29.5(幕間)祈望
およそひと月ぶりに訪れた王宮は何だか雰囲気が違うように思えた。
弛緩していたものが引き締まったと表現するのが正しいだろうか。
誰よりも緊張した面持ちで竜車を降りたアズハルにエスコートしてもらいながら、警備の目が光る内門をくぐる。
イリリアが目覚めたあと、南端にある屋敷でのんびりとした療養生活を十日ほど送ったのち、南の離宮へと戻った。
そして二週間もしないうちに、アズハルとイリリアに対して王宮から召喚状が届けられた。
差出人は竜帝陛下。
指定された日の朝には、問答無用だとばかりに離宮前に迎えの竜車が到着していた。
今回の事件の顛末はある程度聞かされている。
王宮が今なお、緊迫した状態にあるということも。
穏やかで安定した治世を保っていた竜帝陛下が北の古い一族を大規模に粛清したことで、中央にいる政治家たちのあいだには激震が走った。
陰で竜帝や王族を軽んじる言動をしていた者たちは勿論のこと、過激な異種族排斥思想を露わにしていた者たちも軒並み黙り込み、戦々恐々と時が過ぎるのを待っている。
初代竜王に連なるという北の一族は、再び竜王として返り咲くことを夢見ていた。
自分たちの一族から王族の花が現れないことを歯痒く思いながらも、計略や謀略を繰り返し、あと一歩…というところで滅びへと転落した。
命を尊ぶ竜人族にとって、処刑は何よりも重い罰であり不名誉な死である。
今回の粛正で処刑された竜人は三名。
秘匿されているものの、そのうちの一人がナスリーンであるのは間違いないだろう。
北の一族は皆、濡羽色の黒い髪だったという。
そう聞いた時イリリアは、自ら首を掻き切っては呪詛のような言葉を残して果てた初代竜王の姿を思い出した。そしてそんな男を深く愛したからこそ、竜帝に身を捧げ国母となる道を選んだ悲しい女性の姿も。
白い空間で見せられたものが事実であるならば、初代竜王とその妻とのあいだに子は生まれていない筈だ。だとすると、北の一族が初代竜王の子孫であるという話は限りなく信憑性が低い。
(それでも……竜帝を支える役目を負う『竜王』という地位を望んでおきながら、代々の竜帝を苦しめ続け、私を襲ってアズハル様を悲しませた事実は変わらない)
アズハルは連座での処刑を免れた。
状況だけで見れば、唯一無二の花嫁を殺されかけた彼は紛れもない被害者だ。
それでも、竜帝への謀反を企んだナスリーンの実子であり、人間の花嫁を迎え入れ天上を混乱に陥れた咎人として、アズハルを非難する声は少なくない。
イリリアが今日こうして王宮を訪れたのも、なにも無事な姿を見せるためではない。
騒動が起きてしまった要因として各方面に当時の状況やその後の経過を改めて報告し、謝罪して回るためだ。
そして、当初の予定とは日取りを変えたうえで、婚礼の儀式を執り行わせて欲しいと陛下に願い出るため。
竜帝陛下の名でアズハルとイリリアに召喚状が届いた時、最も抵抗を示したのは他でもないアズハルだ。
あのような場所にイリリアを連れて行って、もしまた何かあったらどうすると感情を揺らすアズハルをぎゅっと胸に閉じ込めて、丁寧に髪を梳きながら説得を繰り返した。
イリリアも別に積極的に行きたいわけではないけれど、今後の儀式のことや竜血樹を服用したあとに見聞きした内容のことも含めて陛下とは話をしておく必要があるし、騒動に巻き込んでしまった王妃殿下やファティナ妃にも直接謝罪をしておきたかった。
何かあったら陛下を盾にしてでも絶対に生き残ると約束をして、怖い時や苦しい時…理不尽な思いをした時は無理せず帰ることを条件にアズハルにはなんとか納得してもらった。
離宮まで迎えに来てくれた車牽きのウェンは「ご無事で何より。心配しましたよ」と相変わらずの太陽のような笑みを向けてくれたから、王宮へ向かう竜車に乗るのも怖くなかった。
それに、王宮の廊下だろうがどこだろうが、移動中はずっとアズハルと手を繋いでいた。
