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28. 終焉と落涙

▽27話のアズハル視点




彼女の瞳は暮れる夕闇の色


日が沈まなければ夜は訪れない


イリリアが居なければ、私は生きられない






わずかな目覚めのあと、大好きとありがとうを残して再び眠りについたイリリアの寝顔を見つめる。

何も出来なかった私を責めるどころか、そばに居てくれただけで嬉しかったと微笑んだ彼女は、一体どこまで私を許してくれるのだろうか。


手を握ってその寝顔を見つめていると、ルゥルゥと共に入室したスハイルがおやおやと眉を上げた。

昨日から鱗もツノも出しっぱなしの情けない姿になっていたから、戻っていることに気付いたのだろう。

花嫁と僅かばかりの会話をし、抱擁され撫でてもらっただけで元に戻るとは、自分でも情けないを通り越して少々居た堪れない。



「少しだけ目覚めて会話ができた……また、眠ってしまったが」


「お目覚めになったのですか?良かった…」


「そのご様子だと、優しくしてもらえたようですのぉ」


「まだ事件の事は話せていないが……血を飲ませるのは思い留まって良かったようだ」


「当然です。眠っているあいだにそんなものを飲ませられたと知れば、イリリア様は怒……らずとも、泣いてしまうかもしれませんよ!?」



イリリアと怒るという感情が結びつかなかったのか、悲しむという方向へ切り替えつつ私を叱ったルゥルゥは、慣れた手つきで脈や熱を測っていく。

目覚めた時に水は飲まれましたか?という問いに、首を横に振る。


スハイルはざっと私を見るなり「寝不足と栄養不足」という診断を下した。

とんでもなく不味い栄養剤を受け取っていると、扉からラウダとラナーとが顔を覗かせた。

ここ数日はシン…と静寂と悲壮感に満ちている部屋から、普段の調子での会話が聞こえたからだろう。


「お花様のお加減はいかがでしょうか」


「先ほど短時間だが目覚めて、会話ができた」


「まあまあ…!それではお目覚めも近いですね!お着替えやお食事の支度も順次整えておきましょう」


パッと顔を輝かせたラウダの横でラナーも喜びを滲ませている。


寝汗はかいていないようだったが清拭は必要だろうか…と寝台へ目を向けると、ルゥルゥが一度測ったはずの脈を測り直している。その顔がこわばっているのは見間違いではないだろう。

思わず眉を顰めたことに気付いたのか、こちらの視線を追いかけたラウダがルゥルゥを見て、慎重に問いかけた。


「………どうしたの?」


「………わからない……脈が、不規則で…」


スハイルに視線をやれば、お花様に触れますぞ?と言われたため首肯する。

手首や首筋に触れた後、ちらりと視線を送られたが、さすがにそれは…と首を横に振る。

おそらく直接胸部に触れて拍動を確かめたかったのだろうが、そこに花がある以上、自分以外の男が触れることに本能的な嫌忌が生まれてしまう。

代わりにスハイルからの指示を受けたルゥルゥが、指先で心臓の位置を探って耳と感覚を研ぎ澄ます。


「……動きが不規則な気がします…」


「不規則さのなかに規則はあるかの?リズムを刻んでいるか、否か」


「規則性は……ありません……おじいちゃん、どうしよう…」


ルゥルゥの不安気な声に思わず椅子から腰を浮かせば、落ち着きなされと言いながらスハイルが手を挙げて制した。


「一時的なものかもしれませんし、今すぐにどうなるものでもないでしょう。おそらくは竜血樹の副作用が出始めたのかと……薬が抜けるまでの長丁場になりましょうから、今から気を張っていては保ちませんぞ」



年を重ねた老翁の声は不思議と場を落ち着かせる。

それでも不安で堪らなかったが、先ほど受け取った栄養剤をまだ飲んでいないことに目敏く気付いたスハイルから隣室で薬を飲んでくるようにと指示される。


「ルゥルゥがここに残り、ラウダはアズハル様のお世話につきなさい。儂とラナーは交代に備えて一時的に休養。……ルゥルゥ、シャイマを呼んでくるゆえ、お花様に少量ずつ水を含ませておくように」


「はい」


「さぁアズハル様、また弱りきったお姿で居たら、お花様から呆れられてしまいますよ。お薬を飲んで少しで良いのでお休みください。必要ならスハイル翁かカイスに添い寝をしてもらいましょうか」


