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08 ペンと紙

 別に一生独身で居たい訳じゃ無かった。女だって嫌いじゃ無い。頑張って働いて税金納めている。所謂「普通」の男性である。名田達郎は、それでももう既に自分の人生の可能性について、見きりをつけていた。即ち、自分はもう男女交際も出来ず、良い女に相手にもされず、大して出世も出来ないままに、オフィスの片隅でひたすら仕事に取り組むしか無い孤独な人生になると、悟ってしまっていた。

 達郎は、結婚願望だってあったし、子供だって欲しい。でも、自分の稼ぎではそんなの不可能であると理解してしまっていた。もう未来に何の可能性も見出せない男になってしまった。

 だからこそ、「#アドラー支援」にて、「子守募集」に応募していた。


 佐藤拓も桜田賀雄も、桜田千歳と名付けられた赤ん坊も、3人揃うと幸せ家族に見えなくも無いが、この千歳と名付けられた赤ん坊というのが、可愛いのは見かけだけで、中身は「コンピューター」であった。AIとは違う。あれはそれらしい感情を示せるが、この千歳は入力された事を出力するだけで、何の感情も無い。

 この千歳とのコミニュケーションは、タブレットかペンと紙が必要であった。名田達郎は、そのコミュニケーションがどうにも慣れなかった。

「給料はちゃんと払うから安心してやってくれ」

 佐藤拓はそう言うと、「#アドラー通報」の通報を受けて、示された位置へと向かっていく。

「その子、「アドラー」の母乳を飲んで頭脳だけが異常に発達しちゃっているから、色々と頑張ってね」

 桜田賀雄は、そう言いながら炊事洗濯に汗を流していた。どうやら、2人はこの赤ん坊、千歳を愛しているらしい。

 達郎は、この赤ん坊を試そうとして、紙にペンでこう書く。

「現在にて判明している「アドラー」の情報を述べよ」

 千歳はテーブルの上に置かれたメモ帳を取り出すと、ボールペンにてスラスラと書き始める。

「この地球を支配する統制者1号と2号が、鷲の精神を抱く少年少女達を選別して与えた力が、「アドラー」と呼ばれている」

 そう出力された文章を見て、千歳を再び見る。達郎は、この支援に応じた事を少し後悔していたが、正直隙間バイトだと思えば、条件も待遇もそこそこ良い程度だ。

 そう思っている間に、次の文章が紙に書かれていた。

「俺の何を試そうとしている。何か問題でもあるのか。バイト辞めるか?」

 こいつ、捻くれたコンピューターだな。名田達郎は、そう思いながらも、その後の筆談で数時間は盛り上がっていた。紙チャットとでも呼べる筆談は、メモ帳の半分を使った上で、時間が来たので達郎は帰り支度を始める。その時、千歳は床をバンバンと叩いて、達郎を振り向かせる。

「もう終わりか」

 頷いてみせると、次の1枚を取り出して、サラサラと書いて、こんな事を伝えやがった。

「正社員になって1日8時間働け」

 俺に今の仕事やめろってか。今の仕事をやめて、頭脳がコンピューターの赤ん坊の専属ベビーシッターに転職しろって、そう言うのか。色んな意味でムカつく発言である。そこへタイミング良く賀雄がやってくると、千歳に言う。

「正社員になれって言うのは、1日8時間働けって言うの? そうなると、色々と面倒だから、無理よ。手続きもあるし」

「全部俺がやる。だから雇え」

「ああもう、何時もそうね。あなたは。仕方が無いわね」

 この賀雄、トランスジェンダーらしいが、こうして見ると母親にしか見えない。見た目も悪くは無いことから、声が少し低い事以外には女性のそれとあんまり変わらない。

「手続きは、私が何とかします。だから、何とか仕事辞めてもらえませんか。給与も福利厚生も弾みますから」

 その姿は、子供の我が儘に付き合う母親と同じである。チェッ、やっぱり頭脳は「コンピューター」でも所詮は赤ん坊。こいつと1日8時間付き添い続けると思うと、頭が痛くなる。

「……一晩、考えさせて下さい」

 と言うしか無かった。取り敢えず、この場は誤魔化して、一晩は時間稼ぎすれば良い。


 ……やっぱり、引き受けるか。暗いアパートの天井を仰向けにて見上げながら、名田達郎は思う。あそこでデスクワークを死ぬまで続けるよりも、自分を必要としてくれる人の元で働くのは、悪くない。今は30代前半でも、40代になり、50代になり、その時に何のキャリアもスキルもないままでは、追い出し部屋へ叩き込まれて、自主退職の書類に無理矢理サインさせられるのだ。

 転職先としては、少々アンダーグラウンドな場所であるが、あんな所で働いて、何もしないままに過ごすよりマシでは無いか。人生は短い。そして人は簡単に死ぬ。だから、自分を必要としている人間の元で仕事をして、何が悪い。静かな退職なんてする余地はない。すぐに辞めよう。明日には、さっさと辞めてしまおう。別に引き留められる筈が無い。

 辞めちまえ。辞めちまえ。俺は明日から、あの「コンピューター」のお守りが仕事だ。1日8時間、筆談で延々と千歳とコミニュケーションする日々が始まるのだ。それで金がもらえるのだから、逆に感謝したいほどである。


 退職手続きは、あっさりと通った。如何に自分が社会から必要とされていないのか、よく分かっていた。ここには、自分の人生が無かったらしい。何時でも辞めても良かったのだ。人手不足の売り手市場だと言うのは、「使える人間」が少ないと言う意味と、「教育する力が会社に無い」と言う意味の、2つの意味がある。

 だったら、自分の事を上手く使ってくれる所に行くべきだ。幾らか給与が安くても、ボーナスが幾らか少なくても、その方が健康的である。


 結局、数日後には名田達郎は千歳との紙チャットでひたすら紙とペンを使い続けていた。


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