謁見の間へ入る時にも手を繋いでいたため、扉前の警備の隊士たちは驚いていたし、陛下も最初は呆れ果てていたものの、アズハルが随分とやつれていることに気付いたらしくため息ひとつで見逃してくれた。
謁見の間には陛下しかおらず、まずは先日の一件について深く謝罪をする。
それから南端の屋敷を貸していただけたことに礼を述べ、王妃殿下へのお見舞いの言葉を託す。
この数日間シャイマにつきっきりで指導してもらったお作法と口上だったが、噛まないよう必死すぎて言い終えるなり頭からスポンと抜けていった。
改めてもう一度同じ事を繰り返せと言われても絶対に無理そうだ。
それからイリリアが白い空間で得た邂逅について報告しようとすると、陛下は真剣な表情で立ち上がり「暫しふたりで話したい」と言い………急遽、密談用の茶室が用意されることとなった。
▼
「なんだ、げっそりした顔で」
少しばかり予定外の時間となったものの、陛下との面談を終えて向かった王太子の離宮で、出迎えなのか門前に立っていたアクラムはアズハルを見て眉を顰めた。
すっかり萎びてしまったアズハルの代わりにイリリアが状況を説明する。
当然といえば当然なのだが、陛下がイリリアとふたりきりで話したいと告げたことに、アズハルは猛反対した。
事件が起きてまだひと月しか経っていないし、襲撃後のイリリアはほぼ死んでいた。
北の一族は粛正されたものの、血統主義者や人間を良く思わない者たちはまだ残っている。
もしもまた…と最悪のケースを想定して顔面蒼白になったアズハルは、警備に取り押さえられてしまうのではと心配になるほど猛烈に陛下へ抗議した。
そんなアズハルの抵抗を「癇癪を起こすな」と一蹴した陛下は、「お前の花嫁を預かる代わりに余の花嫁を一時的に渡そう。それで良いな」と強引に話を纏めてしまった。
そうしてイリリアは厳重な警備の敷かれた密談用の部屋で陛下と向き合い、白い空間で見た初代竜帝や竜王のこと、竜血樹の中に宿る竜帝の思念体に意識を侵食され花を潰されてしまったことなどを語った。
一方でアズハルは、これまた厳重に警備の敷かれた部屋で竜帝の花嫁たる王妃殿下と、イリリアと陛下の密談が終わるまでのあいだ一対一でお茶を飲む羽目になったのだ。
「母上とふたりで茶を飲むなど……お前にとっては生き地獄だな」
「胃が痛い……スハイルを連れて来れば良かった……」
「陛下からお菓子を頂いたので、あとで一緒に食べましょうね」
意気消沈するアズハルの背中を撫でながら、でも今はお兄さんと向き合う時間ですよ、とその背筋を伸ばさせる。
「アクラム王太子殿下、私を狙う襲撃にファティナ妃殿下を巻き込んでしまい、本当に申し訳ございませんでした。怪我を負われた近衛隊士の方へのお見舞いも申し上げたく存じます。そして訪問と謝罪が遅くなってしまったことも、重ねてお詫び申し上げます」
頭を深く下げて謝罪すれば、王太子は少しだけ間を置いてから「…許す」と告げた。
「こちらからは、其方が瀕死であるとは知らず、アズハルを捕縛して無理やり王宮へ連行したことを謝ろう。徐々に花が消えていくなど…想像すらしたくないな。もう問題ないのか?」
「はい。消えていた花も元に戻りました。今後いつこの命が果てるかはわかりませんが、その時までは今ある幸せを大切にしたいと思っています」
「そうか……ファティナがイリリアとふたりで話したいと言っている。あのような事件の後だからと許すつもりはなかったが、どうしてもと強く願われたゆえ、短時間だけふたりの時間を与えようと思う。ただし、室内の壁際に双方の侍女をひとりずつ配置し、我々は扉の外にて待機する。アズハルもそれで良いな?」
「良くありません」
「陛下とすでに茶席を持ったのだろう。それに、早いうちに禍根や不安の根は取り除いておいた方がいい。まあ、お前の花嫁が今後一切ファティナと茶席を持たなくて良いというのなら構わんが」
「……わかりました。ですが、そのような予定があるのならば事前に伝えておいてください」
