27. 臨命終時
長い長い眠りから覚めた心地だった。
沈み込んだ意識の向こうで果たした幻のような邂逅の名残りが、頭の端っこに引っ掛かったまま。
そしてこの目覚めがもう最後なのだという強い予感がしていた。
天井に刻まれた見慣れた木目に、日常の片鱗を感じて小さく安堵する。
視界の端に白が揺れて一瞬だけ身を強張らせたものの、それが愛おしい人の頭だと気づいて身体の力を抜いた。
ベッド脇に伏して眠る男性の、白銀の髪に手を差し込む。
起こさないように静かに静かに撫でていると、頭皮に小さな突起があるような気がして指先で慎重に探る。
(あら?……これは……)
もしかしてツノの先っぽだろうかと思っていると、小さな呻き声のあとに、伏していた男性が思い切りよく顔を上げた。
「イリリア…!」
と必死の表情を向けられたが、それよりも、頬に浮かぶ鱗の片鱗と、縦長の瞳孔に肝を抜かれる。
思わず「竜っぽい……」という感想を漏らしてしまったイリリアに、アズハルはハッとしたように手で顔を隠した。心なしか爪も伸びているような気がする。
「すまない、みっともない姿を見せて……」
そういえば竜人にとって、鱗やツノを見られるのは恥ずかしい事だったなと思い出す。
とはいえツノは髪に隠れて見えていないし、鱗も頬に薄く浮いている程度。瞳孔の具合が変わるのは予想外だったものの、別に恐ろしさなどはなかった。
大丈夫ですよと言いながら重たい両腕を伸ばす。
その頭を引き寄せながら、隠すならここを使ってくださいと胸元に抱き込んだ。
乳房と心臓の上に成人男性の頭部がのしかかったが、その重さすら今は心地よい。
「イリリア……重いだろう」
「全体重をかけられると潰れるので……こっそり踏ん張っていてください」
毛布で顔を隠すから離して欲しいと言われたため、離さないぞという意思を込めて、腕と胸でぎゅっと頭部を挟んでおく。ついでにツノに触れないよう気をつけながら頭をよしよしと撫で続ける。
アズハルは暫く抵抗を見せたものの、何を言っても離してもらえないと観念したようで、重かったり苦しかったりしたらすぐに教えてくれと小さな声で降参の意を示した。
部屋に少しだけ沈黙が流れる。
ドクドクと自分の鼓動の音が聞こえる。
生きている音には違いないものの、普段よりも早く荒々しい。
言葉を探しているような気配を感じて「アズハル様」と呼び掛ければ、胸元に抱き込んだ身体が一瞬だけ強張った気がした。
「……ずっとそばに居てくれて、ありがとう」
眠っている間の記憶はないけれど、今の姿を見るに……きっと、無理を通してそばに居てくれたのだろう。
息を呑む気配のあと、小さな小さな声で、「そばに居ることしか出来なかった…」と悔恨に満ちた呟きが聞こえた。
その声はひどく苦しげで、自分の無力さを噛み締めているかのようで。
「………本当に?」
「………イリリア?」
「本当に、そばに居る以外のことはしていないんですか?汗を拭いてくれたり、水を含ませてくれたり……ここまで運んでくれたのも、別の人?」
見慣れた天井に、馴染みのある香のにおい。
説明されずともここは南の離宮にある花嫁のために誂えられた寝所だとわかる。
自分が倒れたのは王宮だった筈だから、誰かがあの無惨な状態の自分を抱えて運んでくれたのは間違いない。
ハルクやサディオさんが運んでくれた可能性もゼロではないから、アズハル様以外が抱っこして運んだんですか?と重ねて聞けば、アズハルは小さく頭を横に振った。
撫で続けている手のひらを通して動きが直に伝わってくる。
「他にはどんな事をしてくれたんですか?お着替えのお手伝いとか、額への口付けとか…?」
「着替えはいつも通りラウダたちがおこなった。額への口付けは何度か……それと、血を…」
「血?」
「竜の血は人間にとっては万能薬だと聞いたから、血を飲ませようとしたのだが……ルゥルゥとスハイルに止められてしまった」
「………。」
医者ふたりのファインプレーに心の中で称賛を送る。
確かに地上では竜の血は万能薬として取引されるが、本当に効果があるのかは不明だ。
世の中には血を媒介にした病気もあると聞くし、たとえ薬なのだとしても、正直あまり…他人の血を飲みたいとは思わない。
