Episode.4
「うるさいっ!」
甲高い声で喚くと、リリーアは掴んだグラスをミネルバに投げた。
ガラスの割れた音と、バシャッと水の弾ける音がホールに響く。
咄嗟に目を瞑ったミネルバは、濡れていない自分に驚いた。
「ご無事ですか?」
変わりにグラスの水を浴びたシリルが、前髪を掻き上げてミネルバを覗き込む。
(水で良かった。ミネルバ嬢も濡れていないようだし)
ミネルバに怪我がないか確認していると、ミネルバ嬢が奇怪な声を出した。
「ち、近いです‥」
顔が真っ赤だ。慌てて顔を離すと、周囲から黄色い声が上がった。
「きゃあっ」
「まぁ‥‥なんて麗しいのかしら」
「アレックス様と瓜二つね。だけどシリル様の方が素敵だわ」
顔を覆っていた前髪を上げたので、視界が広がった。アレックスが何故か悔しそうに自分を見ている気がする。
(何だ?)
不快な目付きだ。睨み返すとアレックスから目を逸らした。
「皇帝陛下のおなりです!」
皇帝の到着の声がホールに響くと、人垣が割れた。黒地のマントを翻し、皇帝は真っすぐこちらへ向かっている。後ろに控えているのはラウザー公爵。シリルとアレックスの父だ。‥‥‥‥ものすごく渋い顔をしている。
「何の騒ぎだ‥‥と言いたいところだが、一部始終を見させてもらった。公爵、そなたの息子達が騒ぎを起こした様だな」
皇帝の低く響く声に、ラウザーは頭を深く下げた。
「愚息達が申し訳ありません」
皇帝はアレックスを見、シリルを見、ミネルバを見た。
「ふむ。ラウザー令息達の処分は追って知らせよう。お前達は今日は下がりなさい。アウグスタ嬢、私の甥がすまない事をした。謝罪も後日正式に行う」
「とんでもないことでございます」
ミネルバも頭を下げる。
「シリル。そなたがアウグスタ嬢を送ってあげなさい。アレックスはしばらく謹慎だ」
「はい」
「なっ‥‥」
口を開きかけたアレックスを、シリルは睨んだ。
「アウグスタ嬢、行きましょう」
シリルが言うと、ミネルバは皇帝に一礼して歩きかけだが、ピタリと止まった。
「陛下、アレックス様にお伝えしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「許可しよう」
皇帝が頷くと、ミネルバはアレックスに向き直った。
「アレックス様。嫌がらせの件は否定致しますが、婚約破棄は喜んで承諾致します。私も望んでおりましたので」
ミネルバは今日一番の美しい笑みを称えてカーテシーをとった。
「では」
周囲に余韻が残るほどの美しい所作だった。シリルも目を奪われた。あれがアレックスに向けたものだと思うと、なんとも腹立たしい。
そのまま出口へ向かうミネルバを、シリルも追った。
シリルはすれ違い様にアレックスに呟いた。
「謹慎で済むといいな?」
顔は見えないが、どんな表情をしているか容易に想像が付く。
ホールから出ると外は暗くなっていた。二つの月が高い位置まで昇っている。
エスコートをしようとミネルバに手を差し出したが、なかなか手をとってもらえない。
「‥‥‥アウグスタ嬢?」
ミネルバの顔を見ると、まだ顔が赤い。先ほどの毅然としたカーテシーの時の顔と違い過ぎて、シリルの心臓がまた跳ねる。
「どうしました?あ、私が濡れているからですね」
頭と左肩は濡れたものの、その他は大丈夫なはずだ。ミネルバを濡らす程ではない。
「大丈夫ですよ。右手は濡れていません」
シリルが弁解すると、ミネルバが首を振った。
「そ、そうではありません。ラウザー令息、そのまま同じ馬車に乗るつもりですか?私の目に毒ですので‥‥できれば‥‥」
ごにょごにょと語尾が聞き取れない。
(俺に送ってほしくないのか?)
だとしても、この役目を誰かに譲るつもりはない。
シリルは困ったが、なんとか腕を握らせ馬車まで連れて行った。
馬車で手を握りしめ、無言で座るミネルバにシリルは優しく言った。
「元婚約者と同じ顔が見えると嫌ですよね?前髪を降ろしましょうか」
シリルが言うと、ミネルバは顔をパッと上げた。
「いいえ。シリル様とアレックス様は全くちがいます。目の色も、大人っぽい雰囲気も‥‥あの、寒くありませんか?」
心配してくれるミネルバに、シリルは思わず顔が緩む。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。このくらい平気ですよ」
微笑んで言うシリルに、ミネルバは顔を真っ赤にしてぱくぱくと声なき声を出した。
(も、ものすごく緊張させているようだな)
なんだか申し訳ない。シリルにとっては嬉しい時間だが、ミネルバにとって寛げない時間になっている。
「気を使いますよね‥‥」
しょんぼりと言うと、ミネルバが慌てて言った。
「あ、いえ。気を使うと言いますか、シリル様が濡れてらっしゃるから緊張して‥‥」
ミネルバが下を向いて話すので、思わず覗き込んでしまった。
「何故です?」
前髪からぽたりと雫が落ちた。馬車内が狭いため、雫はミネルバの膝に落ちる。ミネルバは顔を赤く染めたまま、口を開いた。
「う、その、今日のシリル様は大人の色香のようなものが‥‥」
(大人の色香‥‥?)
よく分からないが、実年齢はミネルバと同じ16だが、前世の享年35歳と、転生からの年齢を足すと、精神年齢がミネルバとかけ離れている。
(老けているということだろうか)
仕方ないことだが、地味にショックを受ける。
(まあ考えても仕方のない事だ)
気を取り直して前を向く。戸惑いつつ火照った顔で座るミネルバを見つめる。
(その顔を止めてもらえないだろうか)
伏せ気味の潤んだ瞳に、まつ毛の影が映る。赤く染まった頬を手で掴んで、小さな口にかぶりつきたくなるような、抱き寄せたくなるような強い欲求が産まれた。
咄嗟にシリルは自らの頬を打った。
「えっ、どうしました?」
驚くミネルバの顔を直視できず、窓に視線を移して言った。
「お気になさらず」
外を見ながら、シリルは考えた。
(――さて、これからどうやってこの子を口説いていこうか)