「侍女としてラウダを連れて来るよう言っておいただろう。こちらからは筆頭侍女を出す。彼女はそれなりに腕が立つ」
「イリリア、良いだろうか…怖いならば断っても構わないが」
「大丈夫ですよ。どのようなお話なのか是非に聞きたく思います。それに、ファティナ様にも直接お詫びしたいので」
「そうか……何かあったら茶器や調度品を壊して良いから大きな音を出してくれ。……ラウダ、くれぐれも頼む」
「畏まりました」
「それと、今日はハルクを室内に入れるなよ」
殿下から付け加えられた言葉にちらりと後ろを振り返る。
ハルクはイリリアの視線に気付くとパチン⭐︎とウィンクをした。
どうやら傷ついたイリリアをアズハルが離宮へ連れ帰った頃、ハルクは王宮に残って事後処理に奔走していたらしい。会議室に置き去りにされていたユスリーも回収して来ましたよ、偉いでしょうなんて茶化して言っていたが、彼も戦闘のなかでそれなりの怪我を負ったと聞く。
離宮の中へ案内する殿下が言うには、傷ついた隊士たちの応急処置をしていた女官たちは、怪我をしたハルクに気付くなり我先にと群がって手厚い治療を施したらしい。
ファティナもハルクの怪我の具合を心配しており、それが殿下の癇に触ったようだ。
茶席として案内されたのは、先日諍いがあった部屋とは違う区画に位置する部屋だった。
一度すべての調度品を取り外したり壁を叩いたりして、隠し通路などがないか入念に調べてあると言われ、それならばと安心して歩を進める。
繋いだ手を離す前に背伸びをしてアズハルの頬に唇を寄せ、ぎゅっと抱擁するのを忘れない。
「お話が終わったらちゃんと出て来ますからね」
「ここで待っているから、どうか無事に戻ってきてくれ…」
不安そうに頬を撫でてくるアズハルに「大丈夫ですよ」と微笑みかけて、早くしろという殿下からの圧を受けながら暫しの別れを惜しんだあと、ラウダと共に茶室の扉をくぐる。
先ほど陛下との話し合いをするときにも似たようなやり取りをしたし、こちらを見る殿下の、臭い靴下を嗅いだ時のような顔は陛下のものとよく似ていた。
身分が高いゆえに、目の前でイチャイチャされるのに慣れていないのだろう。
茶室はこぢんまりとしていて、内装は全く異なるものの、テーブルにつくファティナ妃の姿にあの日を思い出して少しドキリとしてしまう。
表情に出したつもりはないが、すかさずラウダが背中をそっと撫でてくれた。
「お花様、脈が乱れたりはございませんか?」
「大丈夫です。陛下とも個室でお話をしましたし、意外と落ち着いています」
「あのような事があったばかりですもの…お困りの際はいつでも仰ってください」
そう言ってラウダは壁際に下がる。
椅子に座る前に「お招きくださりありがとうございます」と頭を下げれば、ファティナは以前と変わらない柔和な声で「何だかとても久しい気がしますわ」と返してくれた。
「どうぞおかけになって。お怪我の具合はいかが?」
「その節は大変お騒がせ致しました。恐ろしい事件に巻き込んでしまったこと、重ねてお詫び申し上げます」
「いいえ。あの一件、日取りも部屋もこちらが指定したものでした。それに、イリリアさんを控え室に引き摺り込んだのはわたくしの侍女です……こちらの不手際で貴女の身を危険に晒したと言っても過言ではありませんわ」
謝罪こそしなかったが、非は自分たちにあると発言したファティナに少しだけ驚く。
今回の事件の首謀者はアズハルの母親であるナスリーンとその一族だ。
けれども王宮内では、イリリアこそが悪だと断じる声も少なくない。
襲撃が起きた直後には、息子の花嫁が異種族…それも仇敵である人間であれば心を病むのも致し方ないというナスリーンへの同情の声すら多く聞こえていたという。
アズハルは処刑を免れたが、罪人の子という汚名を背負うことになった。
同じくナスリーンの子であるサーリヤもまた、その罪を問われたものの、彼女は『咎払い』としてその手で母親の首を落としたと聞く。