でも、大事な血を分けてでも助けようとしてくれた気持ちだけはしっかり受け取ろうと思う。
そろそろ腕を外して欲しいとお願いされたため、逃げないようにと念を押して頭部の拘束を解く。
顔を上げたアズハルの顔はすべて元通りで、縦長だった瞳孔は普段通りに戻り、頬の鱗もすっかり消えていた。
ほんの僅かな時間だったけれど、抱え込んでいたのが花印のある左胸だったのが良かったのかもしれない。
どこか気恥ずかしさと気まずさのない混ぜになった表情を見ながら、イリリアは先ほどまで鱗が浮いていた頬にそっと指先を触れさせた。
「アズハル様」
ん?と耳を傾けてくれる仕草も
指先を握り込んでくれる大きな手も
鈍色の星が瞬くような濃紺の瞳も
私だけを見てくれる、真っ直ぐな愛情も
なにもかもが、愛おしい。
「……大好き」
言ってから少しだけ恥ずかしくなったけれど、瞠目したアズハルが至極嬉しそうに微笑んでくれたから、伝えて良かったなぁと思う。
「私も……とても好きだ」
低い声が心を震わせる。
貴方に会えたから今があって……貴方に会えたから、こんなにも幸せな気持ちを知ることが出来た。
「ありがとう…」
これ以上の言葉はうまく出てこなくて、諦めるように目蓋を閉じた。
意識はすぐに深く引き込まれて行き……
白くて昏い場所に至る
灰白色の幹を持つ大樹の前に座す白き竜が
燃えるような赤い瞳でこちらを見据えていた。
鋭い爪の生えた手が、ただひとつ残された竜胆の花を摘む。
『 』
鋭い咆哮と共にそれは握り潰され……
紫の花が、儚く散った。
▼
そこは白い世界だった
白き髪を持つ赤い瞳の竜人は、初めて頂の地へと辿り着いた者。
黒き髪を持つ青い瞳の竜人は、霊峰の頂を竜人の国にせんと使命を抱いた者。
目の前で繰り広げられる二人の竜人のゆく末を、ただ見つめることしかできない。
天上に咲く小さな花を摘み取っては滝雲へと流す白き髪の竜帝に、
美しい女性を伴った黒き髪の竜王が、いい加減にしろと苦言を呈した。
「伴侶を悼む気持ちはわかるが、お前が子を生さねば天上は栄えぬ!次の竜帝の座を奪い合って争いが起きるばかりだ!」
「……争いたいのであれば争えばいい。我が妻は天に届かなかった……この滝雲の下で、今も寒さに震えて泣いている」
「死んだ者は寒さも感じず泣くこともない!彼女の遺骸はお前自身が確認したのだからわかっているはずだ!」
「そうだな………流れ落ちる雲の濁流に呑まれ、骨を砕かれ肉を裂かれ…無残な姿に成り果てた我が妻の死を、我はこの目で確認した。
彼女は最期の最期まで天へ至ることを渇望していた……だが、我が天へ至ろうなどと言わず、どこかの洞穴にでも身を寄せていれば、彼女は死ぬことはなかった」
「食糧も碌にない場所に閉じ籠ったところでただの無駄死にだ。お前がここを見つけたお陰で我らは再び繁栄の兆しを得た!我々はここから新たに始まるのだ。新しい嫁を娶り子を生せ!お前には強い血を後世に残す義務がある!」
「……断る。竜帝という名など、一番に天へ至ったという事への称号でしかない。天上を治める役目は竜王であるお前に任せる……お前の妻は残っているのだから、愛しき妻と子を生し、いくらでも繁栄すればいい」
それきり口を閉ざし、滝雲を眺め続ける竜帝に、竜王とその妻である女性は背を向けた。
美しい女性が「あなた…」と気遣わしげに黒き髪の竜王に声を掛けたが、竜王は「あいつはもうダメだ」と首を横に振った。
「だが、何としてもあの血筋を残さなければならない。誰が真なる統治者かを明確にせねば、象徴となる者を立てねば、この奇跡の地は争いで穢れてしまう」
「だとしても……」
「あいつの妻と友人だったお前には酷な話かもしれないが、必要なことなのだ。白き髪を持つ竜人は一人しかいない。別に婚姻を結び直さずとも良い。ただ、あの血を継ぐ子を、誰かが孕めばそれで…」
黒き髪を持つ竜王は、隠し持っていた禍々しくも見える塊を握り締め、決意を固めた。
「竜涎香……これを使えば、意思に関わらず身体は反応する」
竜の理性を乱す禁断の薬。
竜王はそれを密かに竜帝の寝所に仕込み……夜枷の女を送り込んだ。
理性が飛び、記憶すら蒙昧になるほどの劇薬。
