スープ
母は、片手鍋に水を注いだ。冷蔵庫のペットボトルの水を、こぽこぽと、ていねいに。
詩織は手伝おうとして、けれど止めた。台所に立つ母の所作には、迷いがなかった。何十年も繰り返してきた動きだけは、指がまだ覚えている。コンロのつまみをひねると、青い火がぽっと灯った。母はその火を、少しのあいだ、まぶしそうに見つめた。
「お母さんのスープ、久しぶりだなあ」
詩織は壁にもたれて言った。子どもの頃、熱を出すと母はいつも玉子のスープを作ってくれた。鶏ガラと、生姜と、最後に溶き玉子を細く流し入れる。あの黄色い渦が、湯気の向こうでふわりと広がる瞬間が好きだった。
母は鍋の前で、ドアポケットの瓶をひとつ手に取った。ラベルの剥がれた、中身の分からない瓶を。蓋を開け、匂いを嗅ぎ、それから少しだけ、鍋に振り入れた。塩の袋からひとつまみ。醤油の小瓶を、ほんの一滴。
それだけだった。
具は、何も入らなかった。玉子も、ねぎも、出汁の素も。透明な湯が、鍋の中でただ揺れて、湯気を立ちのぼらせるだけだった。
冷蔵庫には、もとより入れるものがなかったのだ。あの空っぽの庫内を、詩織はもう一度思い浮かべた。母はきっと、毎日こうしてスープを作っているのだろう。水と、塩と、名前の分からなくなった瓶の中身だけで。それを、作っているつもりで。あるいは本当に、これで足りていると思っているのかもしれなかった。
「お母さん、お出汁は……」
言いかけて、詩織は黙った。母は鼻歌をうたっていた。父が好きだった、古い歌謡曲だ。音程はところどころ外れていたが、その横顔は、たしかに料理をしている人の顔だった。台所に立って、家族のために何かを作る、あの満ち足りた顔。
湯気が、母の顔の前で立ちのぼっては消えた。
その白いゆらめきの向こうで、母が笑っていた。鼻歌の合間に、ときどき何かをつぶやいている。「お父さん、もうすぐできるからね」とか、「拓也は玉子が好きだから、多めにね」とか。ここにいない人たちのために、母はスープを作っていた。記憶の中の食卓のために。
詩織は、何も言えなかった。
やがて母は火を止め、棚から椀をふたつ取り出した。父が窯元で買ってきたという、揃いの汁椀だった。縁の漆が、ところどころ剥げていた。母はおたまで、透き通った湯をすくい、ていねいに椀に注いだ。湯気が、ふたすじ、台所の天井へ昇っていった。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
詩織は椀を受け取った。両手のひらに、じんわりと熱が伝わってくる。匂いを嗅いだ。ほんのかすかに、塩と、醤油の、遠い香り。けれど出汁の、あの体の芯まで届く匂いはなかった。
ひとくち、すすった。
味は、ほとんどしなかった。
塩気が舌の先にちらりと触れて、すぐに消えた。あとには、ただ温かい水の感触だけが残った。喉を通っていく、その熱だけが、たしかにそこにあった。
詩織は、椀のふちを握りしめた。
これが母のスープなのだと、思った。鶏ガラを何時間も煮て、灰汁を丹念にすくっていた、あの母のスープが、これになったのだと。料理上手だと、近所でも評判だった人が。父が「お母さんの味」と毎晩のように言っていた、その味が。
「どう、おいしい?」
母が、覗き込むように尋ねた。その目は、子どもが作ったものを褒めてほしがるときのように、まっすぐだった。不安と、期待と、そのあいだで揺れる光があった。
詩織は、もうひとくち、すすった。
湯気が、目にしみた。たぶん、湯気のせいだった。
「……うん」と、詩織は言った。「おいしい」
声が、少しだけ掠れた。母は満足そうにうなずいて、自分の椀にも口をつけた。そして、ふと動きを止め、不思議そうに首をかしげた。
何かが足りない、というように。けれどそれが何なのか、もう母には思い出せないのだった。




