10
車は日が沈み暗くなった街を滑るように走り続けていた。
先ほどまでの緊迫した空気とは打って変わり、車内には静かな時間が流れている。
後部座席に座る大堂は、窓の外をぼんやり眺めながら口を開いた。
「なぁ」
「何でしょう?」
「お嬢様の執事って……いくらもらってるんだ?」
黒崎は思わず目を丸くした。
「急な質問ですね」
「気になっただけだ」
しばらく沈黙したあと、黒崎は静かに答えた。
「私は、金銭で動いているわけではありません」
「……じゃあ、何でだ?」
大堂の問いに、黒崎は少しだけ目を伏せた。
「昔の話になります」
車の速度は変わらない。
しかし、その声色だけが少しずつ重くなっていく。
「私は以前、裏の格闘技の世界で生きていました」
大堂は驚いたように黒崎を見る。
「ファイトマネーだけで生活していたんです」
黒崎は淡々と語り始めた。
「幸い、負けなしでした。ですが、ある試合の日――」
拳を握る。
「試合前に飲まされた水に、薬が混ぜられていました」
「……」
「身体が思うように動かず、私は初めて敗北しました」
黒崎は苦笑する。
「その試合で私が勝つ方に大金を賭けていた者たちは、納得しませんでした」
回想の中で、怒号が響く。
――『ふざけるな!』
――『俺たちの金を返せ!』
何人もの男たちが黒崎に殴りかかる。
倒れても蹴られ、立ち上がればまた殴られる。
やがて身体は動かなくなり、路地裏へ打ち捨てられた。
「……瀕死でした」
黒崎は静かに言った。
「あの日、私は人生を諦めていました」
暗い路地裏。
霞む視界の向こうで、一人の少女が足を止める。
ブランド物の白いワンピースを着た西園寺麗華だった。
『……あなた、大丈夫ですの?』
『うるせぇ』
黒崎は吐き捨てる。
『金持ちのガキが……失せろ』
普通なら、その場を立ち去ってもおかしくなかった。
しかし麗華は、一歩も引かなかった。
黒崎の前へしゃがみ込むと、真っ直ぐその瞳を見つめる。
『あなたは強い方ですわ』
黒崎は黙っていた。
『だけど、その力は誰かを傷つけるためではなく……』
麗華は優しく微笑んだ。
『誰かを守るためにあると、わたくしは思いますの』
その言葉が、黒崎の胸へ深く突き刺さった。
麗華は自ら救急車を呼び、麗華の両親と共に病院まで付き添ってくれた。
黒崎は静かに話を締めくくる。
「お嬢様は、絶望の淵にいた私を救ってくださった恩人です」
前を見据えたまま、穏やかに笑う。
「だから私は決めました。人生を懸けて、お嬢様を守ると」
車内は静まり返る。
大堂は腕を組み、小さく頷いた。
「……なるほどな」
少しだけ笑う。
「悪くねぇ話だ」
今度は黒崎が問い返す。
「あなたはどうなのですか?私には、あなたにも壮絶な過去があるように見えます」
大堂は苦笑した。
「俺か」
しばらく黙り込む。
「俺は……」
小さく息を吐く。
「ただ、大堂組組長の息子ってだけだ」
その言葉とともに、幼い頃の記憶が脳裏によみがえる。
幼い大堂は、人を殴ることすらできない泣き虫だった。
組の大人たちからは、
「組長の息子のくせに情けねぇ」
と笑われていた。
ある夜――。
自宅に怒号と銃声が響いた。
父へ恨みを持つ組織が襲撃してきたのだ。
幼い大堂は逃げ惑うことしかできなかった。
父が必死に守ろうとしてくれる姿だけが目に焼き付いている。
逃げる途中、何者かに斬りつけられた。
熱い痛みが頬を走る。
それが、今も残る傷だった。
意識が遠のく中、父の叫び声だけが聞こえた。
次に目を覚ました時には、すべてが終わっていた。
父は重傷を負い、病院のベッドで眠り続けていた。
医師は静かに告げた。
――「意識が戻る保証はありません」
その日から、大堂は組を背負う立場になった。
「……それだけの話だ」
そう言って、大堂は窓の外へ視線を向ける。
黒崎は何も言わなかった。
二人とも、辛く苦い過去を抱えている。
だからこそ、その胸に宿る覚悟だけは、どこか似ていた。