薬が切れたことで己の身に変異が起きたことに気づいた竜帝は、竜王の元へ急いだ。
そこで知らされた事実に、友だと思っていた男の身勝手すぎる言葉と行動に、竜帝は怒りを露わにすると、牙を剥き出し爪を立て、竜王を薙ぎ倒した。
倒れ伏し、苦しげに呻く竜王を踏み付ける竜帝の足に、美しい女が縋り付く。
「おやめください!どうか、どうか…!!」
「妻以外の女と交わり子を生せと言うお前の業の深さ……最愛を喪ってみればお前にも我の気持ちがわかるだろうよ」
「きゃあ!?」
「や、やめろ…!!」
美しい女の髪を掴み上げ雲下へ投げ捨てようとする竜帝に、傷を負った竜王が力を振り絞って飛びかかる。
二人は縺れ合い、鋭い爪を突き立てながら争った。
竜帝の爪が竜王の脇腹を裂いた時、衣服の隙間から隠し持っていた竜涎香が転げ落ちた。
竜帝は竜王に渾身の一撃を喰らわせると、暗澹とした色を宿すそれを緩慢な仕草で拾い上げる。
「………こんなもので、我が妻への恋情を汚し、この肉体を弄んだのか…」
竜帝は、脇腹から血を流しながら大地に伏す竜王と労わしげにその横に沿う美しい女を睥睨すると、竜涎香を雲下に蹴り落として静かにその場を去った。
竜帝と竜王のあいだに埋められぬ溝が出来ておよそ三年……
春めいた天上に、ひとつの産声が響いた。
汗と涙と血にまみれた美しい女が産み落としたのは、力強い産声をあげる、白き髪を持つ子竜。
出産に関わった女たちは驚きながらも、その誕生を大いに喜んだ。
「お生まれでございます!尊き白き竜、竜帝陛下の御子にございます!」
「念願の…!素晴らしい誉れだわ!彼女が国を救ったのよ!」
産所から出てきた女たちの声に、黒き髪を持つ竜王はただただ立ち尽くした。
「白い髪……だと…?」
竜王は脇腹を裂かれたあとも、白き竜の価値を下げることはしなかった。
白き竜の子を産め、そうすれば国母になれるぞ。そう言って女たちを焚き付けた。
竜帝も夜な夜な慈悲を求める女たちの数の多さと強引さに諦めたのか幾度か寝所に連れ込んだと聞いていたため、ようやく己の使命を自覚したかと思っていたのだ。
それなのに、なぜ、自分の妻の腹から白き髪の子竜が生まれたのか…。
理解を拒む竜王の背に、暗然とした声が掛けられた。
「ようやく我が玉がカタチを為したか……お前の望み通りになったのだから、もっと喜んでみせよ」
「貴様…!我が妻に何をした!!」
「何をだと…?国母となるのは誉れであると女共を焚き付けたのはお前だろう。お前の妻は真っ先に我が元へ来て、国の為にその身を差し出したのだ」
「我が妻が望んでそのような事をする筈がない!!」
「そうだな…泣いていたさ。だが、白き竜の血を残せと執拗だったのは他ならぬお前だ。夫の過ちを気付かせるために彼女は自ら地獄に身を委ねた。
我と交わることが、長らくの友人であった我が妻を裏切ることになろうとも、夫であるお前を裏切ることになろうとも、その身と心を穢す覚悟のうえで我が元に参った」
産所から支えられて出てきた美しい女の目からは、とめどない涙が流れていた。
細い腕には白き髪を持つ子竜が抱かれて……薄く開かれた赤子の瞳は、彼女と同じ、透き通るような青色をしていた。
「裏切り者共め……お前など、お前らなど、呪われろ!呪いのなかで零落すればいい!」
青い瞳を焔のように燃え上がらせ狂い喚いた竜王は、剣で自らの首を刺し貫いた。
血を浴びせるかのように勢いよく剣は引き抜かれ、白も黒も無関係に、誰も彼もが真っ赤に染まる。
ガボゴボと溺れるような苦しみのなかで紡がれた言葉が、呪いのようにその場を穢す。
死にゆく夫に駆け寄ろうとした美しい女を、竜帝がその手で制した。
「子には母親が必要だ……お前はもう、そこには戻れぬ」
女は腕の中にいる白き髪を持つ子竜と、床に伏した恋しい男の亡骸とを見比べ……諦めるように目を閉じた。
せめてと、一輪の花を竜王の身に添えた。
やがてそれは、白き竜の運命を狂わせる花として、深く深く刻まれることとなる。
ひとつの終わりを見たイリリアは、正面に視線を戻した。
大木の前に鎮座する大きな白い竜は、燃えるような赤い瞳でイリリアを見下ろしている。その足元には一輪だけ咲いた、竜胆の花。