気を奮い立たせてテキパキと動き始めたラウダに苦笑しながら、イリリアの額に口付けをひとつ落として部屋を出る。

眠る表情に苦痛はなく、ただ、心臓の動きだけが不規則なようだ。



おそらくスハイルから渡された栄養剤のなかに眠くなる薬も入っていたのだろう。

強引に休眠へと落とされる意識の端で、花嫁との繋がりを手繰り寄せる。



声も感情も伝わって来ない。

代わりに、

見知らぬ竜の低い唸り声と共に、目蓋の裏に紫色の花弁が舞った気がした。












「………部屋を移動させようか」


涙で滲む視界で、震える喉で、どうにかその言葉を絞り出す。




一時的な目覚めを喜び、竜血樹の副作用が始まってから一日と半分……ずっと不規則に揺れ続けていたイリリアの脈は、徐々に小さくなりつつある。


最初に異変に気付いたのはラナーだった。清拭の為に衣服をはだけさせたとき、胸の花の数が三つから一つに減っていた。


ルゥルゥとラウダに共有し、少し様子をみようと決めたらしい。

その半日後、交代で寝所に入ったラウダは、胸の花が減っている事からもしやと思い背中を見て…満開に咲き開いていた花が薄く消え始めていることに気が付いた。


報告を受けて寝所へ行ったときにはもう、背中の花は殆ど無く……出会った時と同じように、胸に一輪の花が開くばかり。


地上の湖で花印に口付けをして以降ずっと心臓の深いところにあった『繋がり』も、意識を集中させてなお、か細い線が微かに残るくらいにしか感じられない。


双眼からは涙がこぼれていた。

血塗れの姿を見た時には湧かなかった悲しみが一気に溢れ出て、喪失という二文字が現実として眼前に突きつけられたような心地だった。


彼女が目を閉じる前に囁いた「ありがとう」という言葉が耳の奥でこだまする。

思い出そうとすると何故か、ありがとう…という声に、さようならという言葉が重なって聞こえる気がして。


どうかもう一度目を開けて笑って欲しいとその名を呼んでも、言葉は届かぬまま溢れて落ちて、床に転がっては虚しく砕け散るようだ。



ふと天井を見上げて、ここは星が見えないなと思った。


どうせならばイリリアの好きな場所で、好きな景色の下で眠らせた方がいいのではないかと……生かすためなのか終わらせるためなのかもよくわからないまま、部屋の移動をしようと口にしていた。



皆疲れているはずなのに、天窓のある部屋を大急ぎで整えてくれる。

軽い身体を抱き上げて、寒くないよう毛布で包んで長い廊下を歩く。

空に浮かぶ月は憎たらしいほどに美しく、どうかその光で彼女の命を包み救い上げてくれと何度祈ろうとも、奇跡が起きる筈もなく。



月光の差し込む静かな部屋で、今夜はふたりきりにして欲しいと頼む。

他の皆にはよくよく休むように告げ、寝台の横に据え置かれた椅子に重い身体を預けた。


共寝伺いをしなくてもいつでも隣に寝ていいんですよと何度も言ってくれた彼女の言葉を免罪符に、花のある左胸にそっと頭を預ける。

服と皮膚の下で微かに動く心臓の音に耳を澄ませ、温かく柔らかな肌の温度でその命が繋がっていることを感じ取る。



「………あいしている」



誰よりも、何よりも。


だからどうか、この命を消さないでくれ……たとえ永遠にこのままだとしても、生きていてくれさえすれば、それだけで良いから。












「失礼する」と、陽光に満ちる部屋へ踏み込もうとした無作法者に視線を送れば、王太子宮所属の隊服を纏った年配の隊士は、こちらを見るなり発しかけた言葉を飲み込んだ。

代わりに後ろから姿を現した軽薄そうな色男が、その隊士に向かって「扉より先には立ち入るな。ここはお花様の寝所だ」と厳しい声で告げる。


そして憎たらしい程に整った顔立ちをした男…ハルクは、こちらを見て困った顔で笑ってみせた。



「アズハル様、王太子殿下より捕縛状が出ています」


「………竜血樹の件であれば、待っていただくよう父上に申告している」


「どうやら今回の件、王太子殿下が王宮内の処理を任されたようで。殿下の離宮内…それも妃殿下の近くで起きたことですし、陛下は北を一掃されるのでお忙しかったでしょうから、事の処理を委任されたものと思われます」