アズハルからは、元々サーリヤにはそのような役回りが与えられていたそうだと説明されたものの、処刑の話を聞いた時イリリアの胸には言いようのない悲しみが込み上げた。
彼女は北を治める立場でありながら反乱の企てを防ぐことが出来なかったこと、そして自分の出自に関わる一族が犯した罪の重さを理由に、婚礼の儀式への参加を見送る意思を示した。
代わりに儀式には、北東の離宮にいる陛下の末の妹君が見届け人として参加してくださるらしい。
この先サーリヤと会う機会は殆どないだろう。
それでも、いつかどこかでまた会えたらと願ってしまう。
「今日はファティナ様からお話があると伺っております…何かお困りごとでしょうか」
イリリアからの問いかけにベールを被ったファティナが少し俯く。
このような時にこのような事を尋ねるのは大変失礼だとはわかっておりますけれど…という前置きに、難しい話だろうかと背筋を伸ばす。
「アズハル殿が今、わたくしたちにどのような感情を向けておられるか…教えて頂きたいのです」
「……アズハル様の感情、ですか?」
思いがけない言葉に、思わずキョトンとしてしまう。
続けてファティナが口にしたのは、今回の騒動を受けて、王太子殿下が『誓いの儀』に息子のアクルを参加させるのを見送ると言い出した…という内容だった。
前回の儀式も、獣人族の花婿の挙動が読めず、安全性が低いと判断されて出席が叶わなかった。そして今回を逃せば、アクルは婚礼にまつわる儀式の中でも最重要とも言える『誓いの儀』の実態を知らないまま、成人して花嫁探しへと移ることになる。
母であるファティナとしては、多少の無理を通してでも、息子に儀式を見て知って欲しいと思っているそうだ。
イリリアからすればそれはどうぞ夫婦間で話し合ってください…と言いたくなる内容だったけれど、ファティナには花嫁教育を請け負ってもらった借りがある。
殿下を説得するのはさすがに無理でも、多少なりと助力できる事があるのならファティナに協力するのもやぶさかではない。
やぶさかではないが、それで何故、アズハルの感情が関係するのだろう……と思っていると、殿下がアクルを参加させない最大の理由が『今のアズハルは不安定だから』というものだと聞き、イリリアはなるほど…と思わず納得してしまった。
おそらくファティナは、不安定という言葉を、アズハルが殿下やファティナに対して悪感情を抱いている可能性があり、それがアクルに波及する可能性があると解釈したのだろう。
イリリアは少し悩んでから、今から告げる内容を決して誰にも…王太子殿下にも明かさないと約束して頂けるのであればお伝えしますと告げた。
ファティナは逡巡したのち、決して口外いたしませんわと固く頷いた。
ちらりとファティナの奥にいる筆頭侍女を見れば、そちらも「主人の意向に従います」と口にする。シャイマより少し年嵩見える女性は、侍女でありファティナにとっての良き相談役でもあるのだろう。
「おふたりを信頼します」と頷き返したものの、さて、どう伝えたものかと少し迷ってしまう。
「……正直に申し上げても構いませんか?」
「ええ。受け止める覚悟はしております」
「では、正直に申し上げますと……アズハル様は今、ご自身の心を整えるのに手一杯で、周囲へ感情を向ける余裕はありません」
「え……?」
流石に予想外だったのか、ベールの向こうから驚いたような声が漏れる。
イリリアはそんなファティナへ苦笑を向けながら、自分の左胸に手のひらをあてた。
「あの事件のあと、私の花は一度、すべて失われました」
「すべて…!?」
「はい。アズハル様が王宮へ連行された時には一輪残っていたという花も、その直後に消えてしまって………私のような異種族は本来高所では生きられない命ですから、花の加護を失ってしまえば、もう死ぬしかない」
ベールの向こうで息を呑む気配がする。
王宮への報告は、かろうじて生き残った…という内容に留められている。