『花の印は、我が妻の無念と黒き竜王の呪いが根付いたもの』
否応なく脳に響く言葉を、感情なく受け止める。
『我が妻は天に至りたかった……死の間際まで天を求めた。健気で儚きその祈りを叶えるために、お前は印を得た』
天に至ったお前はもはや用無しだと言わんばかりの物言いに、イリリアはようやく閉ざし続けていた口を開いた。
「天に至りたいと願うのが印であるのなら、なぜ、既に天に住んでいる竜人にまで印が刻まれるの」
『我が妻のもう一つの理想と願い……天上にて最愛の夫と共に、幸福に生きること』
「私はまだ、その願いは叶えてあげていない」
『人間風情が、竜人の妻を名乗ると言うか…?』
失笑されたところで、イリリアの胸には何の感情も湧かない。
むしろ竜人たちの古い古い呪いの輪の中に強制的に引き摺り込んでおきながら、どうして否定されなければならないというのか。
目の前にいる白き竜の主張は身勝手なものだった。
竜人族に宿る星花の印は理想への羨望。
異種族に宿る唯花の印は天上への渇望。
ゆえに、それぞれ果たすべき使命は違うのだと。
であれば、白き髪の王族が唯一無二の花しか愛せないのは、血塗れになった初代竜王の呪いの顛末だろうか。
何が真実で何が妄言であるのかは定かではない。
燃えるような赤い瞳はギラギラと狂った色を宿しているのに、最愛の存在について語るときには悲しいほどに虚ろになる。
彼が初代竜帝だというのであれば、その身はとうに朽ちている筈。
思念として残っているのだとしても、長い長い時間のなかで狂い続け…もう、正しい言葉すら紡げないでいるのだろう。
それでも彼が残り続けるのは、天に至る花の中に、零落した妻の執着の欠片を探し見るためかもしれない。
狂気の矛先がこちらを向く。
彼の赤い瞳には憎しみの炎が灯り、それは一瞬で赤々と燃え上がった。
『人間め……』と腹に響く唸り声。
人間さえ居なければ、竜人は霊峰という厳しい環境に追いやられることはなかった。
それは確かに人間の罪ではあるものの、イリリアの罪ではない。そんな説法をされたところで聞く耳を持とうとも思わない。
『いつだったか……ここへ至った人間の花嫁は、図々しくも我に問うた。
なぜ自分が竜人の花嫁になったのか…なぜ運命の花は王族にしか捧げられないのか、と…』
絶望と無念、理想と憧憬、悲嘆と呪い、……深い感情と運命が絡まって刻まれるものが花印だとその竜は言う。
『その人間に、対話するだけの余地を残してやったのは、何も哀れんだからではない。長い時間をかけてじわじわと苦しめ弱らせるためだ』
竜の背後に禍々しく聳え立つ大木は竜血樹という名を持つ。
その根元には初代竜帝の亡骸が埋められ……いや、初代竜帝の亡骸を埋めた箇所に、その木が芽吹いたというべきか。
類い稀な生命力を宿すその木から取れる樹液は、竜人たちにとっては最上級の霊薬なのだと言われ、イリリアは自分の身に起きたであろうことを瞬時に理解した。
おそらくアズハルは、イリリアの命を繋ぐためにその竜血樹の樹液を治療に使ったのだろう。
そこに人間を恨む初代竜帝の怨念が残されているとも知らず……
花の裁きを受けた時と同じように、この命を救うためにと、貴重な霊薬を惜しみなく使ってくれたに違いない。
竜血樹と聞いて、直前にファティナから受けた花嫁教育の内容を思い出す。
天上に於ける竜人の繁殖行為の前には、竜血樹の樹液を使った薬が供される。
竜にとっての命の源……玉を宿しやすくする為に、興奮剤のなかに極少量混ぜられる。
以前の人間はその仕組みを利用されてしまった。
少量ずつ、けれども確実に身に取り込まれた呪われた樹液が、じわじわと身を侵し、人間の花嫁から正気を奪っていった。
そして花嫁は現と夢幻の境を忘れ……花の誓いを破り、死を迎えた。
目の前の亡霊がアズハルのことを「あれは愚かしいほどに弱く、哀れな竜だ」と口にする。
イリリアはそんな亡霊を強く強く睨みつけた。
今までの人生のなかでこんなにも憤りを感じたことはない。
遥か昔に死した亡霊によって、ようやく得た幸せが刈り取られることが許せなかった。
狂った赤い目がイリリアを射抜く。