「それで、こちらが動かねばいつまでも事後処理が終わらないからと強引な手段に出たわけか。……兄上らしい無神経さだ」


「抵抗したものとして、表門のところでラウダとカイスが押さえられています。あの二人はもう、捕縛状を見た途端に殴りかかりましたから。おかげさまで五人居た殿下の使者がたったひとりになってしまいましたよ」


「その穴埋めとしてお前がそちら側に立っているというわけか」



はぁ…とため息を吐き、屈めていた身を起こして立ち上がる。


イリリアの脈が聞こえなくなった代わりに、耳の奥で何かを引っ掻くような甲高い異音が響き始める。これが耳鳴りというものだろうかと、その音の不愉快さに眉を顰めた。


扉前に立つハルクの手には、王太子の署名付きの捕縛状がある。

お前がそちら側を望むのならば今すぐ王宮勤めに戻れと言えば、ハルクは芝居がかった仕草で「相変わらず酷い人ですね」と肩を竦めてみせた。



「私がこちら側に立っているのは、捕縛状に記載されている内容のせいですよ。アズハル様が王宮に来ない場合、代理の証人としてイリリア様を王宮へ連行するとあります。このような状態だとご存知ないのか、あるいは人質のつもりなのか……どちらにせよ、今彼女を動かせば確実に命を失う。お花様を守るため、どうか今すぐ王宮へ向かってください」



こちらを見据えるハルクの目には覚悟が宿っている。

王宮でイリリアを守りきれなかったこと……襲撃の際、イリリアの手を取るよりも先にファティナ妃の安全確保の指示を出してしまったこと。あの日以来ハルクはずっと、それを悔やみ続けている。



「万が一にも私がここを離れているあいだに花嫁の命が失われれば、私は兄上の顔面を叩き潰しに行くだろう……まあ、王族の数は減るが、次期竜帝は姉上が居るから問題ないな」


「サーリヤ様が竜帝になられたらとんでもないことになりそうですね」


「知ったことではない。……手枷は付けるのか?」


「罪人とは明記されていません。ですが逃げ出さぬよう、鎖付きの片手錠が用意されているようですね」


「ルゥルゥかラナーを呼べ」


「そこに居ます」


隊士の向こうには、シャイマとルゥルゥ、サディオの姿があった。

「戻るまで頼む」と言えば、深々と頭を下げられる。



いつのまに夜が明けていたのか。

浅い眠りは繰り返したが、いつイリリアの拍動が消えてしまうかわからないという恐怖に囚われ、殆ど眠れていない。


寝台のそばを離れる前に、花嫁の白い額に唇を落とす。

「すぐに戻るから待っていてほしい…」と囁きかけても、閉ざされた目蓋が動くことはない。


ふらりと生気のない足取りで扉へ向かう。寝ていないせいで顔貌が荒んでいるのか、兄上から派遣された隊士は気圧されたように一歩下がった。


代わりに一礼したハルクが、肌とのあいだに一枚布を噛ませるという丁寧さで左手首に片手錠を装着する。「終わり次第、処罰はいかようにも」と言われたが、そのような事はもうどうでも良かった。