どうやって花が戻ったのか追求されたときに面倒なことになるからと、シャイマとユスリーがこちらへ都合が良くなるように文面を纏めて手早く提出してくれた。
けれど今のアズハルの状態を伝えるには、自分が一度、ほぼ死んでしまったのだという事を伝えておく必要がある。
「花との繋がりが途絶えたことを感知したアズハル様が王宮から南の果てまで駆けつけてくれて、どうにか、命は繋がりました。
その時は本当に必死で、お互いに、生きていることや、奇跡的に再び花が芽吹いたことを喜ぶばかりでしたが……日常が戻ってくると、次第に恐怖が甦るようになりました」
イリリアはあれを機に、母親からの重い呪縛から解かれた。
霊峰に来て以降ずっと感じていた息苦しさや不調もなくなり、以前とは比べものにならないくらい身体は天上に馴染み、日々の生活が楽になった。
けれどもアズハルは……喪失の記憶に苛まされ、毎晩のように魘されては、悲痛な叫びと共に目を覚ましている。
「私が血塗れで死ぬ夢……花が無くなり踠き苦しみながら息絶える夢……潰れた顔で怨み言を吐き出す夢……夜毎悪夢に魘されては、天上へ連れて来てしまった己を責め、幾度も謝罪を繰り返す…」
謝りながらも、離れないでくれ居なくならないでくれと悲痛な声で懇願するから、イリリアは毎晩アズハルを抱きしめて、救ってくれた事への感謝と、共に居られる幸せを言葉にして伝えた。
昼間も離れるのを酷く嫌がる日があり、そんな時は一日中寄り添って過ごす。
大好きですよここに居ますよと何度も何度も伝えて、
ひと月経ってようやく、こうしてイリリアが別の部屋に行くのを見送れるまでになった。
それでも今、扉の向こうで待たされているアズハルは不安で堪らないだろう。
「王太子殿下がファティナ様やアクル様に『今のアズハルは不安定だ』と説明したのは、アズハル様の受けた心の傷がとても深いことに気づいておられるからでしょう」
「……花を喪うというのは、それほどまでに心に負荷がかかるものなのですね……」
「アズハル様は今、ゆっくりと心を整えているところです。確かに不安定なところもあるかもしれませんが、私に危害を加えない限りは、前と変わらず優しい王子様ですよ」
理由もなくアクルに悪感情を向けることはないし、殿下やファティナを嫌忌しているわけでもない。
そう伝えると、ファティナは神妙な様子で頷いてくれた。
そして、「教えて頂いた事実は決して口外せず、アズハル殿の名誉は必ず守り通します」と改めて約束してくれる。
「ありがとうございます。ですがそれだと殿下を説得するのが難しくなるでしょうから、お節介ではありますが秘策をお伝えできればと思うのですが…」
「秘策、でしょうか?」
「ええ。殿下は何かと厄介そうなので二段構えでいきましょう」
冗談めかして言ってみると、ベールの向こうで苦笑するような気配がある。
「イリリアさんにとってアクラム様は厄介そう見えるのですね」
「難攻不落といいますか……弁も立ちますし矜持も高そうですし、アズハル様のようにすんなりと陥落してくれなさそうな気はしています」
「アズハル殿は簡単に陥落なさるのですか?」
うーん…と考えてみたが、何度シュミレーションしても、極甘なアズハルは比較的簡単に陥落してくれそうだ。
頑固なときは頑固だけれど、自分の意見とイリリアの意見、どちらを重視すべきか早い段階で天秤にのせて考えてくれる。一方でアクラムは、こうすると決めたら相手の意見は天秤にすらのせてくれなさそうな印象がある。
言い込められて終わり、反論の余地なし。だからアズハルもアクラムと討論するのが苦手なのだろう。
ファティナに少しばかり悪巧みの策を伝えてから、イリリアは出された白湯を飲み干した。彼女と一対一で向き合うのはこれが最後だろう。
「ファティナ様、私はこの先、王宮を歩く際には必ずハルクを側に置きます。殿下が彼を遠ざけるからには、こうして合間見える機会は殆ど無くなるでしょう」
「……とても残念なことです」
