真相
佐久間という男に会ったのは、それから十日後だった。
夫のスマホを盗み見て番号を控え、麻有子は妻だと名乗らずに連絡を取った。高梨の知人だと。佐久間は警戒する様子もなく、駅前のファミレスを指定してきた。
現れたのは、ごく普通の中年の男だった。くたびれたスーツ、平凡な顔。麻有子が想像していた、影のある人物とはまるで違う。彼はコーヒーを頼み、麻有子が高梨の妻だと打ち明けると、ほんの少し驚いた顔をしてから、ああ、と納得したように頷いた。
「奥さんですか。いや、高梨さんにはお世話になってます」
麻有子は単刀直入に訊いた。アリバイ作りとは何か、と。佐久間は困ったように頭を掻いた。
「大したことじゃないんですよ。あの晩、私は妻に内緒で競馬に行ってましてね。負けが込んで、帰りが遅くなった。妻に問い詰められたとき、高梨さんと喫茶店で経済の話をしてた、ってことにしてもらったんです。実際、その時間、私はあの店にいませんでしたけど――高梨さんは、いた、と」
麻有子は息を詰めた。
「あの人が……嘘の証言を? あなたの代わりに?」
「証言っていうか」佐久間はコーヒーをすすった。「高梨さんは、ただ座っててくれるんですよ。あの店の、あの席に。誰かがアリバイを必要としたとき、その人と〈一緒にいたことにする〉ために。SNSで知ったんです。〈アリバイ承ります。料金不要〉って。最初は怪しんだけど、本当に金を取らない。ただ、座ってる」
料金不要。麻有子の指先が冷たくなった。
「なんで……そんなこと」
「さあ」佐久間は肩をすくめた。「私も訊いたんですよ。なんで無料でこんなことを、って。そしたらあの人、なんて言ったと思います。〈誰かのその場所に、自分がいたことにできるのが、いいんです〉って。意味、わかりますか。私にはさっぱりで」
わからなかった。麻有子にも、わからなかった。
その夜、麻有子は誠の帰りを待った。八時十二分。たたいま。お帰りなさい。いつものやりとりのあと、麻有子は食卓に座らず、夫の前に立った。
「佐久間さんに会ったの」
誠の動きが止まった。今度は、長く。やがて彼は、靴下のまま椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねた。叱られるのを待つ子どものように。
「怒ってる?」
「怒ってるんじゃない。怖いの」麻有子の声は震えた。「あなたが、知らない人たちのために、嘘をついて……お金ももらわないで。毎晩、あの席で。なんで。わたしには八年、何も言わないで」
誠はしばらく黙っていた。それから、ひどく穏やかな顔で、こう言った。
「あの席に座っていると、僕は、誰かにとって必要な人間になれるんだ。佐久間さんの、奥さんに対するアリバイ。あの晩、僕は確かにそこにいた。彼と一緒に。――嘘じゃない。僕は本当に、いたんだから。誰かの人生の、いちばん大事な瞬間に、僕がいたことになる。それが」
彼は言葉を探した。
「それが、たまらなく、いいんだ」
麻有子は夫の顔を見た。そこには悪意も、後ろめたさもなかった。罪悪感すらなかった。ただ、満ち足りた静けさだけがあった。それが、何よりも怖かった。
「わたしは」喉が詰まった。「わたしも、そう? あなたにとって、わたしも――そういう、アリバイ?」
誠は、首をかしげた。心からわからない、というふうに。
「どういう意味? 君は僕の妻だよ」
そう言って、彼はいつもの抑揚で、続けた。
「今日も、ご飯、美味しそうだね」
麻有子は何も言えなかった。
その夜から、何ひとつ変わらなかった。誠は毎晩八時十二分に帰り、美味しい、と言って食べ、九時間眠る。完璧な日常は、ひびひとつ入らずに続いていく。
ただ麻有子は、夫の隣で眠れなくなった。規則正しい寝息を聞きながら、ときどき思う。
明日もあの席に、誰かが座りにくる。見知らぬ誰かの人生に、夫はそっと、いたことになる。
では、わたしのこの八年は、誰の何だったのだろう。
窓の外は静かで、答えはどこにもなかった。




