校で誰がそんな遊びをするというのか。


でも、それ以外に似た音を思いつかなかった。



コッ。


コッ。


パ。



音は本館の西側から聞こえていた。



私の教室とは逆方向。


三階西側の廊下。


その先には、今は倉庫として使われている旧音楽室がある。


壊れた譜面台や昔のAV機器、文化祭で使った道具なんかが詰め込まれているだけの部屋だ。


昼間ですら、用事がなければあまり行かない。



帰ろう。


そう思った。



コッ。


コッ。


パ。



また聞こえた。


同時に、廊下の照明が一度だけ瞬いた。



「……誰かいるの?」



返事はない。



職員室へ行って先生に言おうか。


そこまで考えて、やめた。


たぶん部活帰りの生徒だ。


誰かが遊んでいるだけなら、わざわざ先生を呼ぶのも大げさだろう。



私は西側の廊下へ向かった。



角を曲がる。



最初に見えたのは、白い丸だった。



床に、白い輪が並んでいる。


一つ。


二つ。


三つ。



数えながら視線を奥へ送る。



四。


五。


六。


七。



全部で七個。



チョークで描いたような輪が、廊下の中央へまっすぐ並んでいた。


そして、その先に。



女の子がいた。



旧音楽室の前。


裸足だった。



白いブラウス。


暗い赤色にも茶色にも見える、少し古めかしいスカート。


腰より長い黒髪。



最初は後ろ姿しか見えなかった。


小柄な子だった。


一年生だろうか。


でも、学校指定の制服ではない。



女の子は片足で白い輪を踏んでいた。



コッ。



次の輪へ。



コッ。



両足で着地する。



パ。



音の正体は、やっぱりけんけんぱだった。



「……何してるの?」



声をかけた。



少女の動きが止まった。



静かに振り返る。



そこで初めて顔が見えた。



知らない子だった。



長い黒髪。


妙に白い肌。


大きな目。



怖い顔ではない。


むしろ、少し幼く見える。


十五、六歳と言われても納得できそうだったし、よく見れば自分と同じくらいにも思える。


少女は私を見つけると、少し笑った。



「ねえ……」



声も普通だった。



「なに?」



少女が私の足元を指さした。



「それ、こっちまで持ってきて?」



「それ?」



私は足元を見る。



赤い靴が落ちていた。



片方だけ。



いつからあったのだろう。


さっき廊下へ入った時には、気づかなかった。



古い赤色のストラップシューズ。


小さな擦り傷。


錆びた金具。



子ども用にも見える。


少なくとも、目の前の少女の足には小さすぎる気がした。



「これ?」



「うん」



「あなたの?」



少女は自分の裸足を見た。



それから、なぜか不思議そうに私を見る。



「私のはあるもん」



「……ないじゃん」



「あるよ」



「どこに?」



少女は少し考えた。



「あるの」



会話になっているような、なっていないような。



私は赤い靴を拾った。



冷たいと思っていた。


でも普通だった。


革の感触。


少し硬くなったストラップ。


金具も触れればちゃんと冷たい。



何も変なところはない。



「そっち行けばいいの?」



「うん」



少女は嬉しそうに頷いた。



私は一歩進もうとした。



「そこ」



少女が言った。



「え?」



「丸の中」



白い輪を見る。



「これ踏むの?」



「けんけんぱ」



「普通に歩いたらダメ?」



「今日はそれ」



今日は。



その言い方が少し引っかかった。



「昨日は違ったの?」



「うん」



「昨日は何だったの?」



「忘れた」



少女は笑った。



冗談を言っている顔には見えない。



私は白い輪を見る。



七個。



別に踏んだからといって何かあるわけでもないだろう。


先生に見つかったら何をしているのかと思われそうだけれど。



私は最初の輪へ右足を入れた。



コッ。



廊下に音が響いた。



二つ目。



コッ。



三つ目。



両足。



パ。



少女が楽しそうに笑った。



「上手」



「これくらい誰でもできるでしょ」



四つ目へ足を入れた瞬間だった。



足首を掴まれた。



「っ……!」



反射的に下を見る。



何もない。



でも、確かに触られていた。



冷たい指。


足首を一周するように。



私は急いで足を抜いた。



感覚も消えた。



「……今、誰か触った?」



少女は首を傾げる。



「誰が?」



「足」



「見えなかったよ」



「でも掴まれた」



「そうなんだ」



「そうなんだって……」



もっと驚くと思った。



少女は輪を見ている。



「今日は足なんだね」



私は顔を上げた。



「今日?」



「うん」



「前にもあるの?」



「あるよ」



「何が?」



「いろいろ」



少女は本当に楽しそうだった。



私は足首を確認する。



赤くもない。


傷もない。



触られた感触だけが残っている。



「……帰ろうかな」



そう言うと。



少女は少しだけ残念そうな顔をした。



けれど、止めなかった。



「うん」



それだけだった。



「怒らないの?」



「なんで?」



「靴、持ってきてって言ったから」



「また今度でもいいよ」



あまりにも普通だった。



私は手の中の赤い靴を見る。



ここまで来て、あと四つ。



……いや。


三つだっただろうか。



輪を数える。



一。


二。


三。


四。


五。


六。


七。



七個。



ちゃんと七個ある。



なのに、一瞬だけ八個あったような気がした。



「……やっぱり行く」



少女が笑った。



「うん」



四つ目。



今度は何も起きない。



五つ目。



コッ。



足元が濡れた。



「うわっ」



水を踏んだような感覚。



冷たい。



靴下まで水が染み込んだような、不快な冷たさが足へまとわりつく。



でも。



床は乾いていた。



靴も乾いている。



私は足を上げる。



水滴一つない。



「……濡れた」



「うん」



「見えてる?」



「何が?」



「水」



少女は床を見る。



「ないね」



「でも濡れた」



「じゃあ濡れたんじゃない?」