「そのお言葉を嬉しく思います。花嫁教育も含め、親切にして頂いたことは忘れません。この先の、ファティナ様とご子息様の安全と繁栄を心からお祈り申し上げます」
元よりアズハルは、儀礼的な行事とたまに開かれる王族会議以外で王宮を訪れることはない。
婚礼の儀式を済ませたあとは殿下たちが南の離宮を訪れでもしない限り、個人的に会う機会は殆どないに等しい。
そして今回の一件により、陛下は天上に於ける統治領域の再編を決めた。
大規模な粛正のあった北を整えることが最優先ではあるものの、ある程度の時間をかけて各王族が統治する領域の線を引き直すことになる。
アズハルは母親の犯した罪を自らの手で雪げなかったこともあり「私は遠くないうちに南の管理者の任を解かれ、王宮から離れた果ての地で蟄居を命じられるかもしれない」と言っていた。
ゆくゆくは竜王として政治的な責任者となるアクラムや、彼を支える立場であるファティナとは適度に距離を置くのが双方にとって最善だろう。
「おふたりの生活が静穏で満ち足りたものでありますように」と言ってくれたファティナにもう一度礼をして、ラウダと共に室外へ出る。
扉横にはファティナの護衛隊士がふたりと、サディオとハルクが立っていた。
そして王太子殿下とアズハルの横にもそれぞれに護衛隊士が立っている。
視線が集まったことで一瞬足を止めてしまったが、ちらりと目配せしてくれたラウダに大丈夫だという意味を込めて頷く。
屈強な隊士の横を通り過ぎる時や複数の隊士が集まっているのを見るとドキリとすることはあるけれど、このひと月の間に、隊士の訓練所を見学したり隊士服を着たアズハルから抱っこや高い高いをしてもらったりして、ある程度の耐性は付けている。
ちなみにイリリアにとって一番怖いのは年配の女官や侍女からの視線なのだが、これもシャイマに協力してもらってどうにか克服中だ。
イリリアは殿下へ挨拶するよりも先に、待ってくれていたアズハルをぎゅっと抱擁した。
心配し過ぎて顔が真っ青になっていたアズハルだったが、イリリアが触れたことで、ほっ…と安堵の息を吐く。
以前であれば人前で触れようとすれば困ったような顔で、時と場所を考えようか…といった注意されていただろうに、今はどれだけの人目があろうとイリリアのぬくもりを受け取ることを優先している。
そっと抱き返されてイリリアの胸もあたたかくなる。
「お待たせしました」と告げると「会いたかった」と囁かれた。
「殿下とはお話しできました?」
「殆ど話していない。心配でずっと扉を見ていた」
「あら。こちらにも王妃殿下に来てもらうべきでしたね」
「それは……困る」
あの重圧にはもう耐えられる気がしないと眉を下げるアズハルと、唇を交わす代わりに一度おでこを合わせてから、手を繋ぐ。
それから殿下に向かって「お時間をいただきありがとうございました」と言えば「弟は赤子にでも戻ったのか」とため息をつかれた。
「以前から甘えん坊で泣き虫という評価だったと伺っておりますので、そう変わりないかと」
「だとしても、王族としての矜持までは捨てていなかった」
「これまで散々不遇だ何だと好き放題言われていたのですから、多少の矜持を投げ捨てたくらい問題ないと思います。私にとっては優しくて格好よくて思いやり溢れる旦那様ですので……大好きですよ」
最後はアズハルの方を見て言えば、蕩けるような笑みを向けられる。
扉前に立つ隊士が思わず生唾を飲み込んだのは気のせいではないだろう。
白い髪を持つ美丈夫の柔らかな笑みは破壊力が高い。常日頃から曝け出しているハルクの軽率な微笑みもウィンクも、これの前では屈する他ない。
殿下はそんな弟の様子に文句を言いたそうにしていたが、深いため息と共に飲み込んだようだ。
「では兄上、誓いの儀にてまたお会い致しましょう」
「正月の挨拶に来ないつもりか」
「騒動の起因となった事への責を負い、向こう一年間の宮中行事への参加を自粛することにしました。南の離宮にて謹慎させていただきます」
