Episode.22
シリルは自分を買いかぶり過ぎていた。
何が『名前も呼び合える仲』だ。ミネルバはシリルが用もなく来ることなどありえないと思っている。
さらにわざわざ来なくていいから手紙で充分だ。とも、思っている。
昨日の上昇した気分は一気に急降下し、なんなら泣きそうな気分だ。ただでさえミネルバと同じ教室に男が溢れかえっていて、気分が悪いというのに。
まだ友人にさえなりきれておらず、シリルの心は折れそうになった。
だが、手は繋いでくれる。この貴族社会で、未婚の令嬢がエスコートを受けることはあっても、手を繋ぐことはなかなかないのではないだろうか。それこそ、好意や親しみがない限り。
離し難くて、無意識に捕まえてしまうほど俺は嬉しかったのだが、ミネルバにとってはそうじゃない。なんというか、ミネルバにそういう対象として見て貰えていない気がする。
‥‥盛大なため息も吐きたくなる。
(ミネルバ嬢は押しに弱いみたいだ)
頬を膨らます程怒っても、殊勝な顔で謝れば許してくれる。
ミネルバを見ると、あんなに怒っていたのにすぐに許してしまい居心地が悪いのか、視線がそっぽを向いている。
(ミネルバ嬢は可愛くない時がないのか?)
‥‥‥もう少し仲良くなりたい。それには、この世界の身分は邪魔でしかないなとシリルは思った。
「ミネルバ嬢、私‥‥いや、俺はもっと貴方と親しくなりたいのです」
ミネルバの口がパカっと開いた。更に目もまん丸に開く。
「えっ。何故です?」
その表情を見ても、今気持ちを伝えるのは絶対に違う。早すぎる。シリルはぎこちない笑顔を顔に張り付けて思案した。
「き、興味があるから‥‥」
(もっとマシな言い方はないのか)
自分がいたたまれず、冷や汗が出る。シリルの言葉に、ミネルバの表情が変わった。
「えっ‥‥私も、私もシリル様に興味がありました」
空色の瞳がきらきらと光る。シリルは急上昇する感情を無理やり押さえつけた。
(――落ち着け。そんな訳がない)
「どういうことでしょう?」
感情を凪いだ状態に持っていき、落ち着いてシリルは聞いた。するとミネルバの目は更に輝き、高揚して語り始めた。
「私、実はシリル様の論文をいくつか読んだことがあるのです。お会い出来たら聞きたいことがたくさんありました。例えば三年前に出されていた『乾燥地帯における農業改革と治水技術』の事や、『魔道具産業が帝国経済に及ぼす影響』など、とても興味深かったです」
「‥‥‥‥」
気持ちを落ち着かせて良かった。やはりミネルバにはシリルに対する男女の感情はなく‥‥‥シリルの論文に対する熱意を延々と語られた。
嬉しくないかと言えば、そうではない。ミネルバがずっと前から、自分の事を認識してくれているとは思わなかった。
「ミネルバ嬢、本当に俺の論文をちゃんと読んだのですね。驚きました。そんなにリスペクトして貰えていたとは‥‥」
引き篭もりだった頃のシリルは、孤独だと思い込んでいた。誰かと繋がれていたことに胸が熱くなる。
「ミネルバ嬢が最初に読んだ論文、あれはまさにアウグスタ子爵領を参考にして書いたものです」
あの頃だったと思う。ミネルバとアレックスの婚約が決まったのは。シリルは兄の婚約者に少し興味が湧き、アウグスタ領を調べていたのだ。
「シリル様も私に興味を持ってくれていたとは思いませんでした‥‥仲良く、私もなりたいです」
ミネルバが少し恥ずかしそうに微笑う。シリルは胸がぽかぽかと温かくなった気がした。
「では、ミネルバ嬢。‥‥また用がなくとも、会いに来てもいいですか?」
シリルは緊張した。目が泳いでしまう。
ミネルバはにっこりと微笑った。編み込まれた金の髪がふわりと風に揺れる。
「もちろんですよ。あと、ミネルバと、呼び捨てで構いません。話し方も砕けたもので大丈夫です」
予想以上の成果にシリルの顔が緩む。にやける口元を咄嗟に手で隠した。
「では、ミネルバ‥‥」
「はい」
「俺の事も、シリルと呼んでほしい‥‥のですが」
「えっ、それは‥‥ちょっと」
明らかな拒否にシリルは軽くショックを受ける。だが、『軽く』だ。この程度の拒否を重く受け止めていては、心身が保たない事をシリルは学んだ。
「嫌なのですか?」
シリルは意趣返しに意地悪く詰め寄った。
「嫌ではありませんが‥」
ミネルバが一歩下がったが、その分シリルが歩を詰める。
「では、シリルと呼んでほしいのですが」
「ですが、子爵家の者が公爵令息のシリル様を呼び捨てになど出来ません‥‥」
ミネルバの語尾に力がない。触れてはいないものの、詰めよりすぎたのだろう。ミネルバが知らず知らずの内に手を開いて止める仕草を取っている。顔もだんだん赤くなっていく。
(俺の勘だと、嫌がってはいない)
慌ててはいるものの、嫌悪感はなさそうである。試しにもう一歩前に出てみる。
ミネルバの背中が食堂の壁に当たる。もう下がれないと悟ったミネルバは、狼狽えながらシリルを見た。
「シリル様も敬語のままではありませんか」
「ふむ。では俺も敬語を徐々に直すので、ミネルバも俺を名前で呼べるようにしてくださいね」
シリルはミネルバの突きだしていた手をふわりとつかみ、手の甲にキスをした。
帝国では廃れた挨拶の仕方。だが隣国ではまだ多くの貴族がこの挨拶をしている。シリルもこの一ヶ月何度も隣国を訪れていたので、自然と身体が動いた。
「では、また来ます」
シリルは他意のある挨拶を残して、その場を離れた。
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