霞がかった頭の中で、早く行って早く帰らねば…と誰かがずっと囁いている。



私邸を出て表門まで行くと、気を失った隊士ふたりが地面に倒れ、軽く負傷した隊士二名がそれぞれラウダとカイスを押さえつけているのが見えた。

ドルバやクルスムと睨み合い一触即発になっているところへ瞬く間に進み出て、ラウダを押さえている隊士の首裏を一瞬で掴む。



「っ…だ、第二、王子殿下!?」


「彼女はこれから、私の代わりに花嫁のそばに残る必要がある。その手を離すか、首を折られるか、どちらか選べ…」



つとめて穏やかに言ったのだが、まだ若い隊士は顔色を悪くしながら慌ててラウダを拘束する手を解く。

賢明な判断だと口元で笑んだつもりが、ひぃと喉が引き攣るような声を出して腰を抜かされた。

カイスを押さえる隊士はさすがに熟練の者だったが、こちらの左手首に手枷が付いているのを見て、「ご同行頂けるのですね」と拘束を解いた。


「来なければ負傷した花嫁を人質に取るという悪辣な脅しをされてまで、引き篭もり続けるほどの愚か者ではない。

ラウダ、カイス。怪我の治癒のあと、花嫁のそばに控えていろ。私が戻る前に誰かが花嫁を連れ出しに来たら問答無用で処断して良い」


「「畏まりました」」


恭しく礼をするふたりのそばで、ハルクが情けない格好で地面に転がっている。

こんな時に何をしている…と思えば、片手錠に繋がる鎖を持っていたことを思い出した。

ラウダの元へ駆け寄った際に、速さについてこれず引き摺られたのだろう。

アズハルからすれば素早く動いて素早く隊士の首根っこを掴んだだけなのだが、白き竜が生来持つ速さと力強さに対応できる者はそう居ない。


「立てハルク……時間が惜しい。王宮へは飛翔していく。手錠の鎖を持つのは誰だ」


王宮から派遣された隊士たちは顔を見合わせ、年配の隊士ふたりは鎖を持つのはお断りだとばかりに、気絶している隊士の身体をさっと抱え上げた。

残ったのはラウダを押さえていた若い隊士だけだが、腰が抜けて地面に座り込んだまま。どう見ても使い物にならない。

もうこのままでいいか…という視線で鎖とそれを持つハルクを見れば、年配の隊士ふたりは静かに頷いた。数ヶ月前まで同僚だった者から売られたハルクは目を剥いて抗議する。


「いや、どう考えてもおかしいでしょ!捕縛状持ってきたアンタらが責任持って鎖を持……ぁぁぁぁあああ」


ハルクの抗議は無視して、竜の姿に変じると王宮までの道を一気に飛翔する。

風は向かい風。

少々面倒だが飛べないことはない。


重くぶら下がる手錠と鎖を煩わしく思いながら、風を裂くように飛ぶ。初めは悲鳴を上げていたハルクの煩い声は次第に聞こえなくなった。


王宮の外門前に飛び込む勢いで辿り着けば、門番を務める隊士のひとりが白目を剥いて倒れた。別の者が慌てて駆け寄ってくる。


「第二王子殿下!」


「王太子殿下より至急で呼ばれたゆえ、参った。急がねば大怪我を負った花嫁を人質にするという卑劣な脅し文句を使われたゆえ、竜車を使わず飛んできた次第だ」


捕縛状と手錠を見せて事情を説明すれば、門番は思うところがあったのか苦々しい表情を浮かべたあと「謁見の間にお連れするよう指示されています」と、先導するように王宮内へ入った。

謁見の間へ向かう途中、鎖の先を握ったまま気絶しているハルクを引き摺って歩くのが気になったのか「そちらは…」と言われたため、捕縛した者が逃げないよう監視する役目の者だと告げる。飛ぶ速度について来れなかったのだろうと言えば、御愁傷様という様子で何故か「輝ける竜玉のお顔だけは傷つけられませんよう」とハルクの顔を心配された。

王宮では男女問わず人気があったと自称していたが、あながち間違いではなかったのかもしれない。



謁見の間には陛下と王妃殿下、王太子殿下が並び、こちらの姿を見るなり三者三様の反応をしていた。

手枷をしていることに眉を顰めた陛下の指示で錠は外され、気を失っているハルクは王妃殿下の指示により別室にて手厚い看病を受けることになる。



手枷は外して貰ったものの、罪人のように膝をつき、陛下の管理区画に無断で立ち入り貴重な薬を持ち出し使用したことについて伏して謝罪する。


戻ると告げたからには今ここで首を切られるのだけは困るな……と、床に額を付けたままぼんやり考えていると、陛下の「許す」という簡潔な言葉でどうにか事なきを得た。

平伏したまま、許された事への謝意と改めての謝罪を口にする。

現状の報告を求められたため、花印が消えつつあり、花嫁が未だ重篤な状態であることを告げれば、こちらから願い出る前に陛下が「花嫁の元へ急ぎ戻ってよい」と口にした。


「南の端にある屋敷を一時的にお前たちへ譲渡する。必要とあらば、穏やかな果ての地で存分に花嫁を労わってやると良い」


「ご厚意に感謝いたします。……王妃殿下にもお見舞い申し上げます。そして負傷した花嫁の処置に主治医の手をお貸し頂けましたこと、深くお礼申し上げます」


「構いませんわ」


「王太子殿下、私の元近衛隊士が離宮襲撃の手引きをしたとの報告を受けております。ファティナ妃殿下の身を危険に晒したことを深くお詫び申し上げると共に……処罰はいくらでもこの身で受けますゆえ、これ以上我が花嫁に苦難を与えませんようご慈悲を賜りたく存じます」