「花嫁と引き篭もりたいだけだろうが。責任を取るなら後処理を手伝え」
「新婚なので」
最後は本音丸出しでいやいやと首を横に振ったアズハルは、イリリアを促して王宮から辞した。
帰りもウェンさんの竜車に乗せてもらったが、イリリアの定位置は変わらずアズハルの膝の上だ。
向かいに座ったラウダが「婚礼の儀式は年が明けてからに決まったのですね」と少し悩ましそうにしている。
「まだ王宮内が落ち着いていないからな……星読みの結果も、儀式は年明けの方が良いとの事だったから父上が二月にとお決めになった。
新年の挨拶をしないと決めたのは、正月の参賀の折に叔母上のところの獣人とイリリアを鉢合わせさせよう…などという企みが動いていると耳にしたからだ」
「なんですって!?」
「陛下が、お正月の挨拶の際に面倒そうな奴らを牽制しておいてやるから、儀式はその後にする方が良いだろうと言ってくださったのです」
血色ばむラウダに、イリリアは陛下からの言葉を伝える。
アズハルは「父上は治世を乱す者には容赦しないからなぁ…今回も剣を携えて自ら罪人の捕縛へ向かわれたそうだし」と竜帝陛下の意外な一面を暴露した。
そういえば幼いアズハルを竜車から振り落とすよう指示したり雲下に突き落としたりするような人だったわ…と思えば、実家で気怠そうに茶を飲む姿とは違う側面もあるのだとよく分かる。
ラウダは「儀式までに王宮内がしっかり落ち着いてくれると良いのですけれど…」と小さくため息をついた。
「とはいえ日取りが決まったからには準備を万全に整えなくてはなりませんね」
「あと三ヶ月か……先は長いな」
「待ち遠しいですね」
すぐ近くにあるアズハルに頬を寄せれば、ぎゅっと抱き返してくれる。
前にも増して近づいた距離感だが、周りの人たちは生温かく見守ってくれている。
今回の粛清でアズハルは、過分に干渉してくる厄介者を追い払えたと同時に、彼の立場を強固に支持していた後ろ盾を失った。
北の監視役であり竜帝の剣としての明確な役目を持つサーリヤとは違い、大きな役割も王宮との繋がりも持たないアズハルは、陛下や殿下の治世を乱すことがないようこれまで以上に王宮や政治から離れた生活を送ることになる。
「もう私には何もないな…」と遠ざかる王宮に思いを馳せるアズハルに「お揃いですね」と言えば、すかさず向かいから「わたくしたちが居りますよ」と頼もしい言葉がかけられる。
たとえ果ての地に追いやられたとしても、そこに大切な人たちが居るのであればそれでいい。
寄り添ったままカーテンの隙間から見える天上の景色を眺めながら、住み慣れた離宮に帰りつくのを今か今かと待ち望んだ。
《余談》
「そういえば王妃殿下とはどんなお話をしたんですか?」
「ああ……今回王妃殿下が怪我をしたというのに、父上は王妃様を見舞うより先に罪人の粛正へと向かってしまったらしい。それで、自分よりもあの女の元へ行くのかと静かにお怒りになったらしく…」
「あらまあ…」
「罪人を追う事よりもイリリアの治療を優先した私のことを褒めてくださった」
「良かったですね」
「うん……どうやらその事もあって、私が連座で処分されないよう父上に言葉を掛けてくださったらしい。第二王子を罰するというなら、花嫁を放って他の女の尻を追いかけた男にも何らかの罰が必要なのでは、と…」
複雑そうな顔をするアズハルの頭をよしよしと撫でる。
まさか王妃殿下から庇って頂けるとは思わなかったのだろう。
イリリアの為に医師を貸し出す際に王妃殿下は「その場にアズハル殿が留まっているのなら、出来る限りの治療をしてあげなさい。居なければ何もせず戻りなさい」と主治医のリーランに告げていたらしい。
アズハルは復讐よりもイリリアのそばに留まることを優先した。その結果リーランによる応急処置を受けることが出来たのだと知り、色々な意味でギリギリ首の皮一枚が繋がった状態だったのだな…と眉を下げていた。
