Episode.44
アザリーを乗せた馬車を、皇妃は白銀宮の窓から見送った。
「そのように回りくどい事をなさらずとも、お連れしますのに」
背後から聞こえた声に皇妃は振り向いた。しかしそこには何者もいない。特に驚かず、視線を窓の外に戻して返答を返した。
「いいのよ。一介の伯爵令嬢が、急に皇妃である私に呼ばれたらおかしいでしょう?」
「それはその通りですが、アランドラ様のお手を煩わせずとも…」
どこからともなく聞こえる声に、皇妃は短く息を吐く。
「それよりタナトスからラウザーに書面は送ったの?」
そう問うと、皇妃はカーテンを閉めた。誰も居なかったはずの場所に、黒い衣装に身を包んだ男が現れた。
ラウザー公爵家にも影がいるように、クロイツ公爵家にも表に出ず動く者達がいる。
「ええ。数日前に公爵邸に届き、公爵が困惑していたようです」
「ふふ…それはそうでしょうね」
慌てるラウザー公爵の事を思うと、嘲笑が漏れてしまう。
「殿下の書面も、先ほどアウグスタへ届けました」
「……そう。皇太子に動きは?」
「ありません」
とりあえず指示通りに事が運んでいるようで安堵する。
「今日は久しぶりにアザリーに会えて良かったわ」
「さようでございますか」
「ええ。相変わらず、御し易そうで安心したわ。例のご令嬢も、そうだと良いわね」
皇妃は微笑った。冷ややかに。
――宵も深まり始めた頃。アウグスタ子爵邸の自室で、ミネルバは子爵に渡された鉱山の資料を広げていた。
明日の朝までに読み込んでおこうとしていたのに、広げているだけで内容が一向に頭に入って来ない。
「はぁ…」
ミネルバはため息をついてソファーに身体を沈めた。
昼間、食堂の一件から頭が働かない。理由はもう明確だ。認めれば、自分が惨めになりそうなのでミネルバはこの感情から逃げていた。
(でも、もう駄目ね)
目を閉じると、一番最初に浮かぶ紫暗の瞳。潔く認めてしまおう。ミネルバはシリルが好きなのだ。おそらく、夜会で救けてもらってからずっと。
論文を読んでからのただの憧れだと片付けるには、ミネルバの感情が大きくなり過ぎていた。
「嫌だな……」
ポツリと出た言葉に、ミネルバは悲しくなった。初恋なのに。もう少し浮かれた気分で噛み締めたかった。出来るなら夜会の日に戻りたい。シリルが婚約を申し出てくれたあの瞬間に。今ならば二つ返事で返事をすると言うのに。
いや、返事をしたところで変わらないかもしれない。次に会った時にはすでに考え直していたのだから。
なまじ仲良くなったが為に、これからシリルが他の令嬢と出会い、婚約し、結婚する様を見る羽目になるのだ。
それでも、距離を置こうと思いはしなかった。
可愛いと言ってくれた。卑下する必要はないと言ってくれた。充分ではないか。
「お父様にお願いしてみよう」
自分には縁がないと思っていたから、たとえ好きな人が出来ても、違う人の所へ嫁げると考えていたのだ。しかしこんな気持ちのまま、新しく婚約者など迎えられるはずもない。出来ることならやはり、嫁がずにアウグスタの力になりたい。
ミネルバはソファーから立ち上がると、父の執務室へ向かった。
アウグスタ子爵の執務室にはもう夜も深くなると言うのに、使用人が数人集まっていた。
ミネルバが産まれた頃から仕えている、執事のジョシュアに声をかける。
「ジョシュア?どうしたの。何かあったの?」
ジョシュアはミネルバを見つけると、固い声で言った。
「お嬢様、今呼びに行こうと思っておりました。旦那様がお呼びです」
ジョシュアの緊張したトーンの声を聞き、ミネルバは思わず身構えた。そして恐る恐る執務室の扉を開いた。
「お呼びですか?お父様」
窓辺に立つアウグスタ子爵は珍しく怒りに満ちていた。いや、最近ではよく見る光景かもしれない。アレックスに頬を叩かれた時も、子爵は激しく怒った。
(短期間で父を何度も怒らせるなんて、親不孝で申し訳ないわ)
ミネルバは心の中で父に謝罪して近くに寄った。
「すまないな。夜に呼び出して」
「いえ‥‥これは?」
アウグスタ子爵は険しい顔をして、書簡を差し出した。うちに届く書信にしては、珍しい家紋の印象が押してある。
「クロイツ公爵家から……?珍しいですね。拝見しても?」
子爵が頷くので、ミネルバは緊張して書簡を開いた。
「え……」
思わず声が漏れる。簡潔な文章だったが、意味が分からない。
「第二皇子との婚約……?何故私に?本気でしょうか……!しばらく私には縁談は来ないと……」
ミネルバは取り乱し、父を見上げた。子爵も苦渋の表情を浮かべている。
「クロイツ公爵家から送られて来た所を鑑みても、陛下はご存知ないのだろう」
「そんな……」
ミネルバが書簡を返すと、子爵は顔を歪めて受け取った。書簡を握り潰してしまいそうな雰囲気だ。
「おそらく皇妃様の一存だろう。ちょうど陛下は数日前から隣国へ訪問されている。思いつきなのか理由があるのか……ヴィクトルに探らせてはみるが…一応ミネルバにも伝えておこうと思ってな」
ミネルバの兄、アウグスタ子爵家の長男ヴィクトルは、財務や外交などの実務経験を積むため皇城に出仕している。
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