捕縛状に花嫁を連行すると記載をしたことを思い出したのか一瞬だけ苦い表情をした兄上は、「陛下が許されたのだから私から処罰を与える事はない」と重々しく告げた。


「責任は襲撃した者にある。それに、お前はもう十分に罰を得ている」


「………そうでしょうか」


「頭を冷やせ。愚かなことは考えるな。今は花嫁の回復にだけ力を注げ」


「では…御前を失礼致します」



伏していた顔を上げて、のろのろと立ち上がる。

頭の中で早く帰ろうと誰かが急かす声に同意しながら謁見の間を出ようとすれば、陛下に並んで堂々と椅子に座っていた兄上から「アズハル!」と鋭い声で名を呼ばれた。


「たとえ花を喪おうとも、自死は許さぬぞ!」



その言葉に堪らず小さな嘲笑が零れる。

一礼して扉を閉めれば、廊下には襟を乱したハルクがへらりと立っていた。


「起きたか……あのくらい気絶せずに付いて来い」


「一介の竜には無理でしょうよ。珍しく王太子殿下が吠えておられましたね」


「相手は花嫁でなくともいいからせめて子を残して死ねと言いたいんだろう……お前はここに残って手厚い看病を受けたらどうだ」


「私の服を誰が脱がすかで女官たちの争いが起きたので、そっと抜け出して来ました。平素であれば看病がてら襲われても構わないのですが、今は戻るべき場所がありますので」


「ならば早く帰るぞ……心音を聞いていないとどうにも落ち着かない」


「顔色は見るからに酷いですが、ご体調は?」


「最悪だ…耳鳴りとはこんなにも精神を削るものなのだな。彼女は長い期間これに耐えていたのだと思うと……」


キィキィと続く耳障りな音に頭まで痛くなってきた。

堪らず不満を口にしながら痛みを振るい落とすように首を振ったところで、不意にスッ…と胸が冷たくなった。


その途端、


開いていた扉が閉じられたかのように

細い糸がふつりと途切れたかのように


繋がりが、唐突に失われてしまった。




「………イリリア?」



「アズハル様?」


「花の繋がりが途絶えた……急ぎ、戻る!」



これまで感じた事がないほどに激しい動悸が身体を満たす。

どこもかしこも心臓になったのではと思うくらいにドクドクと鼓動の音が響いてうるさい。


竜の姿に変じて、追い風の中を出せるだけの速度で飛ぶ。

遠くに竜の姿が見え、こんな明るい時間帯に飛ぶのはもしやと思い一瞬だけ速度を緩めれば、イリリアの側に居るはずの人物が目の前で立ち止まり、隊士らしくこうべを垂れた。


「サディオ!」


「っ、ルゥルゥから、伝言でございます。お花様は、山際から雲下へ向かわれるご様子。カイスが時間稼ぎのために、陛下のご実家の方へと、お連れしております」


「直ちに向かう。離宮にて待て」


「御意に」



向かい風を飛ぶのは苦しかっただろう。

息も絶え絶えに、けれども必要な情報を的確に伝えてくれたサディオを労って、目的地を変える。



なぜ今、このタイミングで離宮を離れたのか。

なぜ山際から雲下にくだろうとしているのか。


そんな疑念は放り捨て、ただひたすらに、花嫁の姿を求めて風を掴み、飛ぶ。


やがて見知った景色の上空へ至った。

ルゥルゥが力なく項垂れ、カイスに肩を抱かれたラウダが両手で顔を覆っているのが見える。


最悪を覚悟した刹那、滝雲の始まるすぐ近くを細い身体がふらふらと歩いているのが見えた。


飛ぶのをやめると同時に人型にもどり、降り立つ。

風圧で転びそうになった身体を掴み止めてようやく、間に合ったのだと理解した。



けれども。



透明に微笑んだイリリアから、胸の傷痕を見せられた時は心がとまった。

もう終わりなのだと現実を突きつけられて、

運命を繋ぐ花の(しるし)が今はどこにもないのだという事実に、目の前が真っ暗になる心地だった。



(なぜだ……)



「幸せになって」などと言われても、すべて失ったこの先に、そんなものがあるはずもない。



(ただ、ふたりで幸せになりたかっただけなのに……)



