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亀裂

 それは何でもない火曜日の朝だった。

 誠が出勤したあと、ソファの隙間に夫のスマホが落ちているのを見つけた。充電を忘れて慌てて出たのだろう。麻有子(まゆこ)は連絡してやろうと手に取り、ロックのかかっていない画面に、通知が一件、浮かんでいるのに気づいた。

 佐久間、という名前。登録されていない番号。

 《今回も助かりました。いつもアリバイ作りを手伝ってくれてありがとう。例の件、無事に済みました》

 文面を、麻有子は三度読んだ。

 言葉のひとつひとつは平易なのに、組み合わさると意味が溶けて、頭に入ってこない。アリバイ。手伝う。例の件。無事に。台所の蛇口から水が垂れる音が、急に大きく聞こえた。

 最初に浮かんだのは、不倫の二文字だった。けれどすぐに違うと思い直した。文面は男のもので、しかも、礼を言っているのは向こうだ。手伝ってくれてありがとう――手伝う、というのは、夫が誰かのために何かをしている、ということではないか。アリバイを。

 誰の、何の。

 その日、麻有子は一日中、家事が手につかなかった。スマホを元の場所に戻し、何も見なかったふりをしようとした。けれど、いちど開いてしまった扉は閉じない。台所の片隅で、覗いてはいけない暗い穴が、口を開けているような気がした。

 夜、誠はいつもどおり八時十二分に帰ってきた。たたいま。お帰りなさい。麻有子は努めて普段の声を出した。スマホ、ソファに落ちてたよ、と渡すと、誠は、ああ、ありがとう、と受け取り、それだけだった。表情はひとつも揺れなかった。あまりに揺れなさすぎて、かえって麻有子の背筋を冷たいものが伝った。

 食卓で、誠は煮魚の身をきれいにほぐして食べた。骨だけが皿に残っていく。美味しい、といつもの抑揚で言った。

「ねえ」麻有子は箸を置いた。「佐久間さんって、知り合い?」

 誠の箸が、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だった。それから、ゆっくりと続きの動作に戻る。

「会社の取引先。なんで?」

「ううん。電話の着信があったみたいだから」

「そう」

 それで会話は終わった。誠は何も訊き返さなかった。なぜ夫のスマホの着信を知っているのか、と。普通なら問うはずのことを、彼は問わない。その不自然さに気づいているのは、たぶんこの食卓で麻有子だけだった。

 翌週、麻有子は夫の通っているカフェ〈ルーチェ〉へ行った。会社が終わるより早い、午後四時。誠と鉢合わせしないように。

 古い店だった。(すす)けた天井、まばらな客。麻有子は奥の端の席に目をやった。誠の指定席。今は誰も座っていない。彼はあそこで、毎晩何をしていたのだろう。

 水を運んできた若い店員に、麻有子はさりげなく尋ねた。胸の名札に〈水原〉とあった。

「あの奥の席、毎晩いらっしゃる男性の方、ご存じですか。眼鏡の、四十くらいの」

 水原は、ああ、と笑った。

「高梨さんでしょう。常連さんです。いつも本を読んで」

 麻有子の心臓が、少しゆるんだ。やはり本を読んでいるのだ。夫の言うとおり、ただ。

「でも」水原は布巾で手を拭きながら、何気なく続けた。「不思議な方ですよね。本を開いてはいるんですけど、ほとんど読んでないんです。ずっと、入口のほうを見てて。誰か待ってるみたいに。それで、たまにいろんな方が来て、隣に座って、何か話して帰っていくんですよ。毎回違う人。あれ、お仕事か何かなんですかね」

 布巾を動かす手は止まらない。世間話のつもりなのだ、この店員は。

 麻有子は何かを答えようとして、口が動かなかった。本を読んでいるはずの夫が、本を読んでいない。読書をしに行くのだと、八年間、信じてきた場所で。

 窓の外を、見覚えのある後ろ姿が通り過ぎた気がした。麻有子は反射的に俯いた。心臓が喉までせり上がっていた。

 夫が、知らない人に見えはじめていた。


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