「服、乾いてるけど」



少女は少し考える。



「じゃあ乾いてるんじゃない?」



「どっちなの」



少女が笑った。



「どっちだろうね」



六つ目。



何もない。



七つ目。



両足で着地する。



パ。



瞬間。



耳元で声がした。



――帰って。



私は振り返った。



誰もいない。



廊下には私と少女だけ。



遠くから職員室の話し声。


空調。


車。



いつもの学校の音。



「今……」



少女がこちらを見る。



「何?」



「誰か、帰ってって」



少女の笑顔が少しだけ薄くなった。



「誰の声?」



「分からない」



「知ってる人?」



私は答えようとして。



言葉に詰まった。



聞いたことがあるような気がした。



でも誰なのか思い出せない。



母親?


違う。


先生?


違う。



もっと近い誰か。



「……分からない」



少女は私をしばらく見ていた。



それから。



「そっか」



とだけ言った。



いつの間にか、私は少女の目の前まで来ていた。



振り返る。



白い輪は消えていた。



「え?」



床を見る。



何もない。



チョークの跡すらない。



「さっきまであったよね?」



「何が?」



「輪」



少女も廊下を見る。



「あったね」



「消えてる」



「終わったからじゃない?」



「何が?」



「けんけんぱ」



少女は当然のように答えた。



私は手に持っていた赤い靴を差し出す。



「はい」



少女は受け取らない。



「?」



「これ、持ってきてって言ったでしょ」



「うん」



「だから」



「それ、私のじゃないよ」



私は動きを止めた。



「……え?」



少女は裸足の自分の足を見る。



「言ったでしょ」



「私のはあるもん」



「じゃあ、これ誰のなの?」



少女は赤い靴を見る。



それから。



私を見る。



「あなたのじゃない?」



「私こんなの持ってない」



「うん」



「じゃあ違うでしょ」



「たぶんね」



また会話にならない。



私は靴を見る。



「じゃあ、なんで持ってきてって言ったの?」



少女は少し考えた。



長い黒髪が肩から落ちる。



「途中で終わったら嫌だから」



「何が?」



「遊び」



それだけ言って、少女は旧音楽室の扉へ向かった。



「ちょっと待って」



振り向く。



「名前は?」



少女は首を傾げた。



「名前?」



「そう。あなたの」



「いる?」



「呼ぶ時困るから」



少女はしばらく考えた。



本当に、自分の名前を思い出そうとしているようには見えなかった。



「じゃあ」



少し笑う。



「好きなのつけて」



「そんな適当でいいの?」



「うん」



その時。



職員室の方から遠く声が聞こえた。



「まだ誰か残ってるのかー?」



先生だった。



私は反射的に振り返る。



「すみません! 今帰ります!」



声を返して。



もう一度、少女の方を見る。



誰もいなかった。



旧音楽室の扉だけが閉まっている。



「……え?」



廊下の端まで見る。



いない。



走れば隠れられる場所なんてほとんどない。



旧音楽室の扉へ近づく。



鍵が掛かっていた。



窓から中を見る。



壊れた譜面台。


積まれた段ボール。


古いテレビ。



人はいない。



私はその場にしばらく立っていた。



そして。



自分の右手を見る。



赤い靴も消えていた。



     ◇



「何してたんだ?」



一階まで降りると、教師に声をかけられた。



「三階で……」



言いかけて、やめた。



何と言えばいいのか分からない。



「ちょっと、人と話してました」



「人?」



「女の子がいて」



教師の顔が変わった。



ほんの少し。



「三階の西側?」



「はい」



「……何年生?」



「分かりません。制服じゃなかったので」



教師は黙った。



「先生?」



「いや」



すぐに笑う。



「もう遅いから帰りなさい」



「はい」



「あと」



階段へ向かおうとした私を呼び止める。



「西側の廊下、夜はあまり行かない方がいいぞ」



「なんでですか?」



「暗いし、物も多いから危ない」



それだけだった。



けれど。



教師は一度も、


『そんな女の子はいない』


とは言わなかった。



     ◇



帰宅したのは八時半過ぎだった。



家はいつも通りだった。



母がテレビを見ている。



台所から夕飯の匂い。



玄関の明かり。



全部、普通。



「ただいま」



「おかえり。遅かったね」



「忘れ物取りに戻ってた」



「先に連絡してよ」



「ごめん」



靴を脱ぐ。



その時。



私は足を止めた。



右足の靴底。



白い粉が付いていた。



左にはない。



右だけ。



チョークのような、細かな白い粉。



私は指で触った。



普通の粉だった。



廊下の白い輪は消えていた。



ここまで歩いてきた。


学校の階段も降りた。


外も歩いた。



それなのに。



粉はまだ付いている。



その夜。



布団へ入ってからも、あの少女のことを考えていた。



名前のない女の子。



裸足。



赤い靴。



七つの輪。



そして。



耳元で聞こえた声。



――帰って。



あれは誰の声だったんだろう。



目を閉じる。



静かな部屋。



時計の秒針。



遠くを走る車。



それだけ。



私は眠ろうとした。



コッ。



目を開けた。



聞き間違いだ。



コッ。



身体を起こす。



音は。



部屋の外。



廊下から聞こえた。



少し間が空いて。



パ。



私はしばらく、扉を開けることができなかった。

第一話を読んでいただき、ありがとうございます。


「夜の学校で、昨日まで普通だった日常が一つだけ食い違う」を軸にした連作ホラーです。


赤い靴の少女と白い輪が何なのか。

主人公が拾ったものは、本当にただの落とし物だったのか。


少しずつ続きを描いていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。