ようやく得たものを、何故、目の前で奪われなければならないのか。



運命の行く末を自分で選び取れなどと言われたところで、欲しいものなどもう何もない。


最愛の花嫁も

幸福の在処も

生きる意味も


何もかもなくなってしまった。



イリリアを連れて行こうとするように雲下へ向かって風が吹く。


最後の最後に「ありがとう」と笑った、その顔はまるで、花が綻ぶようで。


花印など無くとも、彼女こそが私の花そのものなのだと理解した。




未来も希望も何もない場所へ向かおうとする身体を強引に抱き寄せて、唇を重ねる。


誓いの言葉などどうでも良かった。ただ、彼女をひとりぼっちで死なせたくはなかった。


雲下に落ちるならば一緒がいい。

風に裂かれ、氷雪に嬲られようとも。

死してなお共に居たいと……ただひたすらに悲しい未来を覚悟する。



最期まで一緒だと誓いが返され、柔らかな唇が触れる。

離れ難い気持ちが湧いて、何度も繰り返し重ねたくなる。

それなのに、そっと唇を離したイリリアは念願叶ったとばかりに、儚く美しく微笑むから。



「………これまでで一番幸せ」



穏やかすぎる笑顔に泣きながらどうにか微笑み返して、両手で抱きしめる。

こんなにも幸せそうにしてくれるのなら、儀式など気にせずもっと早くに口付けていればよかったと後悔しても、何もかもがもう遅い。



不意に、彼女の背を支える手に何か生温いものが触れた。


視線を落とせば、イリリアの左胸が赤く染まっている。

彼女が自ら刺したという痛ましい傷痕は、瘡蓋が剥がれたのか血が溢れ出していて、それを見下ろしたイリリアは「あの日みたい……」と泣きそうな顔で呟いた。


そして暮れかけた瞳でアズハルを見上げると

冷たい唇をこちらの唇に触れ合わせたあと、至極美しい顔で笑った。



ありがとう…、と聞こえた気がした。



柔らかな微笑みが、花が閉じるように消えていく。


膝から崩れ落ちた彼女を抱き寄せる。



胸も、背中も……赤く、紅く染まって……



終わりを覚悟した。

何もかもが消えてしまったのだと…。




物言わぬその身をどれくらい掻き抱いていただろう。

夕焼けに染まる雲の中へ共に飛び込もうかと視線を巡らせ、ふと、イリリアの身体にまだかすかな熱が残っていることに気付いた。



(………………ぬくもりが、消えていない……?)