その爪先が、唯一残る竜胆の花を引き抜き、摘み上げる。
『花の裁きを逃れた人間よ。お前は醜く、踠き苦しみながら死ぬといい』
ぐしゃりと花が握り潰される。
喜びか、憤りか。
白き竜の咆哮と共に紫色の花弁は無惨に散り……
イリリアの意識も白の世界から遠く吹き飛ばされた。
▼
………………重い。
身体はひたすらに重く、胸は潰れそうなほどに苦しい。
それでもどうにか気力を振り絞って身を起こせば、部屋の片隅に居た少女が椅子を揺らして立ち上がった。
「イリリア様…!」
(肺が重苦しい……目が霞む………)
返事ができないまま胸を押さえていると、駆け寄ってくれたルゥルゥが背中を支えてくれた。
「強い霊薬を使わせていただきました、苦しくていらっしゃるでしょう」と気遣わし気な声が、胸に沁みる。
「………………ァズハルさま、は?」
どうにか絞り出した声は掠れていて、ルゥルゥは手早く水の入った湯呑みを渡してくれた。
「ハルクと共に王宮へ呼ばれております……今はイリリア様の傍を離れられないと再三申し上げたのですが、これ以上は待てないと殿下から強い催促が来まして……」
なんとなく、何故王宮へ呼ばれたのか理解できた。
きっとアズハルは、イリリアを助けるために無理を通して強い霊薬を入手し、使用したのだろう。もしかしたら無断で使ってしまったのかもしれない……となれば、今頃は叱られている可能性もある。
(罰を受けなければいいけど……)
一度目覚めた時、アズハルは鱗さえ隠せない状態になっていた。
あれが昨夜の事なのか数日前の事なのかはわからないけれど、あのような状態で罰を受けては、彼の身が危険に陥りかねない。
イリリアの懸念に気づいてくれたのか、ルゥルゥは「陛下に謁見するだけだと仰っていました。今回の件は王宮という陛下のお膝元で起きた事…花嫁が傷つけられた被害者であるアズハル様が、懲罰の対象になることはありません」と口にする。
胸を撫で下ろすと同時に、深い深いため息を吐き出す。
吸って…吐いて。
意識的に深呼吸をしていなければ、簡単に意識が飛んでしまいそうだ。
(あとどれだけ……保つだろう……)
少なくともアズハルが戻るまで待つ猶予はない。
警備としてハルクの代わりにカイスが残っていると聞き、今すぐに呼んできて欲しいと伝える。
「それと、外に出るための着替えをお願い」
外という言葉を聞いてルゥルゥの顔が強張った。
王宮へ行く必要はございませんよと言われたが、そうではないと首を横に振れば、可憐な顔がくしゃりと歪められた。
「イリリア様……どうか、アズハル様が戻られるまでお待ちに…」
「ルゥルゥ………ごめんなさい。あまり、時間がないの」
今ここで斃れるわけにはいかないと説得すれば、一筋の涙と共に頷いてくれる。
「っ………急ぎ、ラウダとカイスを呼んで参ります。隣室にラナーが待機しておりますので、先に着替えを手伝うよう伝えますので」
「……ありがとう」
唇を噛み締めて部屋を出るルゥルゥの背に、心の中でごめんなさいを伝える。
彼女が主治医となってからまだ数ヶ月だというのに、何度も何度も難しい場面に立ち合わせてしまった。
(初対面の時から、吐血に失明だっかたら……大変だったろうな……)
間を置かずにラナーが入室して、事情を聞いたのか泣きそうな顔で身支度を手伝ってくれる。
どうやらここは離れではなく、アズハルの私邸のようだ。
天窓から差し込む日差しが少しずつ傾き始めている。
寝間着の上に幾らかの防寒具を重ねるだけで構わないと言ったのだが、律儀にもお散歩やデートの時に纏う、温かな外出着を一式出してくれた。
駆けつけたラウダは何も聞かず、一緒に身支度を手伝ってくれる。
「寒くありませんか?指先が冷えておられます……手袋をご用意いたしましょう。儀式用にと誂えたものがありますので…」
指先まで覆うタイプの美しい手袋を持ってきてくれたラウダに「ありがとう」と告げれば、その水色の瞳は水を湛えたように潤んだ。けれど、ぐっと奥歯を噛み締めて涙を押し留める。
「……アズハル様がお泣きになる前に、わたくしが泣くわけには参りません」
着替え終えると、既にぼろぼろと泣き出しているラナーを一度ぎゅっと抱きしめて、「ありがとう」と「楽しかった」と伝えて身を離す。
