初めての喧嘩
「ニア? どうしましたか?」
穏やかな声が、鍵盤の音に溶けて響く。
今日は、フィリアにピアノを教えてもらう日だった。
彼が奏でる音は、いつもやさしくて。
触れるだけでほどけていくような旋律が、私は好きだった。
だから、この時間は――ずっと楽しみだったのに。
けれど今は。
胸の奥に、薄く影が落ちている。
同じ椅子に並んで座り、鍵盤に触れていたフィリアが、こちらへ視線を向ける。
その仕草も、いつもと変わらないはずなのに。
――違う。
最近、ずっと感じている違和感。
確証なんてない。それでも、目を逸らせなかった。
「ねぇ……いつまで、手袋してるの?」
指先が、わずかに強ばる。
一か月ほど前。
魔物討伐から帰ってきた夜、フィリアには会えなかった。
翌朝、食卓で顔を合わせたとき――彼は白い手套をはめていた。
(瘴気に当てられたから、浄化に時間がかかるって……そう聞いたけど)
それから騎士団は急に慌ただしくなって、エドワードも、アルティアも、アイリアナも、屋敷に来なくなった。
けれど――
(……嘘)
胸の奥で、確信に近い何かが静かに沈む。
三年間。私はただ守られていただけじゃない。
瘴気に侵された手が、こんなふうに繊細に鍵盤を弾けるはずがない。
医療書には、動かすだけでも激痛が走ると書いてあった。
それに。
どれほど強い魔物であろうと、フィリアほどの魔力量を持つ人が、浄化に一か月もかかるはずがない。
(フィリア……もしかして)
視線を向ける。
藍色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
その一瞬で、何かを悟ってしまった気がした。
私はそっと椅子から降り、一歩、距離を取る。
「ニア?……すみません。実は浄化は終わっているのですが――」
「そんなに警戒しなくたって、触らないよ!!」
言葉を遮るように、吐き出す。
自分でも驚くくらい強い声だった。
音の残響がまだ漂う中、私はその場から逃げ出した。
廊下へ飛び出す。長い廊下を、ただ走る。
(……知られた)
胸が苦しくなる。
(心を読んでるって……きっと、知られてしまったんだ)
だから。
(気持ち悪いって、思われたんだ……)
視界が滲む。足音が、やけに大きく響いた。
振り返らなくても分かる。
フィリアなら――本気で追えば、すぐに捕まえられる距離。
それでも、足音は追ってこない。だから余計に、胸が痛む。
(ほら……やっぱり)
息が上手く吸えない。
(図星、だからだ……)
こぼれた涙が、床に落ちた。
感情のまま足を動かす。あと少しで、屋敷の門を潜り抜けようとした時。
ピシッと音を立てて大きな門が凍った。
「きゃっ」
思わず尻餅をついた。
見上げえると屋敷を囲む重厚な門は、隅々まで白く凍りついていた。
黒鉄の装飾には霜が幾重にも重なり、触れれば砕け散りそうなほどに冷たく硬く固まっている。
わずかに吹き抜ける風さえ、氷を擦るような乾いた音を立て、門はまるで時を止められたかのように沈黙していた。
――屋敷の門は、完全に氷に閉ざされていた。
「ニア様!」
リリィが後ろから走ってきて私を立たせてくれる。
「駄目ですよ、勝手に外に出ては!」
そう言いながら、お尻に着いた砂を払ってくれた。
ぽろぽろ涙を流す私に優しく微笑むと、白布で涙を拭いてくれる。
(フィリア様も…話してくださらないし…ニア様を頼む。とだけ言って騎士団本部へ行ってしまわれた)
リリィの動揺している声が流れて、余計に涙が溢れた。
既に、この短時間でフィリアは屋敷を出ていた。
そして、私が出ないように門を凍らせるなんてフィリアの持つ氷属性の魔法だと分かる。
(嫌いになるなら…私の事なんて放っておけばいいのに)
結局その日は、部屋に戻って一人にしてほしいと告げて閉じこもっていた。
深夜。静かに帰宅したフィリア。
皆寝静まったかと思えば、ホールには仁王立ちしているリリィが怒りの表情で迎えてくれた。
「…分かってます。ですが、もう少しだけ待ってください」
「何をですか?!ニア様の不安を除く事より大事な事があるんですか!!」
小声で話しながらも、激しい怒りが突き刺さる。
「どうか…リリィ、私の代わりに傍にいてください」
納得のいかないリリィでも、主がここまで使用人にお願いをするのは、相当の理由があることは理解できている。それはきっとニアの為だということも。
しかしリリィは、どうしてもニアの悲しい顔を見ているのが辛かった。
「…分かりました」
「お願いします。頼りにしていますよ。また明日から、しばらくは騎士団本部で寝泊まりしますね」
「?!?!」
「抑えてくださいリリィ…」




