Episode.23
「ミネルバ、ミネルバ?」
心ここにあらずなミネルバの目の前で、アリアが手を振ってみせた。
ミネルバはシリルと別れたあと、どうやって第三食堂に入り、席を確保したのか覚えていない。
アリアが買って来たサンドイッチを落としてしまいそうなミネルバに、アリアは怪訝な声を出した。
「私がいない間に何かあったの?」
「何もないけど?」
ミネルバは食い気味に言った。
――そうだ。何もなかった。手にキスなんて、理由などない。挨拶以上の意味なんて、ある訳がない。
(シリル様はまだ社交に疎いみたいだから)
次に会った時に言っておかねば。手の甲にキスをする挨拶は、帝国では流行っていないと。
先程は頭が真っ白になり、言えなかったことが悔やまれる。会うたびにあんな挨拶をされては、たまったものではない。
ミネルバは気持ちを落ち着かせて、サンドイッチを口に運んだ。アリアが好きで、ミネルバも好きになったサーモンカツサンド。
「やっぱり美味しいわね」
ミネルバがそう言うと、アリアは小さく息を吐いた。
「さて、じゃあ色々と話してくれるのよね?」
「ええ。そうね、皇城の夜会でね‥‥――」
ミネルバはアリアに一通り話した。夜会でのアレックスからの婚約破棄の宣言。冤罪での断罪劇。アレックスの傍らにはリリーア嬢がいたこと。
まだ二月も経っていないというのに、ずっと前の事のように感じる。
「なに、それ」
アリアはミネルバの話を聞いた途端、ぐしゃりとサンドイッチを握り潰してしまった。
「アリア、落ち着いて」
慌ててミネルバはナプキンを差し出す。
「不敬だけれど、前々からどうしても気に食わなかったのよ、アレックス様は!だからリリーア嬢を進級式でも今日も見かけないのね。リリーア嬢の取り巻きの令息達も見掛けないし」
眉をつり上げて怒るアリアを見て、ミネルバは更にアレックス達の事はどうでも良くなった。
(心配されるって嬉しいことなのね)
「とりあえず、婚約は破棄されたのよね?」
「ええ」
「だったら、私の弟はどう?ミネルバと姉妹になれたら楽しそうだわ」
「まぁ!ふふ。いいわね、それも」
実際にはそんな事は起こらないが、アリアの気遣いが嬉しい。ミネルバは『公爵令息との婚約が白紙になった令嬢』だ。いわゆるキズモノになる。
それこそ皇命でもない限り、ミネルバがどこかへ嫁ぐのは難しくなるだろう。
(その方が気楽でいいわね。お兄様達の手伝いをしながら、領地を豊かにして行く方がやりがいがあるもの)
◇
「198、199、200‥‥」
騎士科の鍛錬場。シリルは雑念を払おうと素振りをしていた。
手の甲へのキスは、自分でもやり過ぎたと思っている。帝国では一般的ではないのだから、ミネルバが嫌がっていたらどうすれば‥‥。ミネルバの顔を見るのが怖くて逃げるように第三食堂から離れたのだ。
鍛錬場の入口に人影が見えた。ライナスが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「変わった素振りですね」
シリルはライナスをチラリと一瞥して言った。
「そうだろう?」
獲物は木剣だ。この世界で使うことのない、竹刀に見立てて素振りをしていた。
考えてみれば、シリルの前世での趣味は、妹の異世界小説を読むことを除けば、"引き篭もりシエル"とさほど変わらない。
幼い頃からやっていた剣道と、筋トレだ。筋トレはやればやる程成果が出るから止められず、剣道も小学校低学年の頃から続けていた。
試合が始まる前の、しんとした静かな集中時間が好きだった。社会人になっても続けていた程だ。有段者でもある。
(引き篭もりのくせに剣術が好きだったのは、前世の影響か?)
これは考えても分からないことだが。
柄を両手で握らず、左手だけで持ちあげて振り下ろす。軸がぶれないように。振り下ろす際には足が自然とすり足で前に出る。そしてまた下がる。
どう見てもこの世界では馴染みのない素振りを、シリルは毎朝早朝1人で行なっている。
昼食時の鍛錬場には誰もいない。そう思いシリルも素振りをしていたのだ。
(ライナスには見られても大丈夫だろう)
ライナス本人がどう思っているかは知らないが、シリルはライナスを内側の人間だと思っている。奇行を見られても良い程度には。
という訳で、そのまま素振りを続ける。
「で、どうだった?公爵が皇城へ呼ばれた理由は分かったか?」
視線は前に向けたままシリルは聞いた。
「はい。アレックス様の謹慎をそろそろ解くようにとの皇帝陛下からの提案でした」
「早いな?まだ一月しか経っていないぞ」
不祥事を起こした場合の有名人とは違うのか。
「こんなものでしょう。アレックス様はラウザー公爵家のご子息ですから」
淡々と言うライナスをジロリと見る。今までもこれからもアレックスを守っていく権力だ。シリルも同様に。
今回の件で少し剥げただろうが、もう少し剥いでおきたい。
読んでいただきありがとうございます。
筆者は一応剣道経験者なのですが、剣道に対して不自然な描写があれば申し訳ありません。
シリルがしている素振りは、剣道の二挙動の素振りです。
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