だがそうした王妃殿下の言動が大々的に公表されることはない。
アズハルは叛逆者の息子であり、王妃の息子であるアクラムの治世を乱しかねない危うい存在という認識は変わらず残る。
「改めて、兄上のことは勿論、孫の代まで陰ながらに支えてやって欲しいと言われた」
それは『決して表に出ようと思うな』という牽制の意味合いも含むのだろうが、元より敵対する意志のないアズハルはその言葉を粛々と受け入れた。
「知らないところで助けて頂いたようですし、お話が出来て良かったですね」
「ああ。根はお優しい方なのだが、いかんせん迫力がな……胃が裂けるかと思った…」
思い出して再び萎びてしまったアズハルを存分に慰める。
離宮へ戻ったらふたりきりで甘やかして欲しいと言われたため、スハイルさんにお腹を診察して貰ってからにしましょうねと返せば、花印が何よりの治療薬だと花の咲く背中を撫でられた。
「イリリアはファティナ様から何と言われたんだ?」
「王太子殿下が反対しているせいでアクル様が儀式に参加出来ないかもしれないという相談を受けました」
「……知ったことではないな」
「一応、出来るだけのアドバイスはしたので、あとはご夫婦で話し合ってもらうしかありませんね」
「アドバイス?」
「殿下は少し頑固そうなので…」
もう決めた事だと話し合いにすら応じてもらえない場合は、再び話し合いの場が設けられるまで共寝を拒むと宣言すること。
話し合いの席ではベールを外して殿下をじっと見つめ続けること。
説得の甲斐なく要望が通らなかった場合は、誓いの儀が終わるまで絶対に花印を見せないようにし、遺憾の意を存分に伝えること。
この三点をお伝えしましたと言えば、アズハルは愉快そうに目を細めた。
「兄上が振り回される姿を想像すると少しばかり胸がすく思いだ」
「共寝をお断りすることがどれだけのダメージになるか…ですよね」
「何度も断られればさすがに看過できないだろう」
私なら一日で降参する。と堂々と情けない宣言をするアズハルに、そんなところも可愛くて好きですよと頬に唇を寄せる。
そもそもアズハルはイリリアが『納得出来ないから話し合いたい』と言えば、何時間でも何日でも話し合いに時間を費やしてくれるだろう。
だが、自己の主張を押し付けることも話し合いを拒絶することもないものの、悲しみと混乱のあまり『頭を冷やしたい』とその場から立ち去ってしまった過去はある。
イリリアは、滅多に怒らない人を怒らせてしまった後悔と、ひとりで寝室に残された時の心細さ、そしてすれ違いが引き起こした重大な事件の顛末を思い出しながら「私もちゃんと失敗から学ぶようにしてるんですよ?」と夜色の瞳を覗き込むように額を合わせた。
「失敗?」
「もしも以前のように、ショックを受けたアズハル様が部屋を出て行ってしまったなら、今度はちゃんと服を脱ぎながら追いかけようかと…」
「ん!?服を脱ぎながら!?」
「そしたら、花印が丸見えになる前に戻って来てくれるでしょう?」
「大慌てで戻るが……泣くと思う」
「泣いていようが怒っていようが、ひとまずアズハル様を捕獲することが第一なので…」
「うん……出来るだけ逃げないから、絶対に人前では脱がないで欲しい」
花印を大々的に晒すのだけはやめてくれ…とむぎゅむぎゅ抱きしめられる向こうで、呆気に取られていたラウダが「服を脱がずとも、お花様が『寂しいから戻って来て』と仰ればすぐに戻って来ますよ」と苦笑した。
「『戻って来てくれないと共寝もしないし花印にも触れさせない』と仰れば、どこに居ても何があってもお戻りになるでしょうね」というラウダに、アズハルは「すぐに戻って土下座する」と深く同意している。
「土下座はいいから、キスをしてくれます?」
「そうしよう。……イリリアの望みを叶えるためにも、婚礼の儀式が待ち遠しいな」
「三ヶ月後が楽しみですね」
結局のところ思考は巡り巡って同じ地点に帰着し、早くもっとイチャイチャ出来るようになりたいと思うばかりなのだった。