短い間だったけれど、心温まる時間を過ごすことができた……それだけで十分に胸は満たされている。
本当はもっとしっかりとお別れをしたいけれど、残されている時間が少なすぎるのだ。
今ここで息絶えるわけにはいかないという気持ちだけで身体を動かす。
ラウダに支えてもらいながら寝室から出て、隣室に待機していたカイスに霊峰の山際まで連れて行って欲しいとお願いする。
「それが貴女のご決断ですか」と問われたため、「そうです」と端的に答える。
こちらの目を真っ直ぐに見据えたカイスは、了承の意を込めて小さく頷いてくれた。
「お連れいたします。抱えるわけには参りませんので、練習用の竜車にお乗りください」
「ありがとうございます。滝雲のところまでで構いません……あとは風の流れに身を任せるだけですから」
その言葉にラウダは再び奥歯を噛み締めたようだったが、イリリアは見えないふりをした。
離宮の入り口で、竜車の支度が出来るのを待つ。
外はこれまで感じたなかで最も寒く、頬や耳先の感覚は早くも失われてきている。
息をするだけで肺は凍るように冷たくて、生きるために必要なものがじわじわと削り取られていく感覚がある。
凍える風に向かって、はぁ……と肺の奥深くから白い息を吐き出す。
(………キス、したかったなぁ…)
別に口付けに固執していたわけじゃないけれど、幸せを分かち合うためのわかりやすい手段として、唇を触れ合わせたかった。
キスをして微笑み合う、そういう普遍的な『幸せ』を表す光景に、小さな憧れもあったのかもしれない。
もう叶わない願いを捨て去るように深く深く息を吐く。
戻ってきたルゥルゥが、主治医として同行すると頑なだったため一緒に竜車へ乗ることになった。ラウダは護衛の数が足りませんのでと、まだ日が高いにも関わらず竜の姿で並走してくれるようだ。
留守を任されたラナーとシャイマに改めて御礼と別れの言葉を告げて、竜車に乗り込む。
竜車のなかでルゥルゥはずっと黙っていた。
これまでのお礼や最後のお別れを言いたかったけど、一点を見つめたまま必死に祈るような耐えるような難しい表情をしていたため、口を挟めないまま。
ばくばくと壊れそうな速さで動く心臓に、もう少しだけ保ってと祈りながら、滝雲の始まりの地へ辿り着くのを待つ。
普段の何倍も長く感じた移動時間を終えて、竜車は緩やかに止まり、カイスが外から扉を開けてくれた。
支えられながら降り立った地は、思っていた場所と少し違っていた。
「ここは……陛下の、ご実家…?」
「此処も大滝雲のそばに違いありませんので」
カイスの言葉は間違っていないため、小さく頷いて、連れてきてくれたことへの礼を述べる。
見渡す限りの草原には、ちらほらとアズハルと共に口にした思い出の草も混じっていて、何だか懐かしい気持ちになりながら、ルゥルゥやラウダに最期の別れを告げた。
言葉を発する度に肺にガラスが刺さるような痛みが走る。
けれど、もう少しだからと言い聞かせ、どうにか表情を整えた。
「たくさん迷惑をかけたのに、何も残せなくてごめんなさい。………私が言うべき言葉ではないかもしれないけど、どうか、この先も、アズハル様をよろしくお願いします」
深く深く頭を下げる。
それから、一歩一歩踏みしめるように、大滝雲のはじまる霊峰の山際へと歩み始めた。
草食デートをしたときに「昼の滝雲も見てみるか?」と連れて行ってくれたため、山際までの道筋は覚えている。
熟れると黒くなる実を付ける低木の横を通って、甘い草の茂みを越えた向こう側。
あの時はアズハルが寄り添って歩いてくれた道を、今度はひとりきりで進む。
一歩踏み出すごとに息が途切れ、身体が重くなっていく。
終わりへ向かっているのだと思えば、心も重い。
やがて足元に薄い霧が立ち込め始め、這い上がるような冷気が、滝雲の始まりが近いことを告げた。
雲に飛び込むといえば聞こえはいいが、実際には物語のようにはいかない。
強靭な鱗を持つ竜人ですら飲み込みズタボロにしてしまう気流の渦は、イリリアの脆弱な身体など一瞬で粉々にしてしまうだろう。
花印のあった胸元に手をあてる。