抱きしめた身体はくてりと力を失っているが、触れた手のひらには低めの体温が伝わってくる。

顔に頬を寄せれば微かな呼吸の音がする。

衣服をずらして胸の傷痕を確かめると、血にまみれた皮膚の下に、青紫の花が咲き開いていることに気づいた。


慌てて背中を確かめようとしたが、羽織が邪魔でうまく捲れない。


咄嗟に声を張り上げる。

生きているのなら………生きる可能性があるのなら、絶対に繋がなくてはならない。



「ルゥルゥ!」



声が届いたのか、あるいは近くまで来ていたのか。

涙を拭って転がるように駆けて来たルゥルゥに、胸の花が戻っていることを告げる。


「ラウダ、来て!カイスは他所を向いて!」


「どうしたの………血が、こんなに…」


「花が戻ってるの………まだ生きてる!」


血に染まった花嫁を悲痛な眼差しで見たラウダは、ルゥルゥの言葉に目を驚愕に見開くと、慌てて外套を脱がすのを手伝ってくれる。

赤く濡れた衣服を捲れば、背中にも美しい花が一面に咲き乱れていた。



「屋敷へ連れて行く!陛下より自由に使って良いと貸し与えられている!」


「カイス!離宮の方へ運ぶから警備に話を付けてきて頂戴!すぐに!!」



幼少期に離宮として宛がわれていた建物へ急いで運び込み、ベッドが汚れるのも構わずにイリリアの身体を横たえた。

ルゥルゥが脈を取るあいだ、ラウダと共に血まみれの服を脱がせて肌を拭う。


「本当は儀式前の殿方に触れさせるわけにはいきませんけれど、今ばかりは特別ですからね…!」


「アズハル様、誰かに父さんと母さんを呼んで来るよう命じてくれませんか!?」


「わかった。スハイルも呼ぼう」


血を拭ったあと、着替えまでを手伝って、一度部屋の外に出る。室外にはカイスとハルク、そしてドルバが並んでいた。

どうやらイリリアを竜車で運ぶ際、先ぶれを出すためにドルバが走ってくれたらしい。

「離宮の方が少々手薄ですが、全体の采配はユスリーに任せています」という報告に、感謝しながら頷く。


全速力で飛翔するアズハルにこそ置いて行かれたが、サディオから事情を聞いたのかここまで追って飛んできたハルクは、最早死にそうな顔で息を乱し脇腹を押さえている。


「離宮からスハイルとサディオ、シャイマを呼んできてもらおうかと思ったが……ハルクは飛べそうにないな」


「私が飛びましょう。問題なければそのまま離宮に留まり、警備の任に戻ります」


「助かる。ドルバ、良ければラナーにも声を掛けてくれるか?イリリアの着替えを数枚持ってきて欲しいと言ってくれ」


「アズハル様の着替えも共に持たせましょう。お気づきでないかもしれませんが、色が付いておいでですよ」


指摘されて服を見れば、たしかに前面が真っ赤に染まっていた。

すぐに離宮へと戻ってくれたドルバを見送り、さてどちらを先に休ませるかと思っていると、トタトタと廊下を走ってくる足音がした。

目を向ければ、緊張した面持ちのシナンが駆けてくるところだった。



「お疲れ様です!こちらで見回りの訓練をしておりましたところ、アズハル様とお花様がおいでになったと聞き、ご挨拶に参りました。隊長からは、何かしらの指示があった場合は優先的に従うよう言われております…!」


アズハルの血塗れの格好にぎょっとしつつも敬礼を示したシナンに「良いところに来た」と言えたのはおそらく、花が戻ったことで、心に少しばかりの余裕が出来ていたからだろう。


「カイスとハルクを休ませたいのだが、交代要員が居なくて困っていたところだ。離宮からサディオが到着するまでのあいだ、扉前での警備を頼みたい」


「はい!」


「では私が上の者にひと声掛けて参りましょう。その後はこちらの一室を休憩所として使わせていただきます」


「シャイマとラナーが着き次第ラウダを休ませるから、大きめの部屋をふたりで使うといい。ハルクは…」


「ここでは貴方と散々駆け回って遊びましたからね、部屋の場所はわかります。お言葉に甘えてひと足先に休ませていただきます」


その前に、と姿勢を正したハルクは、表情を整え深く頭を下げた。


「御身に手錠をかけましたこと、改めてお詫び申し上げます」


「花嫁の為であったという事情を考慮し、今回は不問とする。ただ、イリリアには包み隠さず話すから、彼女から叱られた場合は然るべき罰を受けるように」


「はい。……怒りますかね?」


「どちらかといえば…引き摺られる姿が見てみたいと言いそうな気がするな」


それはしんどい…!と冗談めかして嘆いたあと、ふらふらと部屋に下がったハルクを、シナンは驚きの表情で見ている。

一体何があったのだろうと聞きたそうにしているが、事情を説明するのは全部落ち着いてからだと言えば、はい!と元気に返事が返された。


「花嫁がこの部屋で眠っている。どのような事情であれ、勝手な立ち入りは許可しない。訪問者は廊下で待たせ、私に声を掛けるように。室内にいない場合は戻るまで待て」


「かしこまりました!」


姿勢良く扉前に立つシナンに警備を任せ、室内へ戻る。

イリリアは綺麗に整えられて寝台に寝かされており、ラウダたちは汚れたリネンや服を片付けたりと忙しそうだ。


勝手知ったる場所のため、手や腕についた血を洗い落としたあと、何か着替えがあっただろうかと衣装部屋を覗けば懐かしい服が状態良く保存してあった。

よく見ればイリリアが今着ているのもアズハルが幼少期に着ていたもののようだ。

サイズの合いそうなものを見繕って手に取り、部屋の隅で着替える。

ひとりで身なりを整えているアズハルを見てラウダが慌てていたが、彼女の服や手も、今は汚れている。小難しい儀式衣装を着るわけでもないから気にしなくていいと手早く着替えを済ませ、寝台の横に腰掛けた。



顔色は白いものの、穏やかな呼吸音と表情にようやくひと心地つく。


身を屈めて額に口付けを落とそうとすれば、何か気になる夢でも見たのか、むずがるように眉が寄せられた。

そして小さな声で「あずはるさま…」と寝言が囁かれる


それがとても嬉しくて……目からは自然と涙が落ちた。










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