今、そこにはもう花の模様は残っていない。
夢で邂逅した初代竜帝……あの白き竜が散らせたのか、別の要因があったのか。
どちらにせよ自分はもう、高所に馴染むための奇跡の恩恵を失ってしまった。
竜が言ったようにあとはもう、惨めに死ぬしかないのだろう。
(だけどこれ以上、あの人に悲しい思いはさせたくない……)
寒さに耐えきれず凍え死ぬのであればまだしも、今の自分の状態を鑑みるに、おそらくは悶え苦んだすえに狂死し、凄惨な姿で息絶えることになるだろう。
怪我を負った姿すら彼には大きな負担だったに違いない。立て続けにそんな無残な姿を晒して、拭い去れない傷を残したいとは思わない。
(せめて消えるように……最初から私なんて、居なかったかのように……)
奇跡的な繋がりは途絶え、花が消えたのだから、記憶も一緒に消えてくれればいいのに。
そんな事を思いながら、もうもうと立ち込める雲の始まりに向かって、身体を引き摺るように歩く。
不意に、ぴゅうと一陣の強い風が吹いて、踏ん張りきれなかった身体が傾ぐ。
足が縺れて転びそうになったところを、背後から誰かに抱き止められた。
視界に白い髪が翻り、すぐ近くで、慌てて駆けて来たかのような荒い息遣いが聞こえる。
振り向いた先に居た人物に、ただただ、驚いた。
「アズハル様……」
「イリリア……」
肩で息をするアズハルが、離すまいとイリリアを抱く手に力を込める。
「花の………繋がりが消えたから、急いで王宮から離宮へ戻っていたところで…行き会ったサディオから、イリリアが下へ向かおうとしていると聞いた…」
「………追いかけて来てくれたんですか?」
額に浮かんだ汗がどれだけ急いで来たのかを物語っていて。
先ほどの強い風はもしかするとアズハルが飛んで来た余波だったのかもしれない。
「当たり前だ……急いで下りる必要があるのなら、すぐに向かおう……」
まだ呼吸も整っていないのに、イリリアを抱え直そうとするアズハルの腕を手のひらで押して遮る。
眉をひそめたアズハルに「手を離して」と言えば、一層に眉間へ皺が寄る。
「イリリア………どこへ、向かうつもりだ」
聞いたことのない低い声には、隠しきれない疲労が滲む。
いくら飛ぶ力が強いアズハルでも、中心地にある王宮から南の端まで全速力で駆け抜ければ激しく体力を消耗したに違いない。
元より万全な状態でないのだから、早く休んで欲しいと思う。
そのためにも、ちゃんと真実を告げなければ。
もう終わりだって、この口でお別れを言わないと。
アズハルの腕から抜け出して、一歩距離を取る。
再び伸ばされようとした手を拒んだ。
どこへ行くかなんて、決まっている。
「私が本来、行くべきだった場所へ」
過去も未来も、何もない場所へ。
何を言わんとするか理解したのか、アズハルの顔に悲嘆の色が浮かぶ。
一度ギリリと奥歯が噛み締められ、彼の口から苦鳴に満ちた慟哭が零れ出る。
「ダメだ……許さない、それは裏切りに他ならない!私を裏切らないと花に誓っただろう!?誓いを破ればどうなるか、分かっているはずだ!」
「……花はね、もうないの」
「……ない?」
先ほど自分で『繋がりが切れた』と言っていたのに、その事実をまだ受け止めきれていないのだろうか。それとも、どうして切れてしまったのか、わからないのだろうか。
寒くないようにとたくさん重ねてくれた服の合わせを掻き分けて、胸を晒す。
美しく凛と咲いていた竜胆の花印は影も形もなく、そこには鋭利なもので刺し裂いたような無惨な傷が残るばかり。
「傷跡みたいになっちゃった」
出来るだけ明るく告げたつもりだったのに、アズハルの顔は絶望に歪んだ。
よろめくように一歩下がった彼に、それでいいと微笑みかける。
イリリアも一歩下がる。
開かれた距離は、隔たれた関係は、もう二度と元に戻ることはない。
「花は千切れて枯れて、私と貴方の運命はもう、切り離された」
胸の傷を触ったところで、温かさなど感じない。
醜く引き攣れた肌と、瘡蓋になりかけた赤い痕跡……自らの手で刻んだ罪が残るばかり。
「貴方は花を失ってしまったけれど、それは喪失じゃない。これからの貴方は自由で、どこにだって行ける。誰を選ぼうと咎められないし……どんな運命だって自分の手で切り開ける」
解き放たれた運命はアズハルの手に戻った。
花の残滓は唯、未練を残さず消えるだけ。
「どうか…幸せになって。私も、皆も、アズハル様の幸せを願ってる」
最期に願いをかけていいのなら、他でもない、貴方の幸せだけを願うと決めている。
だからどうかその願いが叶う日まで……幸せだと笑える日まで、生き続けて欲しい。
「その願いだけを抱いて逝くから……貴方とは、ここでおしまい」
こちらを見る夜色の瞳は絶望に染まるように暗く、昏い。
さよならの言葉は声にならず、代わりに精一杯の笑顔を向けた。
終わりの前に伝える言葉は心からのお礼にしたかった。
きっと何度伝えようと、足りることはない。
「こんな私を、好きになってくれてありがとう」
誘うように雲下へ向かって強い風が吹く。
振り返った先にあるのは滝のように流れ落ちる雲……音もなく遥か下方へ降りそそぐその白の中へ身を投じるべく、足を踏み出す。
落ちればもう、助からない。
それでも迷いはない。
大地の終わりに足がかかり、身体がぐらりと斜めに傾ぐ。
凍りつくほどの冷たい風が身体中に纏わりついて、イリリアを引き摺り下ろそうとする。途端、肩が抜けるほどの強い力で身体が引かれ、気付けば温かな腕の中に居た。
「アズ……」
ハル様、という声は、覆う唇に飲みこまれた。
身動きできない程に掻き抱かれ、息ができないほどに強く唇が重なる。
余韻を残しながら離れた唇を追って視線を上げれば、濃紺の瞳に涙を浮かべたアズハルが、祈るようにこちらを見ていた。
「命も、願いも、運命も……全部分かち合うと誓う。この顛末をすべて受け止める。だからどうか……最期の最期まで、そばに居させてくれ」
涙ながらに告げられた言葉に、イリリアの目にも涙が込み上げた。
花を失って、もう死ぬだけの人間の為に、大事な誓いと口付けを与えるなんて……
何か言おうとして、何も言葉にできなかった。
死ぬまでそばに居てくれるという事が、言葉にならないほどに嬉しくて堪らなかった。
「………そばに居てくれるの?」
「ひとりにはしない。もう誓いと口付けは交わしたのだから……誰が何と言おうと、イリリアは私の永遠の花嫁だ」
地上の大地に縋り、ひとりで泣きながら死を覚悟した夜、「誰か…」と強く強く願った。
ほんの少しでもいいから、一瞬でもいいから、誰か私を抱きしめて、と。
どうか私の命を見送って…と。
震える指先を伸ばして、すぐそばにある唇へ触れる。
終わりはもう、すぐそこまで来ているのに。
その想いに応えても、悲しみしか残らないとわかっているのに。
「私も……残るものが何もなくとも、今ある全部をあげたい」
「貰おう……そのすべてを。だから誓ってくれ……花が無くとも、もう一度、私のために」
触れる直前まで寄せられた唇に、吸い込まれるように誓いの言葉を囁きかける。
「最期の最期まで、貴方のそばにいると誓う」
胸の花はもうないけれど、私の命に懸けて誓う。
再び唇が重なって、まるで夢のようだと目を閉じた。
ややあって薄く開いた瞼の向こうには、愛おしい人の顔。
互いの瞳から涙が零れ、混ざり合って溶け落ちる。
「…………今がいちばん幸せ」
自然と浮かんだ微笑みに、アズハルの泣き笑いの表情が重なる。
泣かないで…と言おうとして、左胸にズキンと穿つような痛みを感じた。
反射的に手で触れれば、ぬめるような温い感触。
傷跡が開いて血が出たのか、手のひらは赤く染まり、まるであの日のようだわ…と小さく呟きが漏れた。
背中は引き裂かれるようにジクジクと痛み始め、きっとそちらも血が滲んでいるだろう。
膝から力が抜けて、崩れ落ちる身体は受け止められ、壊れもののようにそっと抱きしめられる。
アズハルが耐えるように奥歯を噛み締めるのが見えて、それが悲しくて、霞む視界のなかで必死に指先を伸ばして涙を拭った。
誰よりも愛しているからこそ、笑っていて欲しいし、幸せになって欲しい。
(そばにいてくれてありがとう…)
言葉にならなくとも、きっと伝わったはずだ。
意識は白に溶けていく。
孤独に絶望したあの日とは違う……優しく温かな腕に抱かれているのだから、目を瞑るのは何も怖くなかった。




